■ 「客観的事実」とは?


26 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 05:39:49


 ほんとうはこのスレに書き込むためにこの掲示板に来たのですが、このスレ
に書く前に「法華経について」のスレをつい読んでしまったら書きたくなりま
した(法華経擁護派がほとんどいないみたいだったので)。で、書いてたら、
こっちに書く時間がほとんどなくなってしまいました(笑)。

 というわけなので、ここに書こうと思ってたことはかなりはしょって書かせ
て頂きます。さすがにもう眠いので。

 まず「客観的事実」について。わめさんには、以下の小河原誠先生の解説を
読んでみてもらいたいです。特に、「『源氏物語』は紫式部によって書かれた」
という言明について述べられている部分。小河原誠先生のこの解説は、わめさん
がいうところの「客観的事実」の説明としてはぴったりではないかとわたしは
おもいました。

  反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/125.html


 あと、「われわれは観察によって言明を正当化できる」と素朴に考えている
人も多いとおもいますので、以下の解説も引用しておきます。

  感覚的知覚から普遍概念への飛躍(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/126.html


 さいごに、「「理性」や「合理主義」という用語は曖昧なので、〔中略〕説
明しておく必要があろう」とポパーは言っていますので、ポパー自身の説明を
引用しておきます。

  「批判的合理主義」と「無批判的合理主義」(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/127.html


29 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 03:50:14


> わめの思っている「客観的事実」と言うのは、普遍概念かもしれません。

 普遍概念の例としてあげられているのは「カラス」です。

 「カラス」が「客観的事実」であるというのはいかなる意味なのか、少し説
明して頂けないでしょうか(汗)。わたしにはちょっと想像がつきません(涙)。


33 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 14:03:22


 概念と言明を区別して論じることがまず必要なのではないでしょうか。

 これまで議論してきた「(客観的)事実」の問題は、言明のレベルの問題で
あって、概念のレベルの問題ではないというのがわたしの認識です。

 以下に論じるのは、概念のレベルの問題です。

 概念というのは、言明を作るための道具といってもいいかもしれません。わ
れわれは、「カラス」という普遍概念を用いて、「すべてのカラスは黒い」な
どいった言明をつくります。

 概念の体系というのは、われわれが世界を切り分ける(認識する)ために用
いる「差異の体系」であるといえるかもしれません。

 この「概念の体系」は、「一集団内で」「比較的安定した体系を指向してい
るということは言えるとしても」[*1]、それじたい plastic だとおもいます。
いってみれば、その場しのぎの不完全な道具(以下に見るように、ポパーの表
現でいえば「牢獄」[*2])だとおもいます。

 ウォーフの仮説について考えてみるのもいいとおもいます。ウォーフの仮説
に対して、ポパーは、以下のように言及しています。

  ─────────────────────────────────
   ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがあ る種の知的牢獄、われ
  われの言語の構造的規則によって形作られた牢獄の なかに住んでいると示
  唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意 があるが、しかしわれ
  われは通常この牢獄に気づいていないというかぎり では、これは奇妙な牢
  獄だということを付け加えねばならない。われわれ は文化衝突を通じて牢
  獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに 気づくということによ
  って、牢獄から脱出できるのである。十分に努力 し、新しい言語を研究し、
  母語と比較することによって、われわれの牢獄を超 越できるのである。
   その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、こ れははるかに大きく広
  い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄 に悩むこともないであ
  ろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことに なれば、われわれには
  つねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢 獄へと脱出する自由が
  あるのだ。
 
  (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、 M・A・ナッターノ編
    『フレームワークの神話──科学と合理性の擁 護』〔ポパー哲学研究
     会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)
   ─────────────────────────────────


  [*1] 言語体系についての浜本満先生の説明をわたしは支持 します。

       ─────────────────────────────
      彼らの議論、〔中略〕、これらがともすれ ばなおざりにしている
      のは、言語が自らのうちに自分自身との 「ズレ」を含み、また不
      断にそうした「ズレ」を生みだすことに よって特徴付けられる体
      系である、という言語に関するきわめて基 本的な事実である。
      〔中略〕つまり、確かに一集団内での言語 使用の総体が比較的安
      定した体系を指向しているということは言 えるとしても、言葉の
     「本来の用法」だとか「文字どおりの意味」 だとかを仮定したり確
      定しようとする努力がつねに困難に陥ると いう事実が示している
      ように、「ズレ」がそれとの関係で測定で きるような絶対的な基
      準、不動の中心はアプリオリには存在しな いのである。

      (浜本満「文化相対主義の代価」『理想』 第627号、1985年、
        pp. 112-113)
       ─────────────────────────────

  [*2] フレームワークの神話(カール・ポ パー)
     http://fallibilism.web.fc2.com/111.html

  [*3] ここでいう「事実」とは、「反証されずに生き延びて いる──その
     意味では、強固な──仮説」(小河原誠)の ことです。以下参照。

      反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)
      http://fallibilism.web.fc2.com/125.html


36 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 16:48:03


 概念は「自立自存」するものではないとおもいます。「概念体系は plastic
だ」とわたしがいうのはそういう意味です。

 ですから、概念は「実体」ではありません。「自立自存」するものを「実体」
というのですから。

 縁起説もひとつの言明です。わたしはこの言明を真であるとおもっています
が、この言明を真であると正当化することはできません。


38 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 17:47:41


> 実体を指す言葉は何なのでしょう?

 仏教では「自性」といいますね[*1]。

> わめは縁起から考えて、「自立自存」するものはないと考えていますから、
> 「実体」もないことになってしまいます。

 それこそまさに龍樹がいわんとしたことです[*2]。まさに「ウサギの角」[*3]
のようなもので、たとえ概念的に想定できたとしても、もともとありません。

> 暫定真理と呼ぶことは間違いでしょうか?

 縁起説は批判に耐えているとわたしはおもっていますので、暫定的に受け容
れています。「暫定的に批判に耐えている言説」を「暫定真理」と呼ぶのであ
れば、縁起説はわたしにとっては「暫定真理」です。

 釈尊は「一切は、もしかしたらひっくり返されてしまうかもしれない仮説に
すぎない」[*4]と考えていたとおもいます。だから、釈尊は「永遠の突破者」
[*5]なのだとおもいます。


  [*1] 「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
     http://fallibilism.web.fc2.com/088.html

  [*2] 龍樹の空思想(新田雅章)
     http://fallibilism.web.fc2.com/123.html

  [*3] 「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」 (小川一乗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/086.html

  [*4] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
     http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

  [*5] 『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
     http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

2006.01.10

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