■ 議論しませんか?(議題検討スレ)


51 名前: Libra 投稿日: 2006/02/05(日) 00:07:40

(前略)

1.「仏教的信仰」という用語について

 わたしの用いた「仏教的信仰」という用語は「仏教用語」ではありません。

 Leo さんが「仏教用語は一般の言葉と同じ言葉を用いて意味が違う場合があ
る」(>>46)といわれているのは、たとえば「縁起」という用語のように、仏
教の文脈で使われる場合と、そうでない場合とでは、意味が違う場合があると
いうことだとおもいます。「信」や「信仰」という用語もそういった用語の一
つだということでしょう。

 同じことをもう一度いいますが、わめさんが「信仰」という用語を忌避され
るのはご自由です。ですが、仏教では、伝統的に「信仰」という言葉を忌避し
ておりません。仏教では、わたしがいうところの「仏教的信仰」を、単に「信」
と表現するのです。このことを正しく理解しておかないと、これまで仏教徒が
書いてきたものも正しく理解できなくなるおそれがあるとおもいます。


52 名前: Libra 投稿日: 2006/02/05(日) 00:17:08

2.《仏教における「信」》と《批判的合理主義における「命題の合理的保持」》

 「ポパーの批判的合理主義を「自分で確かめて」支持するのも仏教的信仰と
なってしまうと思います」[*1]というわめさんのご主張ですが、これについて
は、わたしは、以下のようにお答えしておきます。
 
 「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論の部分について
は、仏教と批判的合理主義はその結論においてぴったりと重なるとおもいます。

 《仏教において肯定されている「信」》と《批判的合理主義における「命題
の合理的保持」》は、「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一
般論の側面においては、内容的には同じといってよいとおもいます。そういう
側面にのみ注目していえば、仏教で肯定される「信」は、仏教においてのみ肯
定されているわけではないということができます。

 さて、批判的合理主義というのは、「われわれが命題に対してとりうる態度
のうち、合理的といいうるのはどのような態度か」ということをメインテーマ
としているといってよいとおもいます。

 これに対して、仏教は、「われわれが命題に対してとりうる態度のうち、合
理的といいうるのはどのような態度か」ということをメインテーマにしている
わけではありません。批判的合理主義のような態度を当然の前提として、「で
は、われわれは、具体的にいって、どの命題を合理的に保持しうるのか」とい
う次のステップに挑戦しているのが仏教です。仏教は、保持すべき具体的な命
題(縁起説)を提示したうえで、それによって人は苦から開放されるとまでい
っています。仏教的信仰のこの側面にまで注目すれば、わめさんのようなご主
張は成り立たないとおもいます。わめさんは、仏教的信仰とそれ以外との間に
ある大きな違いに気が付いておられず、それゆえに、それらを一緒くたにされ
ているのではないでしょうか。

 仏教は、「命題の合理的保持」という点については、批判的合理主義のよう
な考え方を当然の前提としているといえますが、その点について詳細に議論を
展開しているわけではありません。ですから、仏教徒にとっては、自分たちが
立っている当然の足場をさらに論理的に掘り下げたものとして、批判的合理主
義の議論は傾聴に値するとおもいます。


53 名前: Libra 投稿日: 2006/02/05(日) 00:18:57

3.「慧に基づいた信」の「慧」について

 「慧に基づいた信」と「信は慧の因」が一見ループしているように見えると
いうのはおっしゃるとおりでしょう。しかし、文脈からすると、両者の「慧」
は、同じ「慧」という用語で表現されているとしても、そのレベルが異なるも
のと理解すべきでしょう。前者の「慧」はそれによって「煩悩の一分を断じて
いる」ところの「慧」ということなので、後者は、それによって煩悩を断じき
っているレベルの「慧」ということでしょう。

 もっとも、このような説明は、「慧」というものを、《もっとも低レベルの
もの》と《もっとも高レベルのもの》に理念的にわけたものにすぎず、実際の
「慧」というのは、この中間を、「スパイラル」にどこまでも運動していくも
のであるとわたしは理解しています[*2]。

 あと、「如来に対する信が確立して根を生じ」るのは、如来の説が「反駁し
得ないものとして説」かれているとしか思えないからでしょう[*3]。


54 名前: Libra 投稿日: 2006/02/05(日) 00:19:39

 [註]

  [*1] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/144

  [*2] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/130

  [*3] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/93


55 名前: Libra 投稿日: 2006/02/05(日) 00:54:45

>>50

 Leo さん、こんばんは。

 (仏教徒ではない)わめさんが、(仏教ではない)わめさんオリジナルのお
考えをどのように表現されようとも、それは全くの自由だとおもいます。

 ただ、シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはあ
りませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております。

 わたしがいいたかったのはただそれだけのことなんです。

 「議論しませんか?」という本来のテーマでいうと、わたしが個人的に興味
をもっているのは、「ガンジーと対立しながら民族運動を展開し、〔中略〕つ
いにはカースト制度の元凶はヒンドゥー教にあるとして、数十万人を引きつれ
て仏教へ集団改宗した」[*]というアンベードカルですね。曽我さんの解説を読
む限りでは、アンベードカルの仏教理解は、わたしの仏教理解とも近そうです。


  [*] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha240.html


59 名前: Libra 投稿日: 2006/02/05(日) 07:15:19

>>57、>>58

 わめさんは、今回、「理解はできませんが師匠が言うのですからそのように
受け止めるよう心掛けます」と返答されたわけですが、少なくともわたしはそ
のようなことは要求していません。わめさんもそのようなことはしたくないで
しょう。わたしが「苦痛」といった意味をどうか勘違いなさらないで下さい。

 わたしの苦痛は、わめさんが同意されないことに起因するものではけっして
ありません。というのも、わたしは、最初から、わめさんに同意などは求めて
いないからです。このことも、以前、申し上げました[*1]。

 わたしが苦痛に感じるのは、同じことを何度も書かなければいけないことで
す。

 「「信は慧の因」の信が「仏教的信仰」と言えるかどうかは不明」とのこと
ですが、不明なのでしたら、どうか頭をお使いになって、はっきりとお分かり
になるまでお考えください。「信は慧の因」の「信」は、初期仏教でいえば、
「信解脱」のことです。「信は慧の因」の「慧」は、初期仏教でいえば、「慧
解脱」のことです。

 今回、わたしの「シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどとい
うことはありませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきて
おります」との発言に対して、わめさんは「私もそのように思っております」
と返答されました。これを見たとき、正直、わたしは自分の目を疑いました。
もし本当にわめさんが最初からそのように思っておられたのだとすると、わた
しは何も言う必要はなかったようにおもいます。

 しかし、わめさんは、「ブッダは”信仰を棄てよ”とおっしゃっております
が、その仏教においてもブッダ及びその教えを”信仰していく”のは如何な訳
かもわけわかめ」[*2]といわれています。この発言が、上のことを理解された
上でのものだったとすれば、わたしからみれば、わめさんのご発言は「わけわ
かめ」です。

 以下は、わめさんの上記ご発言の前段部分に対するわたしの批判のひとつで
した。

  ─────────────────────────────────
   そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現 は、この文句が埋め込ま
  れている文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそ れまでにはなかった斬
  新な見解に到達した》ということを、従来の見解と の対比において描写し

  たものであると捉えるのが自然だろうとおもいま す。この文句が埋め込ま
  れている文脈から、《信仰の対象を限定せずに、何 かを信仰すること一般
  をすべて否定している》という解釈を導き出すのは ひどく困難だとおもい
  ます。

   そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサが いうように、「当時の
  諸宗教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味 に解釈するのが妥当だとお
  もいます。中村先生もこのオーソドックスな解釈を 紹介され、かつ、肯定
  されています。

  (http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/92
   ─────────────────────────────────


60 名前: Libra 投稿日: 2006/02/05(日) 07:16:54

 わめさんは、「信仰を捨て去れ」という表現が埋め込まれている文脈を少し
でもお調べになりましたか。この句は、「釈尊がさとりを聞いたあとで梵天が
説法を勧めるが、そのときに釈尊が梵天に向って説いた詩のうちに」、あるい
は、「成道後の経過を述べるところに出てくる」のです[*3]。その文脈をとら
えて、中村先生ですら、「恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条(ドグ
マ)に対する信仰を捨てよ、という意味なのであろう」[*4]といわれているの
です。

 少なくとも、「信仰を捨て去れ」という句は、その文脈から考えて、「命題
に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論を述べたものなどではな
いでしょう。「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論を述
べたものとしてあげるとすれば別の箇所にされるべきでしょう(かつてバート
リーがそうしたように[*5])。

 わめさんが今回お認めになられたように、シャカは「信」という言葉を肯定
的にも使っています。たとえば、『スッタニパータ』第184詩に、「ひとは
信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり
ます。もちろん、仏教徒は、「命題に対してわれわれがとるべき態度」につい
てシャカが述べたことをもきちんと理解しています。

 以上のような理解にもとづいて、「仏教徒がシャカの教えを信仰する」こと
は「わけわかめ」なことなどではないということを、わたしはすでに述べまし
た。今回述べたことは、そのほとんどがすでに述べたことの繰り返しにすぎま
せんから、わめさんは、これまでと同じく、同意はされないでしょう。わたし
も、もうこれ以上は書けません。

 あと、ここまでの議論を追跡された読者の方々(そのような方はおられない
のかもしれませんが)に対して最後に言っておきたいのは、わめさんのご主張
のほうを正しいとおもわれるのであれば、素直に、わめさんのご主張のほうを
支持して頂きたいということです。

(後略)

  [*1] 輪廻転生について
     http://fallibilism.web.fc2.com/bloglog3_003.html

  [*2] 宗教はやっぱり好きになれない
     http://wame.seesaa.net/article/10650360.html

  [*3] 『スッタニパータ』第1146詩に付さ れた註(『ブッダのことば
      スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、pp.430-431)
     を参照。

  [*4] 同上。

  [*5] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原 誠)
     http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

2006.02.05

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