■ 日蓮考察
72
名前: Libra 投稿日: 2006/01/27(金) 04:21:11
みれいさん、みなさん、おはこんばんちは。
2月に入ってしまうと、しばらくはここに来れそうにありませんので、一瞬
だけ参加してみようとおもいます。
みれいさんは、あいかわらず鋭いことを書かれていますね。
道元と親鸞についてはわたしも興味がありますが、話が別の方向にそれると
いけないので今回はおいておきます。
「法華宗団として成り立たせるならば安楽行品ももう少し力を注いでくれた
らいいのでは」というみれいさんのお考えも、検討に値する立派なアプローチ
だとおもいます。しかし、わたし自身は、逆方向のアプローチもまた検討に値
するのではないかと考えています(みれいさんのアプローチの妨げにもならな
いとおもいます)。
わたしは、日蓮の「宗教の生命は、〔中略〕折伏逆化にこそある」[*1]と考
えています。日蓮の折伏は「理性的批判」です。
みれいさんのアプローチとの対比でいえば、わたしの考えは「勧持品をもう
少し正しく実践してもらいたい」というふうに表現できるかもしれません。
勧持品に相当する考えは、初期経典にもみられるようにおもいます。たとえ
ば、『ダンマパダ』第77詩などは勧持品と同趣旨といってもよいようにおも
います。
─────────────────────────────────
七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことか
ら(他人を)
遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人
からは疎まれ
る。
(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波
文庫〕、岩波
書店、1978年、p. 21)
─────────────────────────────────
「勧持品の如きは深位の菩薩の義なり」というのは、たしかにそのとおりな
のかもしれないなとおもいます。悪人から疎まれるのを覚悟で、他人を訓戒し、
教えさとすなどということは、まさに「真の知性人」にしかできないのかもし
れません。
日蓮にいわせると、「勧持品を実践している自分こそが深位の菩薩なのであ
る」ということになるのだとおもいます。「行為によって卑しい人ともなり、
行為によってバラモンともなる」[*2]という発想からいえば、日蓮のいうこと
もわたしには理解できます。
73 名前: Libra 投稿日: 2006/01/27(金) 04:21:55
さて、問題はここからです。つまり、創価学会が行っているシャクブク
(以
下、単に「シャクブク」と略記します)は、はたして、日蓮の折伏と同じく
「理性的批判」といえるのだろうかという点です。もし、シャクブクが「理性
的批判」といえるものであるならば、大いにやってもらいたいとわたしはおも
います。
創価学会では、「対話」という言葉が、シャクブクと同じような意味で使わ
れることがありますが、それは以下のようなものだそうです。
─────────────────────────────────
本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言
葉」。リングは万
人普遍の「理性」。
権威をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。沈
黙は「敗北」。
論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑われる
だけだ。
(『聖教新聞』、「羅針盤」、2000年11月12日、8
面)
─────────────────────────────────
この「羅針盤」に説明されている「対話」は、たしかに「理性的批判」とい
えるだろうとおもいます。
ということは、実際におこなわれているシャクブクが、上でいわれているよ
うな「対話」でありさえすれば、何の問題もないということになります。
しかしながら、現実には、万人普遍の「理性」から大きく飛翔し、名誉博士
号がどうしたなどという権威をもちこみ、ときには沈黙し、ときには論証もな
く「私は、こう思うんだ」などといって観客から笑われている創価学会員がい
るということでしょう。「無限に喜劇的」[*3]というのは、まさにこういうこ
とをいうのだとおもいます。
「理性的批判」ができるのであれば、大いにやってもらいたいとわたしはお
もいますが、それができないのであれば、無理して日蓮の真似をすべきではな
いとおもいます。伊藤先生は「おのれの非を言われぬために人の非を言わぬ腹
黒い手合いの多い末世の中にあって、人の非を言い人を厳しく批判した聖人は、
したがっておのれに対しても厳しくあった。そのことを知らずして末代の教徒
が守文の頭で真似すべき事では決してないのである。」[*4]といわれています
が、わたしもそのようにおもいます。
シャクブクの場合、シャクブクをおこなっている当人が「観客から笑われ」
るだけではすまず、他人に深刻な精神的なダメージを与えるなどの問題を引き
起こすことがおおいにありうることを考えれば、やはり、みれいさんのアプロ
ーチは本当に鋭いなとおもいます。
[*1] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
http://fallibilism.web.fc2.com/005.html
[*2] 釈尊は輪廻転生説を否定した(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/077.html
[*3] 「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
http://fallibilism.web.fc2.com/095.html
[*4] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
http://fallibilism.web.fc2.com/005.html
75 名前: Libra 投稿日: 2006/01/27(金) 23:34:06
みれいさん、こんばんは。
「日蓮さんがご存命の頃から多くの非難を浴びていたということは、〔中略〕
日蓮さん自身が自分を勧持品に当てはめているところからすでに始まっている
のではないか」というご指摘に対しましては、>>72 に書きましたような意味で、
わたしは日蓮を弁護したいとおもいます。
わたしは、伊藤先生と同じく、日蓮を「真の知性人」として高く評価してい
ます[*]。わたしが日蓮をそのように評価するのは、日蓮の発言やふるまいに
貫かれている批判精神をとても優れているとおもうからです。
「真の知性人」がおられて、その方の合理的批判が、「反発をくらう」とい
う結果をひきおこしたとしましょう。そのようなときに、その方が、ご自分の
状況を勧持品とか『ダンマパダ』第77詩に当てはめたとしても、わたしはそ
のかたに非難を浴びせようとはおもいません。
これとは反対に、ただ単にトンデモなことを言って「反発をくら」っている
だけであるにもかかわらず、その状況を勧持品とか『ダンマパダ』第77詩に
当てはめて、自己を正当化しようとしている人を見かけたとしたら、わたしは
おもわず失笑するか、場合によってはその人を批判するでしょう。
[*] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
http://fallibilism.web.fc2.com/005.html
84 名前: Libra 投稿日: 2006/01/29(日) 04:24:02
85 名前: Libra 投稿日: 2006/01/29(日) 05:54:06
みれいさん、おはこんばんちは。
まず、「摂受か折伏か」についての日蓮宗内の論争についてですが、残念な
がら、わたしは、その中身を全く追跡しておりません。ですが、もし追跡した
とすれば、おそらく、全面的に伊藤先生の説の方を支持することになるのでは
ないかと予想します。
つぎに、みれいさんの「日蓮さん=知性の人、というのがまだどうもすんな
りと飲み込めません」という印象についてですが、そういう感覚は、とても常
識的といいますか、そういう感覚をおもちの方はとても多いだろうと予想しま
す。特に、「戦闘的」というイメージは、ぴったりあたってるなとおもいます。
ただし、その場合の「戦闘」とは「論争」ということです。
わたしは、学者になるための訓練をうけたことがあるので、実感としてよく
わかるのですが、一流の学者というのは、「われわれの代わりに理論を死なせ
る」[*]という観点をもっており、真剣勝負でおたがいの理論を斬り合うもの
です。そういう意味で、一流の学者ほど「戦闘的」であるというのがわたしの
実感です。もっとも、こういった感覚は、常識的ではないのかもしれません。
とはいえ、そんな日蓮でも、学者でもなんでもない人にたいしてコメントす
るようなときには、学者の意見を反駁するときにみせるのとは全く別の顔をみ
せていたようにおもいます。そのギャップの大きさも、日蓮の魅力の一つだと
わたしはおもいます。
さいごに、道元と親鸞についてですが、恥ずかしながら、わたしは、この二
人の大学者を全くといっていいほど追跡しておりません。ただ、わたしが尊敬
する仏教学者である松本史朗先生、袴谷憲昭先生、小川一乗先生などが曹洞宗
あるいは真宗のご出身であることから、道元と親鸞からは、わたしも多くのこ
とを学ぶことができるのではないかと予想しています。もっとも、わたしは、
仏教を本格的に研究できるという立場にはありませんので、道元と親鸞につい
て、わたし自身が本気で追跡してみるという機会はおそらく得られないのでは
ないかとおもっています。
[*] 以下を参照されてください。
──────────────────────────────
批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘すること
により、批判
される対象と現実を直面させる試みである。そしてそ
の目的は、
批判対象をよりよきものにすることにある。この意味
では、批判は
その対象に対する真剣な関心の現れである。それは批
判の対象を改
善するきっかけ、チャンスなのである。だから、批判
や反駁を受け
入れることは改良への一ステップである。
(蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から
見た日本的組
織の諸問題−」、
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html)
──────────────────────────────
──────────────────────────────
日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出し
た者の人格と
容易にむすびつけてしまう強い傾向がある。〔中略〕
こうした傾向
が強いところでは、批判即人格攻撃と受け取られてし
まうだろう。
しかしそうであるからこそ、行動や、思想と人格を切
り離し、たと
え理論が誤っていたとしても、「われわれの代わりに
理論を死なせ
る」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されて
くる。
(同上)
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90 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 01:59:11
わめさんへ
今、拙文をブログの『宗教はやっぱり好きになれない』に投稿しようとしま
したが、うまくいきませんでした。
かわりにこのスレッドに投稿しておきます(↓)。
91 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 01:59:59
1.はじめに
わめさんは、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という言葉を、《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉だと解釈されているようですが、
このような解釈は妥当ではないとわたしはおもいます。わたしがそのようにお
もう理由を以下に述べてみたいとおもいます。
以下では、まず中村元先生の説を批判しようとおもいます。というのも、中
村先生が、わめさんと同じような解釈をしめされているからです。なお、以下
にわたしが引用する中村先生のご発言は、すべて、Leo さんのご教示によりま
す(わたしは、現在、仏教関係の資料をほとんど所持していませんので、Leo
さんに協力して頂きました)。この場をお借りして、Leo さんに深く謝意を表
します。
92 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:00:37
2.中村説批判
さて、中村先生は、「信仰を捨て去れ」という表現を解釈される中で、「最
初期の仏教は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった。何となれば、信ず
べき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。」[*1]と
主張されています。
このご発言からは、《仏教には「信ずべき教義もなかった」》という中村先
生の独特のお考えが、中村先生が上のような解釈を肯定される根拠のひとつに
なっていることがわかります。しかしながら、この《仏教には「信ずべき教義
もなかった」》という説は、松本史朗先生の批判[*2]に耐えていないとわたし
はおもいますので、上のように解釈すべき根拠にはならないとおもいます。
そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現は、この文句が埋め込まれて
いる文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそれまでにはなかった斬新な見解
に到達した》ということを、従来の見解との対比において描写したものである
と捉えるのが自然だろうとおもいます。この文句が埋め込まれている文脈から、
《信仰の対象を限定せずに、何かを信仰すること一般をすべて否定している》
という解釈を導き出すのはひどく困難だとおもいます。
そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサがいうように、「当時の諸宗
教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味に解釈するのが妥当だとおもいます。
中村先生もこのオーソドックスな解釈を紹介され、かつ、肯定されています。
「当時の諸宗教に対する信仰を捨てよ」ということは、「仏教を信仰せよ」
ということとなんら矛盾しません。矛盾しないどころか、全く同じことをいっ
ていると主張することさえ可能だろうとおもいます。
『スッタニパータ』第184詩には、「ひとは信仰によって激流を渡り、
〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり、そこではある種の「信仰」
が肯定されていますが、ここで「信仰」と訳されている原語もやはり「サッダ
ー」です[*4]。この詩が「遅い層」であるという証拠はありませんから、この
点においても、中村先生の解釈には無理があるとおもいます。
中村先生は、『ダンマパダ』第333詩に付された註においては、「信仰―
―saddhA. 漢訳『法句経』に「信レ正」とあるように、正しいことを信ずるの
である。これが仏教における「信」の特質である。」[*5]といわれています。
わたしもこのご意見に賛成ですが、中村先生のこのお考えは、「最初期の仏教
は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった」とされるご自身のお考えとは
両立しないとおもいます。中村先生は矛盾しているとおもいます。
93 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:01:15
3.仏教的信仰とは
上記したように仏教がある種の「信仰」を肯定しているからといって、仏教
がすべての「信仰」を肯定しているわけではもちろんありません。「当時の諸
宗教に対する信仰」が否定されているのはもちろんのこと、たとえそれが仏教
に対するものであれ、何に対するものであれ、なにかを権威として絶対視する
ようなある種の「信」のありようは明確に否定されていたとおもいます[*6]。
わめさんもお認めになられたように[*7]、「信仰」には「盲信」[*8]と「そ
うでない信」とがあるわけですが、「ブッダは、〔中略〕ブッダ自身の教えに
もまた執着するなかれと説いている」のだとすれば、このようなブッダの説を
信じることをも含意する仏教の信仰が「盲信」でありえないことはあきらかだ
とおもいます。仏教は、「盲信」を否定するものであるとわたしはおもいます。
では《仏教において肯定される「信仰」》(以下、「仏教的信仰」と略記し
ます)とはいったいどのようなものなのかということがあらためて問題となり
ます。
仏教的信仰とは、ブッダゴーサの言葉を借りれば、「自分の確かめたことだ
けを信ずる」[*9]ということなのだろうとわたしはおもいます。すなわち、シ
ャカの教えを自分で確かめてみて(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないも
のとして説」[*10]かれているとしか思えない時に生じるのが、仏教的信仰なの
だろうとわたしはおもいます。だからこそ、仏教においては、《教えは「反駁
し得ないものとして説」かれなければならない》などということが強調されて
いるのではないでしょうか。
もし仏教的信仰が上のようなものであるとすれば、それは、牧口常三郎の考
え[*11]にもつながるし、三証[*12]を強調する日蓮の立場ともつながるとおも
います。
藤田正浩先生は、「原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであ
り、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信であ」り、「慧に基づいた信」である
が、「浄土教における信」や「如来蔵思想に見られるような性格の信」は、
「自己の理解し得ないものを信ずる」という構造を持つ「慧を絶した信」であ
るといわれ、両者は「同じ信とはいうものの全く次元を異にする」といわれて
いますが[*13]、わたしはこの藤田先生の説を支持します。
94 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:01:50
4.
日蓮の信は仏教的信仰といえるか
日蓮は「信は慧の因」[*14]といいますが、ここでいわれている「信」とい
うのは、聞法位のことであり、「知識・経巻によって一実の菩提を聞き、通達
解了して名字即に登る」[*15]ということです。だとすれば、日蓮がいうところ
の「信」というのは、先に引用した「釈尊の教えを聞いたあと生まれる信」と
いう藤田先生の説明ともぴったり一致するとおもいます。
また、日蓮が「信」を「慧の因」というのも、
《「原始仏教で解脱〔中略〕と言えば、普通には心解脱、場合に
よっては
慧解脱や倶解脱を指す」が、「これらの前段階に一段
低い最初の解脱が
あり、それが信解脱〔中略〕と言われている。信解脱
の内容は、慧によ
って煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信
が確立して根を生
じていることとである」。「まずこの信解脱が重視さ
れ、このあと心や
慧の解脱へと進む」》
という藤田先生の解説とぴったり一致するようにおもいます。
つまり、日蓮がいうところの「信」というのは、初期仏教でいえば「信解脱」
に対応するものであり、「信は慧の因」というのは、さきに引用した、「ひと
は信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とい
う詩(『スッタニパータ』第184詩)にあらわれているような初期仏教の考
えに対応するものであるということができるとおもいます。
95 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:02:25
5.『法華経』の信は仏教的信仰といえるか
『法華経』の信の性質については、以下に引用する田村芳朗先生の説をわた
しは支持します。『法華経』の信は、「原始仏教の信」と異なるものではない
とわたしはおもいます。
─────────────────────────────────
『法華経』でも、信仰は各所に強調されている。しかし
そこでの原語は、
シュラッダー(信)か、アディムクティ(信解)であ
る。他にプラサーダ
(澄浄)が一つか二つ使われている。これら三語とも、
バクティのような
絶対者にたいする絶対信を意味しない。仏道への入門に
さいし、心をあら
ため、心を決め、心を浄めることをいう。その上で修行
にはげみ、智慧を
みがいて悟りに達するのである。
右のごとき信仰の観念は仏教を一貫して流れるもの
で、〔中略〕『法華
経』でもこの基本線は保たれているので、たとえば、分
別功徳品第十六
(第十七)で一念の信あるいは信解を強調しながら、そ
れらは五波羅蜜を
こえるが、「般若波羅蜜は除く」と説かれている。つま
り、悟りにいたる
(パーラミター)六つの実践行為(六波羅蜜、六度)の
うち、智慧(プラ
ジュニャー 般若)のみは最後的なものとして信の上に
置かれたのである。
(田村芳朗『法華経』〔中公新書196〕、中央公論
社、1969年、p.92、
※原語表記は省略して引用)
─────────────────────────────────
96 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:03:00
6.まとめ
今回は、まず、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という表現を《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉であると解釈することは困難であ
るということを示し、そして、《仏教において肯定される「信仰」》とはどの
ようなものなのかということについてのわたしなりの理解を述べてみました。
そのうえで、『法華経』およびその信者である日蓮や牧口の「信」についても
一瞥してみました。
97 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:03:37
99 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 03:52:54
みれいさんへ
みれいさんが今回提起された勧持品がらみ問題については、わたしはだいた
い述べたいことを述べおわったようにおもいます。
わたしのほうは、またしばらく忙しくなりますので、少なくとも半年くらい
はここには来れないとおもいますが、またいつの日か、お付き合い頂ければさ
いわいです。
とはいえ、少しだけまだ時間がありますので、以下に、3点だけ補足して、
おわりにしたいとおもいます。
1.創価学会における「日蓮神格化の拒否」の歴史について
わたしは、さきに、「日蓮を本仏として神格化することを創価学会員として
明確に拒否した最初の人物は松戸行雄さんだと〔中略〕おもいます」(>>84)
とかきました。
しかし、日蓮を名指ししてはいないものの、初代会長の牧口常三郎が、すで
に、「如何にして、如何なるものを信ずるかといふに、如何に信用し、崇拝す
る人の言論でも、自分の経験に合致するものか、若くは実際の生活に当て嵌め
て見て妥当するもの即ち実験証明の出来たものゝ外は、容易に信ずる訳には行
かなくなったのが、現今に於ける多少に拘らず教育を受けたものの実際の状態
である。」「斯くして吾々は、如何なる偉人の言でも、軽々には信服しないと
同時に、如何に賤しい無名の人の言でも、苟くも自分の経験と合致し、若しく
は実験証明の挙げられたものには事の善悪得失の如何に拘らず、何人も素直に
承認し、それに服従しなければならぬこととなつた。是又理性の然らしめる所
である。」[*1]といっています。
上でいわれている「崇拝する人」や「偉人」のなかには、当然、シャカも日
蓮も入りますから、実質的には、初代会長の牧口によって、すでに日蓮の神格
化は拒否されていたということができるとおもいます。
また、「松戸さんのご主張は、創価学会の内部では、ほとんどまじめに議論
されることもなく無視されてしまいました」(>>84)ともかきましたが、実際
には、完全に無視されたというわけでもなく、以下のような形で取り入れられ
たようにおもいます。
─────────────────────────────────
名誉会長 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の
生き方」から離れ
てしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果
は、仏教の堕落であ
り、権威化です。
(池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、
1998年、p. 49)
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─────────────────────────────────
名誉会長 さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発
迹顕本」にこそ、
「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが
込められているの
です。ここでは、このことを少し考えてみよう。
(同上、p. 50)
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─────────────────────────────────
斉藤 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれまし
た。大日如来を崇め
る真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を
父母として、どの
ような国に出現して大日経をお説きになったのか」
(御書一三五五n、
趣意)と破折されてます。
(同上、pp. 68-69)
─────────────────────────────────
《「人間・釈尊」を忘れると「師弟の道」はなくなり、それは、仏教の堕落
であり、権威化である》という上記の主張にしたがうなら、《「人間・日蓮」
を忘れたら、「師弟の道」がなくなり、それは、仏教の堕落であり、権威化》
であるということに当然なりますから、日蓮の神格化はやはり拒否されたこと
になります。
[*1] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
http://fallibilism.web.fc2.com/024.html
100 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 03:55:40
2.「地獄に落ちるぞ」というセリフについて
日蓮は、「地獄」は「我等が五尺の身の内に」あるとか、「我等がむねの間」
にあるといっています。
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抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は
地の下と申す経文
もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづ
ね候へば我等が五
尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が
心の内に父をあな
づり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候
(「十字御書」、学会版全集、p. 1491)
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─────────────────────────────────
夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等が
むねの間にあり
(「上野殿後家尼御返事」、学会版全集、p.
1504)
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─────────────────────────────────
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて
浄土と云ひ穢土と
云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えた
り、衆生と云うも
仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば
仏と名けたり
(「一生成仏抄」、学会版全集、p. 384)
─────────────────────────────────
《「地獄」は、この世界とは別のところに存在している世界のことなどでは
ない》というのが日蓮の基本的な認識です。「浄土」についもおなじです。
これにたいして、法然の念仏は、《念仏を唱えることによって、死んだあと
に、この世界とは別のところに存在している「浄土」に生まれ変われる》とい
うものです。
日蓮は、この世界とは別のところに存在している「浄土」などをもとめる人
(念仏信者)の心は、「真の浄土」とはもっとも遠いところ(すなわち地獄)
にいると考えていたのです。
101 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 03:57:09
3.『法華経』と縁起説の関係について
縁起を説く詩(「法身偈」とか「縁起法頌」とよばれています)で終わって
いる『法華経』があります。縁起法頌とは以下のようなものです。
─────────────────────────────────
いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を
説かれた。そして、
それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。
(中村瑞隆『現代語訳 法華経
下』、春秋社、1998年、p. 221)
─────────────────────────────────
舎利弗がこの縁起法頌を縁として仏道に入ったいう話はとても有名です。
イントロダクションともいえる序品をのぞけば、《『法華経』で説かれるす
ごい教え(妙法)とはいったい何なのだろう》ということが最初に問題にされ
るのは、いうまでもなく方便品です。その方便品の主人公として《縁起法頌を
聞いて目覚めたことで有名な舎利弗》を作者が採用し、最後に縁起法頌をズバ
リもってきているのは、《妙法とは縁起である》という主張のあらわれである
ようにわたしにはおもえます。
法華経の中心思想は「縁起」であり、「空」であるとおもいますが、法華経
はそれを「もっぱら実践的関心に即して表現しようとした」[*2]ものであると
わたしは理解しています。
「空の思想」の実践とは菩薩行であり[*3]、法華経は全編にわたって菩薩行
を説いています。
法華経は「空の思想」について哲学的な議論を展開するものではないとはい
え、空について直接説いている箇所もあるという点につきましては、Leo さん
のご指摘のとおりです。
[*2] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思
想』、平楽寺書店、
1969年、p. 400。
[*3] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにし
た慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/069.html
102 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 05:25:04
わめさん、おはこんばんちは。
わめさんがおっしゃるように、ブログに投稿できなかったのは文字数超過が
原因だったのだと推測します。
goo辞書の「経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態
度」というのは、仏教では否定される「信仰」だとおもいます。goo辞書のこ
の項目を書かれた人は、おそらく、仏教の信仰というものをご存じないのでし
ょう。
わたしとしては、「信仰」という言葉を goo辞書 のような意味でのみつか
わなければいけない理由などはないし、実際、>>95 で引用した田村先生もそ
のような意味でつかわれてはいませんので、わたしが「信仰」という言葉を使
ったとしても、そのことによって、わたしの言いたいことが他人につたわらな
くなるともおもえません。そういう意味では、「信仰」という言葉のままでも
よいのではないかとわたしはおもうのですが、もしわめさんがそこにこだわら
れるのであれば、「信仰を捨て去れ」の中の「信仰」を含めて、たんに「信」
と読み替えて頂いても問題はないようにおもいます。「信」は日蓮もつかって
いる言葉なのでよいかもしれません。あるいは、「信仰を捨て去れ」という句
において「信仰」と訳されている原語の「サッダー」のままのほうがよいかも
しれません。
わめさんは、「「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」を区別する場合に、同
じ「信仰」という言葉用いることに私は抵抗感があります」といわれますが、
肯定すべき「信」について述べているところでも、否定すべき「信」について
述べているところでも、初期経典では同じ「サッダー」という言葉がつかわれ
ているということをわたしは示しました。そういう意味では、わめさんは、初
期経典にも同様の抵抗感をお感じになられることとおもいます。わめさんのそ
の抵抗感は、わめさんと初期経典との間のズレに起因するものなのではないで
しょうか。
少なくとも「信仰を捨て去れ」という句については、その句が埋め込まれて
いる文脈がかなりはっきりしています。この句を、goo辞書のような意味での
信仰を一般論として否定したものであると解釈することはひどく困難だとおも
います。たしかに切り文的にこの句だけを提示されたとすれば、ふつうの人は
そのように解釈するのかもしれませんが、それはたんに切り文だったというこ
とであって、あの句の解釈として誤っているということは動かないでしょう。
そのような切り文は、切り文をした人の思想を伝えるものではありえても、シ
ャカの思想とは無関係というべきではないでしょうか。
わめさんは、「合理的なことを信仰するとか信じると言うのが適切なのでし
ょうか?」といわれますが、ブッダゴーサも「自分の確かめたことだけを信ず
る」といっていますし、中村先生もそれを「合理主義の立場」[*]といわれて
いますから、「信じると言う」ことじたいが不適切なことであるとは、わたし
にはおもえません。
残念ながら、もう時間ぎれです(涙)。続きはまたいつかやりましょう。
[*] 『スッタニパータ』第851詩に付された中村先生の註
(前掲『ブ
ッダのことば
スッタニパータ』、p.391-392)を参照。
109 名前: Libra 投稿日: 2006/02/01(水) 01:20:25
わめさん、こんばんは。
せっかくなので、今日まではおつきあいさせて頂きます。
ひゃっきまるさんとの対話は追跡しておりませんが、「筏の喩え」は、わた
し自身、先の[*6]でご紹介しておいたところです。
わめさんのご主張は、相対主義が自滅するときの論法にとてもよく似ている
とおもいます。わめさんの論法からすると、「批判的合理主義は批判的合理主
義を捨てなければならない」ということになるでしょう。
いうまでもなく、わたしは、「批判的合理主義は批判的合理主義を捨てなけ
ればならない」などとはおもいません。
批判的合理主義は、「批判に耐えないものは捨てよ」といいます。いまのと
ころ批判にたえているものであっても、いつかは挫折してしまう可能性が大い
にあるのは確かです。だからといって、批判的合理主義は、「いまのところ批
判にたえているものを含めて、一切のものを捨てよ」などとはいいません。
シャカの「筏の喩え」もおなじだとわたしはおもいます。今まで、どんな流
れをもみごとに横切ってきた優秀な筏があったとしても、いつか、流れにのみ
こまれてしまう可能性は常にあります。だからといって、シャカは、「筏はす
べて捨ててしまいなさい」などとはいっていません。シャカは、シャカ自身の
教えもふくめて、一般的に、教えとはそういうものであると正しくしりなさい
といっているのです。
もし、将来、何らかの具体的な材料から、「シャカの教え(縁起説)は批判
に耐えていない」と感じたときには、わたしは、シャカの教えを捨てるでしょ
う。それが、「自分の確かめたことだけを信ずる」ということであり、「反駁
し得ないものとして説」かれているもののみを信じるということ(仏教的信仰)
です(>>93)。逆にいえば、反駁されてしまったものは信じないということで
す。
註までふくめて、ていねいに読んでさえ下されば、きっと、わたしの主張は
理解して頂けるだろうとおもいます。
111 名前: Libra 投稿日: 2006/02/01(水) 02:01:36
みれいさん、こんばんは。
みれいさんは、わたしの説明をわかりやすいといわれた最初の人物かもしれ
ませんね。
日蓮は中観派といってよいとおもいますが、それはあくまでも、日蓮思想の
中心がそうであるということです。ちなみに、龍樹もまた「戦闘的」と評価さ
ることが多い人物ですね。
先にも紹介しましたように、松戸行雄さんは、「日蓮滅後の教団化の過程に
おける解釈の相違と分流の問題〔中略〕の淵源は、日蓮自身が伝統的なコスモ
ロジー、神仏習合思想、聖霊信仰、天皇制、神国思想を是認する中で独自の法
華本門観心の立場を樹立していったこと、そしてその重層的な習合思想を未整
理のままにしておいたことにあると言えよう。」[*1]といわれています。
日蓮の中には、中観思想だけがあるわけではなく、日蓮当時にあったいろん
なものが未整理のまま是認されてあるということですね。したがって、「今一
度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点を再選択す
る作業」[*2]が、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最
も大きな課題になってくるとおもいます(>>84)。
これからは、日蓮の中にあるどのような視点を「現代思想として重要な視点」
として選択していくかというところに、各日蓮教団のそれぞれの特色があらわ
れてくるのだろうとおもいます。
今回はこのへんで失礼します。またいろいろとご教示ください。
[*1] 日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/119.html
[*2] 同上。
117 名前: Libra 投稿日: 2006/02/01(水) 04:02:51
初期経典において、ちがう意味の信仰を、同じ「サッダー」という言葉で表
現しているのは、「サッダー」と言う言葉が、意味の違うそれぞれの信仰を含
みうるより広い意味の言葉だからでしょう。
初期経典は、シャカの言葉をすべてもれなく記録したものではありません。
実際に話されたさいには、どちらの意味で「サッダー」と言う言葉を使ってい
るのかが文脈から明らかでない場合には、とうぜん説明されたでしょうし、文
脈から明らかな場合には説明はなかったでしょう。
わめさんが、「信仰」という言葉を忌避されるのはご自由です。しかし、実
際には、仏教において「信仰」という言葉が忌避されてきたという事実はあり
ません。
「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する」というのは、たしかに
仏教では否定されるところの「信」でしょうが、そのことは今の議論とは無関
係だとおもいます。そのようなものではない「信」を仏教は肯定していますし、
それを「サッダー」と表現しています。
わめさんは、どうしても、「信仰」という言葉を《仏教で否定される「信」》
という意味にのみ限定して使用されたいようですが、そのこだわりは捨てるこ
とができないものなのでしょうか。初期経典の表現やオーソドックスな解釈を
無視してまで、そのことにこだわる必要がどこにあるのか、わたしには全く理
解できません。
「自分は信仰を捨てた」と自己解釈されるわめさんにとっては、仏教とは信
仰を否定するものでなければならないのかもしれませんし、別の動機があるの
かもしれませんが、いずれにしても、シャカが「信仰」という言葉を否定的な
意味でのみ使ったなどという説にはわたしは賛成いたしません。
2006.02.05
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