■ 法華経について


50 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 04:35:08
        1.わたしの立場の前提

     わたしは「法華経の中心思想」および「日蓮の中心思想」を支持しています。
    「法華経の中心思想」を支持するというのは、法華経の中で主張されているこ
    とのすべてを支持するわけではないという意味でもあります。日蓮の思想につ
    いても同様です。

     わたしが支持する「法華経の中心思想」および「日蓮の中心思想」の中身に
    ついては、わたしのホームページ[*]に記録されているわたしの発言(「書写」
    と「過去ログ」)や発表している拙文(「論文集」と「雑記」)を参照して頂
    けるとありがたいのですが、それではあまりにも不親切だろうとおもいますの
    で、以下に、単純化して述べておきます。

      [*] ---- NOTHING TO YOU----
     http://fallibilism.web.fc2.com/index.html
    ───────────────────────────────────

51 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 04:42:19

2.法華経の中心思想

 法華経の中心思想は「空の思想」であり、法華経はそれを「もっぱら実践的
関心に即して表現しようとした」[*1]ものであるとわたしは理解しています。

 「空の思想」の実践とは菩薩行であり[*2]、法華経は全編にわたって菩薩行
(=「空の思想」の実践)を説いています。

 法華経は、「空の思想」についての哲学的な議論を展開するものではないと
はいえ、空について直接説いている箇所もあります[*3]。

 同じ「空」という用語を用いる場合でも、経典によって意味が異なる場合が
ありますが[*4]、わたしが支持する「空」は、釈尊が説いた「アートマンの存
在を否認する意味での「無我説」」[*5]と同じ内容を表現する「空」です。


  [*1] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思 想』、平楽寺書店、
     1969年、p. 400。

  [*2] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行 などはあり得
     ない(小川一乗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/069.html

  [*3] 本尊論メモ(Libra)、〔05.09.24 補足1〕
     http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#hosoku050924a

  [*4] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
     http://fallibilism.web.fc2.com/019.html

  [*5] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/082.html


52 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 04:45:03

3.日蓮の中心思想

 日蓮の中心思想は、日蓮の本尊観をみればよくわかるとおもいます。
 日蓮の本尊は法華経です[*1]。法華経の中でも「上行菩薩所伝の妙法蓮華経
の五字」[*2]です。この五字の中身は何か、すなわち、五字には何がつつまれ
ているのかというと、それは「一念三千の法門」です[*3]。「一念三千の法門」
というと難しく聞こえるかもしれませんが、その本質は、「空・縁起の思想」
です[*4]。

  [*1]「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。 釈迦・大日総じて十方の諸
     仏は法華経より生し給へり。故に今能生を以 て本尊とするなり。」
     (「本尊問答抄」)

  [*2]「日蓮は広略を捨てて肝要を好む。所謂、上行菩薩所伝 の妙法蓮華経
     の五字也。」(「法華取要抄」)

  [*3]「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に 此の珠を裹み
     末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観心本 尊抄」)

  [*4] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅 章)
     http://fallibilism.web.fc2.com/122.html


53 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 04:48:06

4.久遠仏は三身(法身仏・報身仏・応身仏)のうちの報身仏

 寿量品には「我本行菩薩道」とありますから、《久遠仏は菩薩行によって仏
となった》と説かれているわけです。ですから、久遠仏は報身仏(有始無終)
です。

 わたしがイメージする久遠仏(永遠に説法する釈尊)とは、三枝充悳先生が
「形のない釈尊」と表現されている釈尊[*1]であり、法を見る者が見る釈尊[*2]
です。

 日蓮は報身を中心に据えており[*3]、そのことは日蓮の曼荼羅にもよくあら
われているとおもいます[*4]。

  [*1] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

  [*2] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

  [*3] 日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
     http://fallibilism.web.fc2.com/106.html

  [*4] 本尊論メモ(Libra)、〔05.08.26 補足2〕
     http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#hosoku050826b



54 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 04:55:30


5.日蓮にとって久遠仏(永遠に説法する釈尊)とは法華経である

 日蓮にとっては《法華経=久遠仏》です[*1]。そして、日蓮は、法華経の中
でも「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」[*2]を選んでいます。ですから、日
蓮は、曼荼羅において、「本門の教主釈尊」(=久遠仏)を五字(妙法蓮華経)
で表現しています[*3]。

 《法華経=久遠仏》という考えは、釈尊が説いた教えを釈尊死後の師とみる
考え[*4]や「法を見ざる者はわたしを見ない」という考え[*5]の延長上にある
考えであるとおもいます。釈尊が死んでも釈尊が説いた法はなくなりませんか
ら、法を見る者が見る釈尊は生き続けるということです[*6]。法華経では以下
のように説かれています。

  ─────────────────────────────────
  この『正しい教えの白蓮』という経説は、偉大な志 を持つ求法者の乗物に
  乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来で ある。

  (岩波文庫『法華経(下)』〔岩本裕他訳注、 1967年〕、p. 201)
   ─────────────────────────────────


  [*1] 日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
     http://fallibilism.web.fc2.com/120.html

  [*2]「日蓮は広略を捨てて肝要を好む。所謂、上行菩薩所伝 の妙法蓮華経
     の五字也。」(「法華取要抄」)

  [*3] 本尊論メモ
     http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html

  [*4]「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思 うかもしれな
     い、『教えを説かれた師はましまさぬ、もは やわれらの師はおられ
     ないのだ』と。しかしそのように見なしては ならない。お前たちの
     ためにわたしが説いた教えとわたしの制した 戒律とが、わたしの死
     後にお前たちの師となるのである。」(「大 パリニッバーナ経」、
     第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』 〔岩波文庫〕、岩波書店、
     1980年、p. 155)

  [*5] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

  [*6] 仏身論メモ(Libra)
     http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html



55 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 05:12:22


6.業論について

 結論からいいますと、わたしは、仏教徒として、輪廻転生を前提として説か
れる業論(以下、単に「業論」といいます)についてはキッパリと否定する立
場です[*1]。

 日蓮は鎌倉時代の人間ですから、その日蓮に、「阿含の経典は無我を説く経
とともに輪廻思想を説く経をも含んでいる」が、「阿含の経典は果たしてブッ
ダの思想を忠実に伝えたものであるか」[*2]というような視点を要求するのは
酷というものです。したがって、日蓮が「業論は仏説の一部である」という前
提のもとに、自らの思想を構築しているということはむしろ当然のことと言え
るでしょう。

 しかしながら、上記視点をすでに獲得しているわれわれが、ブッダの「教え
と矛盾」し、「ブッダの理想とも相容れない」ものであるところの業論[*3]に
しがみつく必要などは全くないとおもいますし、むしろ、有害であるからキッ
パリと否定すべきだとおもいます。

 日蓮は、一念三千という珠がつつまれた五字[*4]を受持すれば、釈尊の因行
果徳を譲り受けることができるといい[*5]、「南無妙法蓮華経と心に信じぬれ
ば心を宿として釈迦仏懐まれ給う」[*6]といって、一生成仏を説いていますか
ら、業論を否定したとしても、日蓮の中心思想に影響はありません。

 現在の創価学会には、業論を認めつつその意味を読み替えていこうとする立
場[*7]と、業論そのものを否定していこうとする立場[*8]があるようにおもい
ます。前者は、日蓮の思想の解釈としては妥当かもしれませんが、それが現代
において通用するか疑問です。わたしは、後者を支持しています。


  [*1] 輪廻説は仏教ではない(Libra)
     http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html

  [*2] 輪廻思想と無我思想の調和は不可能(和辻哲郎)
     http://fallibilism.web.fc2.com/070.html

  [*3] 梶山先生のお考えについて(Libra)
     http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha097.html

  [*4]「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に 此の珠を裹み
     末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観心本 尊抄」)

  [*5]「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我 等此の五字を
受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」 (「観心本尊抄」)

  [*6] 「松野殿女房御返事」

  [*7] 「謗法論」再考(魯の人)
     http://www.ginpa.com/column/20000909.html

     「謗法論」再考 Part2
     http://www.ginpa.com/column/20000913.html

  [*8] ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
     http://fallibilism.web.fc2.com/080.html



56 名前: Libra 投稿日: 2005/10/01(土) 05:12:52

7.おわりに

 以上で、わたしが支持する「法華経の中心思想」および「日蓮の中心思想」
の中身についての単純化した説明はおわりです。

 念のためにいっておきますと、今のところ、上記のようなわたしの考えに賛
成される方というのは、ほとんどいないか、ひとりもいません(笑)。


58 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 04:02:35

>>57

 Leo さん、コメントありがとうございます。

 「わかっている事実を考慮」することを拒否するなら合理性[*1]を欠くこと
になるし、日蓮の言説を絶対の権威とみるなら牧口の理念[*2]と矛盾するとお
もいます。

  [*1] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
     http://fallibilism.web.fc2.com/112.html

  [*2] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
     http://fallibilism.web.fc2.com/024.html


65 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 11:59:18


> 空という身の事実を理解すること

 「空という身の事実を理解する」というのは、「私たちは、仮としての存在
であり、確かなものとして存在していない」(小川一乗先生)ということを理
解するということです。このことを実感できる時間を、松本史朗先生は「宗教
的時間」と表現されています[*1]。友岡雅弥さんが、「悟るべき「自己」とい
う考えこそ、我執の最たる者ではないだろうか」[*2]といわれているのも同じ
ことだとおもいます。

  ─────────────────────────────────
  私たちが死んだらどうなるかと考えるのは、どうし てかというと、確かな
  「私」が有ると思っているからでしょう。〔中略〕 もともと存在していな
  いのだから、ないものが死んだらどうなるかと考え る必要はない。もとも
  と私たちは、仮としての存在であり、確かなものと して存在していないの
  です。

  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、 1995年、pp. 144-145)
   ─────────────────────────────────

 「空の思想」について語っている人はたくさんおられますが、「空という身
の事実を理解」している人はあまりいないとわたしはおもいます。


> 釈尊の智慧が法華経に”含まれている”とは思いますが、だからといって法
> 華経が、”釈尊の智慧の結晶”とはわめには思えないです。

 繰り返しになりますが、法華経の中心思想は「空の思想」であり、法華経は
それを実践的関心に即して表現しようとしたものであるとわたしは理解してい
ます。ここでいう「空」とは、釈尊が説いた「アートマンの存在を否認する意
味での「無我説」」と同じ内容を表現する「空」です。

 法華経の《中心思想を》支持するというのは、法華経の中で主張されている
ことのすべてを支持するわけではないという意味です。

 法華経に「釈尊の智慧(無我説)」をみる人(松本先生、袴谷憲昭先生、友
岡さんなど)と、そうではない人がいます。わたしは前者の仏教理解および法
華経理解を支持しています。



66 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 12:13:53


 註を書くのわすれてました(汗)。

  [*1] 学問と礼節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的時間 (松本史朗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/068.html

  [*2] 呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
     http://fallibilism.web.fc2.com/042.html



67 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 12:34:14


> 縁起の法とか空と言うものは、何も法華経だけに限って表されていると思え
> ない

 「二乗作仏と久遠実成が法華経の2大要義であるのは万人の知るところ」(顕
正居士さん)[*1]だとおもいますが、現代人には、法華経が「二乗作仏」を説
いたことのインパクトはあまり理解できないのかもしれませんね。

 日蓮は、法華経以前の経には二つの欠点があるといいます。ひとつは、「二
乗は成仏できない」といって「万人が平等に成仏できる教え」を説いていない
こと。もう一つは、「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」を説いていな
いことです。『法華経』以前の経にはこれら二つの「心髄」が説かれていない
のでダメなんだというのです。

  ─────────────────────────────────
  爾前の経に二つの失あり、一には〔中略〕二乗作仏 の法門を説かざる過な
  り、二には〔中略〕久遠実成の寿量品を説かざる過 なり、此の二つの大法
  は一代聖教の綱骨一切経の心髄なり

  (「寿量品得意抄」、全集、pp. 1210-1211)
   ─────────────────────────────────

 私も、「万人が平等に成仏できる教え」と「永遠に生き続け、衆生を導き続
ける釈尊」というのは、仏教の「心髄」だと思います。

 もちろん、空は法華経だけに説かれているものではありませんから、他の経
典を参考にするのは有意義でしょう。日蓮も以下のようにいっています。

  ─────────────────────────────────
  法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心 を得ること莫きなり
  
  (「一代聖教大意」、全集、p. 397)
   ─────────────────────────────────

 しかし、経典によって「空」の意味が異なることがあります[*2]ので注意が
必要だとおもいます。


  [*1] 仏教とは何か
     http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog001.html

  [*2] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
     http://fallibilism.web.fc2.com/019.html


68 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 12:50:07


 佐倉哲さんは、おそらく、法華経に「釈尊の智慧(無我説)」をみない人だ
ろうとおもいます。なるほど、Leo さんが引用された部分(>>62)だけを見る
と、わたしの考えに近いようにも見えますが、根本的なところで、法華経理解
がわたしとは異なっているとおもいます。

 これも繰り返しになりますが、寿量品からわたしがイメージする久遠仏(永
遠に説法する釈尊)は、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されている釈
尊[*1]であり、いってみれば、法を見る者が見る釈尊[*2]です。日蓮の「観心
の本尊」というのは、まさにそれだろうとおもいます。


  [*1] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

  [*2] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増 谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/085.html


70 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 15:13:32


>  わめは縁起の法そのものというか、別名と言うかが、無我・無常・空では
> ないかと思うのですがいかがでしょう?

 もちろん、そのお考えには賛成します。

 佐倉哲さんは、「法華経の一乗思想は、〔中略〕仏教の中心思想である縁起
の思想(空の思想、無我の思想)によって裏付けられています」といわれ、そ
の根拠として、わたしと同じく、梵本の第五章の文をあげておられます。

 佐倉哲さんの法華経理解を肯定する立場のわめさんが(このことじたいがわ
たしの誤解かもしれませんが)、「法華経が縁起・空を、強調・一貫して説か
れているとも思えな」といわれていたので、そのことから、わたしは佐倉哲さ
んの法華経理解を誤解してしまったのかもしれません。

 わたしが述べた佐倉哲さんの法華経理解についての評価(>>68)は訂正して
おきたいとおもいます。佐倉哲さんもまた、法華経に「釈尊の智慧(空の思想、
無我の思想)」をみている人でした。

 「法華経の一乗思想」は法華経の中心思想だとおもいますし、法華経はこの
思想を中心思想として「強調・一貫して説」いているとおもいます。

 「空という身の事実を理解」しているのが菩薩です。法華経はこの菩薩の姿
を生き生きと描いています。菩薩は、「私たちは、仮としての存在であり、確
かなものとして存在していない」ということを実感し、「悟るべき「自己」と
いう考えこそ、我執の最たる者で」あることを理解するからこそ、「自分が誰
か一人でも救っているなどという観念を一切持たぬ」(佐倉哲さん)のです。
そういう菩薩の姿を修行者の理想として表現することによって、法華経は「空
の思想」を表現しているとわたしはおもいます。

 ただし、法華経が作られた当時には「巧みな手だて(方便)」といえたもの
であっても、現代においてはもう「巧みな手だて(方便)」とはいえないよう
なものがあるとはおもいます。


72 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 16:39:51

 
だいたい議論はおちついたようです。

 わたしは、佐倉哲さんや曽我逸郎さんのような仏教理解は正しいとおもいま
す。そういう理解に到達できるのであれば、どのような道を通ってもよいとお
もいます。

 わたしは、「法華経・日蓮という道を通らなければそこには到達できない」
(A説)とはおもいませんが、「法華経・日蓮という道を通ってしまうとそこ
には到達できない」(B説)という意見には賛成できません。ネット上にもB
説を主張する人がいるので、そういう人には反対していきたいとおもっていま
す。

 わたしの場合、法華経とか日蓮という道を通ってそこに到達しました。もし
その道に出会っていなければ、どうなっていたかわかりません。そういう意味
では、創価学会員の子供として生まれたのはラッキーだったと思っています。

 わたしは、これからも、「法華経・日蓮という古典的な道も、けっこう面白
いですよ」といっていきたいなとおもいます。


74 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 17:23:23


 わめさんが「消化不良」といわれている最後の点を消化するのはとても簡単
なことのようにわたしには思えます。

1.そのような悪影響は、本当に、「法華経・日蓮の教え」に起因するものと
  いえるか?(誤解・誤読によるものである可能性はないか?)

2.「法華経・日蓮の教え」に起因するといえる場合、それは「法華経・日蓮
  の教え」の中心的な教えか?(中心的な教えでなければ、その部分を修正
  した上で、中心的な教えを保持してよい。)

3.「法華経・日蓮の教え」の中心的な教えが、悪影響をおよぼすといえるな
  ら、「法華経・日蓮の教え」それ自体を捨てればよい。
 

78 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 18:08:55


 誤解・誤読によるのであれば、「法華経・日蓮」の教えそのものにはなんら
責任はないとおもいます。単純に、誤解・誤読の方を正せばよいだけの話だと
おもいます。

 「法華経・日蓮」の教えにかぎらず、一般的にいって、仏教は「梵我一如型
の思想」の方向に「誤解・誤読」されていくものであろうとおもいます。残念
ながら、この傾向はいかんともしがたいものがあります。しかしながら、仏教
のこのような《「誤解・誤読」されやすい傾向》は、仏教徒の責任であるとは
いえても、釈尊にその責任はないとおもいます。

 中心的な教えでない部分に問題があるのであれば、問題がある部分について
修正を加えた上で、中心的な教えを維持してよいとおもいます。

 わめさんが「消化不良」である理由がいまいちわかりません。


80 名前: Libra 投稿日: 2005/10/02(日) 23:32:25


 「創価学会が、誤解・誤読をそう簡単には正してくれそうにない」というの
は、現状分析としてはその通りでしょう。しかし、それは、あくまでも現実的
な困難ということであって、いまここで議論している《「法華経・日蓮の教え」
の妥当性》の話とは関係がありません。

 創価学会の創立者である牧口は、「一度発せられた意志命令は、仮令それが
間違つて居ることが解つたにしても、それを引込ますことは官の威信に関はる
という理由の下に、無理横暴を通すといふのが専制政治の常套手段で、これで
なければ人民は治るものでないといふのが其の信条である。何ぞ知らん。眼前
一部分の威信はこれによつて保つことは出来ても、永久全体の信用は全く失墜
して仕舞ふことを」[*]といっていますから、もし創価学会が創立者の理念を
思い出すことができれば、自ら積極的に誤解・誤読を正していくはずだとおも
います。問題は、なぜ創価学会は創立者の理念からこうも大きくズレてしまっ
ているのか、創価学会が創立者の理念を思い出すことはなぜ困難なのかという
ことです。

>  現実の上でこのような怪我人を出さないためには、どうすればよいか

 誤解・誤読であることを論理的に指摘することも大事なことだとおもいます。

> 縁起の法を説く

 友岡さんとかはその方向だとおもいます。

> 誤解・誤読されようのない、また、誰もがわかるような教え(言説)が必要

 「誤解・誤読されようのない」というのは無理だとおもいますが、「より開
かれた、より説得力のある、普遍的な教義体系を確立していく必要」(魯の人
さん)はあると思います。

  ─────────────────────────────────
   ところで現在、伝統的な大石寺教学の齟齬が至る ところで露見していま
  す。もちろん、それで私たちの信仰がいささかたり とも揺らぐことはあり
  ませんでした。むしろ信心の面から言うならば、ま すます意気軒昂ではあ
  ります。なぜならば、日蓮大聖人直結、御本尊直 結、御書直結の姿勢があ
  る限り、何ら恐れることが無いからです。

   しかし、広宣流布という運動をさらに広く、深く 進めていくためには、
  新しい日蓮教学の確立が強く模索されていることは 事実でしょう。より開
  かれた、より説得力のある、普遍的な教義体系を確 立していく必要がある
  と思います。それはとてつもない大事業であるとも 思います。

  (魯の人「「法華経の智慧」を学ぼう」、2001 年2月、
    http://www.ginpa.com/column/20010227.html
  ─────────────────────────────────


  [*] 依法不依人(牧口常三郎)
    http://fallibilism.web.fc2.com/025.html


129 名前: Libra 投稿日: 2005/10/15(土) 15:04:03


 時間がないので詳しくは書けませんが、少しだけコメントします。レスはで
きないとおもいます。

1.「縁起法頌」(「法身偈」ともいいます)について

 「縁起法頌」で締めくくられている法華経もあるようです。

    本尊論メモ(Libra)、「経題釈」との関係
    http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#kyoudaisyaku


130 名前: Libra 投稿日: 2005/10/15(土) 15:04:52


2.涅槃(ニルヴァーナ)について

 涅槃とは「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこまでも上昇し、あるい
は深化する」「一種の立体的な螺旋」のプロセスに入ることであるという三枝
先生の説明[*1]をわたしは支持します。友岡さんの表現だと、「常に自らを相
対化し、自らの立場を突破しつづける」[*2]プロセスに入ることだとおもいま
す。

 涅槃とは「「何か」と言う言葉で表される実体的、固定的なもの“を”知」
[*3]ることではないとおもいます。「「何か」という固定的、実体的なものは
「悟るべき対象」ではなく、そこから「離れるべき呪縛」「目覚めるべき夢」」
[*4]だとおもいます。

  [*1] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充 悳)
     http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

  [*2] 『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
     http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

  [*3] 同上

  [*4] 同上



131 名前: Libra 投稿日: 2005/10/15(土) 15:06:32


3.仏性について

 仏性については、まず以下を参照して頂きたいです。

  大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)
  http://fallibilism.web.fc2.com/047.html

  無自性=正因仏性(藤井教公
  http://fallibilism.web.fc2.com/075.html

  「如来蔵思想批判」の批判的検討(Libra)の2章
  http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html#chapter2

 「縁因仏性」は「仏の言葉を信じて聞くこと」であるというのが上の論文で
のわたしの主張でした。現在のわたしは、この解釈をもっとひろげて、「縁因
仏性」は「善き仲間のなかにあるということ」[*1]だとおもっています。この
点については、三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーにな
るとおもいます。

  [*1] 「われを善き友として」(増谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/012.html

  [*2] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
     http://fallibilism.web.fc2.com/019.html


134 名前: Libra 投稿日: 2005/10/15(土) 15:19:11

>>128

 おおー。Leo さんとほぼ同時に書き込んだようですね。

 つい最近、わたしのホームページの読者の方からメールを頂きまして、昨日
書いたその方への返信の中でこの掲示板を紹介しました。それでちょっと来て
みました。

 摂受と折伏については、「教義」というよりも、日蓮が実際にどう生きたか
を見るのがいいのではないかとおもいます。わたしは伊藤先生のようなお考え
に共感を持ちます。

  真の知性人とは(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/005.html



135 名前: Libra 投稿日: 2005/10/15(土) 15:53:12

> 大聖人の中心思想が「空・縁起の思想」である(可能性が大きい)わけですが、
> どのように体験(実感?)・実践すればよいか(Leo さん、>>132)

 わたしにとっては、勤行し、題目をあげて、「善き仲間のなかにある」[*1]
ことが「体験・実践」です。もちろん、学習・思考[*2]がその前提として必要
です。

 わたしは、勤行したり題目をあげているとき、頭の中では、久遠仏(永遠に
説法する釈尊)と向かい合っています(>>68)。久遠仏と向かい合っている先
頭には日蓮(上行)の背中が見えます。龍樹とか天台の背中も見えます。

 この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
る釈尊[*2]であり、法を見る者が見る釈尊[*3]です。日蓮の「観心の本尊」と
いうのは、このようなイメージだったとわたしはおもっています。

 そして、もっとも重要なのが、「善き仲間のなかにある」ことだとおもいま
す。この点については、>>131に も書いたように、三枝先生のいわれる「他者
の発見」[*2]という視点がキーになるとおもいます。


  [*1] 「われを善き友として」(増谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/012.html

  [*2] …現時点の私の仏教理解の総括…(曽我逸郎)
     http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html


136 名前: Libra 投稿日: 2005/10/15(土) 15:58:16

 訂正です。

>  この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
> る釈尊[*2]であり、法を見る者が見る釈尊[*3]です。(>>135)

  ↓

 この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
る釈尊[*3]であり、法を見る者が見る釈尊[*4]です。

  [*3] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

  [*4] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://fallibilism.web.fc2.com/085.html


137 名前: Libra 投稿日: 2005/10/15(土) 16:02:58


 さらに訂正です。いそいで書いたので、たぶん、まだおかしなところがある
とおもいます。ご容赦ください。

> 三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーになるとおもいます。(>>135

  ↓

三枝先生のいわれる「他者の発見」[*5]という視点がキーになるとおもいます。

  [*5] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
      http://fallibilism.web.fc2.com/019.html

2006.01.10

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