■ ○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について


150 名前: Libra 投稿日: 2005/11/26(土) 02:02:25

    こんばんは、みなさん。

     くまりんさんのところにコメントしたのですが、投稿に失敗したのか、すぐ
    には反映されないのか、現時点で反映されていないので、念のためにこちらに
    もコピペしておきます。

    ───────────────────────────────────
     くまりんさん、はじめまして。Leo さん、わめさん、こんばんは。

    1.「よく言われる無我説」(くまりんさん)の中身について

     くまりんさんは、《ブッダの中心思想は「よく言われる無我説」ではない》
    といわれているようですね。

     実際によく言われている無我説というのは、「常住的な実体の存在はこれを
    認めない」[*1]とする説(以下、「無我説A」と略記します)だろうとおもい
    ますが、くまりんさんがブッダの中心思想ではないと主張される無我説(以下、
    「無我説B」と略記します)も無我説Aと内容的に同じでしょうか。

     わたしは、ブッダの中心思想は無我説Aであると考えます。というのも、わ
    たしも、くまりんさんと同じく、ブッダの中心思想は縁起説であるとおもって
    いるところ、わたしには、縁起説と無我説Aは同一の事態を別様に記述してい
    る(両者の論理的な内容は同一である)としか思えないからです。

     ちなみに、松本先生の無我説も無我説Aだとおもいます[*2]。

    2.「認識主体は「理性」である」という主張について

     くまりんさんは、袴谷先生や松本先生が「認識主体は「理性」である」と主
    張しているといわれていますが、具体的にはどのようにいわれているのでしょ
    うか。

    3.認識の主体としてのアートマンを語る仏典の記述

     Leo さんがいわれている「認識の主体としてのアートマン」と完全に一致す
    るかどうかはわかりませんが、曽我さんの解説[*3]が参考になるのではないで
    しょうか。

     そもそも、「認識の主体などは無い」というような主張(以下、「無我説C」
    と略記します)を、自らが支持する説として「無我説」と称している人などは
    いないでしょう。このような主張が不合理であることはあまりにも明らかです
    から。

     もし、「認識の主体などは無い」などという不合理な主張を「無我説」と称
    することがあるとすれば、それは、自らが支持する説としてではなく、論敵が
    支持している説として述べられる場合だけなのではないでしょうか。


      [*1] 原始仏教に おける生命観(高橋審也)
         http://fallibilism.web.fc2.com/059.html
         
      [*2] 学問と礼 節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的時間(松本史朗)、引用者註2
         http://fallibilism.web.fc2.com/068.html#2
         
      [*3] 安部さんよ り「自己を拠り所に」の自己とは?(曽我逸郎)
         http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha146.html
    ───────────────────────────────────


224 名前: Libra 投稿日: 2005/12/11(日) 07:34:27

    みなさん、おはようございます。

     多くの方に「そんなのどうでもいい」(わめさん)と思われるであろうこと
    をちょこっと書いてみます。

     わたしがブッダの思想だとおもっているところの思想(以下、「思想A」と
    略記)をわたしが支持するのは、思想Aがすぐれているようにわたしにはおも
    えるからです。思想は、《それが誰によって主張されたか》とは切り離して評
    価されるべきです。尊敬する顕正居士さんのご発言をお借りすると、「思想の
    評価をその方の身分によって行なうなら、これもトンデモ」[*1]だとおもいま
    す。

     思想Aを言い出したのはシャカだろうとわたしはいまのところ思っているわ
    けですが、これは、いってみれば歴史の問題です。もし、思想Aを言い出した
    のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
    た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。そ
    ういう意味では、わたしにとって歴史の問題はさほど重要な問題ではありませ
    ん。

     次に強調しておきたいのは、わたしは、初期仏典は思想的に矛盾していると
    思っているということです。つまり、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と
    無我説の両方が含まれており、両者は論理的には両立しないというのがわたし
    の理解です[*2]。ややこしくなりそうなので、わたしが理解し支持している無
    我説を、以下では「無我説A」ということにします。

     「論理的には両立しない」と書きましたが、わたしは、論理に西洋も東洋も
    ないとおもっています。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立す
    ることになるなどということはありえないだろうとおもいます。もしそのよう
    なことがあるとすれば、西洋と東洋との間では相互批判は成立しないというこ
    とになるのではないでしょうか。ちなみに、わたしは、「批判とは、あくまで
    も言明間の論理的関係の指摘である」[*3]とおもっています。

     「初期仏典には思想的な矛盾などはない」と理解されている人も多くおられ
    るようです。このような方がいわれる無我説(以下、「無我説B」と略記)と
    無我説Aとは内容的には全く異質のものということになるでしょう(もっとも、
    わたしには無我説Bは全く理解不可能であり、矛盾しているとしかおもえない
    のでそのように想像するにすぎないわけですが)。もしシャカが無我説Aでは
    なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
    するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
    う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。


225 名前: Libra 投稿日: 2005/12/11(日) 07:35:02

    輪廻転生を肯定しない思想は倫理的に破産するというような考えにもわたし
    は賛成しません。ポパーは「生命には終わりがあるからといって、これを価値
    のないものと考える人もいる。彼らは、終わりがなかったら生命には価値がな
    かっただろうという正反対の議論も同様に擁護できることを見過ごしている。
    彼らは、人生の価値を理解するのを助けてくれるのは、一部には、生命を失う
    という絶えまなく現存する危機であることを見過ごしているのである」[*4]と
    いいますが、わたしはこのような倫理観に賛成します。「生命現象の根底にい
    かなる生命原理を想定しない仏教においては、その生命現象自体も絶えず変動
    にさらされ、崩壊の危機にさらされている。実はこの点に原始仏教において生
    命倫理の成立する根拠があるのではないかと思われる」[*5]という高橋先生の
    仏教理解も支持します。

     輪廻転生と無我説についての曽我さんと佐藤さんの議論[*6]を拝見しました。
    佐藤さんは、曽我さんのお考えを「珍説」であり、「検証不能でまともに相手
    にしようがない(何とでも言える)」とコメントされており、くまりんさんの
    「このかたはどうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
    とのコメントも同様の趣旨だろうとわたしは理解しました。おそらく、わたし
    の考えに対しても同じような評価が下されることだろうとおもいます。これは
    さきにのべた歴史の問題に対するスタンスの違いということになろうかとおも
    います。

     わたしにとって歴史の問題はさほど重要ではありませんので、まともに相手
    して頂かなくても全然かまわないのですが、思想の問題として、論理的に両立
    しない思想を両方とも肯定してしまうというのは大問題だとおもいます。そん
    なことをすれば、批判が成立する基盤を自ら放棄することになり、まさに「何
    とでも言える」ということになるのではないかとおもいます。

     また年末年始にお邪魔させていただこうとおもっています。


      [*1] 《日蓮本仏 論》再考
         http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html

      [*2] 輪廻説は仏 教ではない(Libra)
         http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html

      [*3] 批判とは言 明間の論理的関係の指摘である(小河原誠)
         http://fallibilism.web.fc2.com/124.html

      [*4] あらゆる人 々は哲学者である(カール・ポパー)
         http://fallibilism.web.fc2.com/113.html

      [*5] 原始仏教に おける生命観(高橋審也)
         http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

      [*6] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html



228 名前: Libra 投稿日: 2005/12/11(日) 15:20:11

    Leo さん、こんにちは。

     顕正居士さんとわたしとでは意見が異なっている部分もかなり多いです。わ
    たしがおかしなことを書いたせいで、顕正居士さんのお考えまでが誤解されて
    しまうことをわたしはおそれます。公の場で顕正居士さんのお考えについて述
    べられる場合には、直接、顕正居士さんのご発言を参照されることを希望しま
    す。

     わたしは、顕正居士さんの以下のようなお考えに賛成です。

      「釈尊の大悟の内容が縁起であったことに異論はないこととおもいます。
       それが十二支の程式か、彼あれば此あり彼無ければ此無し、かには議論
       があります。」[*1]

      「龍樹の空性の説(人法無我の説)は釈尊の縁起説の認識論的発展であり、
       縁起の論と実相の論は対立しないという理解は近代仏教学の成果であり
       ます。」[*2]

     以前、顕正居士さんが、われわれの立場を想定して『理想版・創価学会会則
    前文』というものを考えて下さいましたね。わたしはこの『理想版・創価学会
    会則前文』に大賛成です。

      「釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法
       華経は万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華
       経の万人平等(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国
       に伝え、智者大師が両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達し
       た法華思想を、日蓮は世界に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこ
       の訓えを信じるがゆえに、空性の教義と一乗の精神とを世界に伝えたい
       とおもう。」(『理想版・創価学会会則前文』[*3])


      [*1] 素朴な疑問 コーナー
         http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog002.html

      [*2] 素朴な疑問 コーナー
         http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog002.html

      [*3] 仏教とは何 か
         http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog001.html


229 名前: Libra 投稿日: 2005/12/11(日) 15:58:43

    わめさん、こんにちは。

     くまりんさんのテキストは、わたしにとっても難解なので、以下に述べるこ
    とはわたしの勘違いかもしれません。勘違いでしたらごめんなさい。

     わたしが「論理的には両立しない」というのは、どこにいっても(西洋だろ
    うが東洋だろうが)「論理的には両立しない」という意味です。

     くまりんさんは、《西洋論理学的には両立しないが、インド論理学的には両
    立する》といわれているように見えます。

     >>224 に書きましたように、わたしは、論理に西洋も東洋もないとおもって
    います。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立することになるな
    どということはありえないだろうとおもいます。

     くまりんさんは「即今此処自己の自己反省の実践は未来を選択することその
    ものになるよというのがやっぱりインド論理学なんです」ともいわれています
    が、わたしはこのご発言を理解できません。わたしは、論理学というものを
    《命題間の論理的関係や推論の妥当性についての学問》であり《命題の内容に
    ついては何も語らないもの》であると認識しているからです。

     もちろん、「自己反省の実践」を重視する思想にはわたしも賛成ですが、そ
    れはインド論理学の枠内においてのみ主張されうるとはおもいません。また、
    「自己反省の実践」と同じくらい「他者による批判」[*]を重視したいとかんが
    えています。

      [*] ポパーの倫理 思想(小河原誠)
        http://fallibilism.web.fc2.com/083.html


239 名前: Libra 投稿日: 2005/12/13(火) 00:49:49

    くまりんさん、わめさん、Leo さん、こんばんは。

     くまりんさん、貴重なお話をありがとうございました。他のことに集中する
    ため、年末までここへの書き込みはひかえようとおもっていましたが、このよ
    うなお話を読ませて頂きながら返事をしないというのは失礼だと思い、返事を
    書かせて頂きます(おじいさまのように法華経の行者として生き抜くことがこ
    のわたしにもできるとはおもいませんが、そのように生きたいと望むことだけ
    は許されると信じて)。

    1.歴史を無視するのではなく批判する

     わたしは歴史を無視しようとおもっているわけではありません。>>224 に書
    きましたように、わたしは、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と無我説が
    含まれていると認識しています。初期仏典は初期の仏教理解を伝えているとも
    認識しています。ただ、わたしは、その初期の仏教理解の全体をシャカの思想
    とイコールだとは見ないということです。曽我さんのお言葉をお借りすれば、
    「<経典には、釈尊の教えそのままが書かれている>とナイーブに信じられる
    ほど、事は簡単ではない」[*1]とわたしもおもうということです。これがわた
    しの歴史の問題に対するスタンスです。

     わたしは、初期経典に含まれている無我説こそがシャカの思想とイコールだ
    とおもっています。この無我説がなければ、龍樹もチギも日蓮もないとおもい
    ます(>>228)。そして、この無我説は縁起説とイコールだとおもっています。
    一方、輪廻転生を肯定する思想はシャカの思想とイコールとはおもいません。

     わたしは、初期の仏教理解(歴史)の一部を肯定的に評価し、一部を否定的
    に評価するということです。このような態度をとったとしても、歴史を無視す
    ることにはならないとわたしはおもいます。歴史を批判することにはなるとお
    もいますが。

      [*1] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html


240 名前: Libra 投稿日: 2005/12/13(火) 00:51:31

    2.法華経の評価について

     たしかに法華経は初期経典とか律蔵を素材にして作られていますから、形式
    に注目して「パクリ」ということは可能だとおもいます。もっとも、わたしな
    ら「批判的継承」といいたいところです。しかし、それは法華経の中身につい
    ての思想的な評価の問題です。

     わたしは法華経の中心思想を支持しますが、法華経のすべてを支持するわけ
    ではありません[*2]。くまりんさんは否定的に評価されているようです[*3]。

     わたしはまだくまりんさんの法華経評価をじっくりと読んだことがありませ
    んので、くまりんさんの評価とわたしの評価がどのような関係にあるのかはわ
    かりません。ただ、くまりんさんの「ブッダは2500年という時間を超えて今も
    僕たちと共存しているのではないか」という表現からは、みかけほどの違いは
    ないのではないかと推測します。

      [*2] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/nt50-56

      [*3] 法華経 - その哲学的凡庸さとご都合主義
         http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050921#p1


241 名前: Libra 投稿日: 2005/12/13(火) 00:53:09

    3.ポパーの哲学に従えば、死生観を論ずることは可能
     
     くまりんさんは、「ポパーの哲学に従えば、〔中略〕死んだらどうなるかと
    いう、経験を超えた領域の問題について、〔中略〕発言することがあり得ない」
    といわれていますが、くまりんさんのこのポパー理解には反対です。

     小河原先生は、「ポパーは、大部分の宗教的言明を科学でないものに分類す
    るとはいえ、宗教的あるいは形而上学的レベルでの討論の可能性を否定してい
    ない。つまり、ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って宗教批判
    をおこなうことが可能なのである」[*4]といわれていますが、わたしは小河原
    先生のポパー理解を支持します[*5]。

      [*4] 小河原誠 『ポパー─批判的合理主義』(講談社、1997年)の70-71
         ページ。

      [*5] 「わけわか めのために・付録2〜3」
         http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog2_001.html


242 名前: Libra 投稿日: 2005/12/13(火) 00:54:40

    4.真実が明らかにされるに至る手段になれれば幸い

     以上に述べたわたしの考えは、これまで、わたしなりに納得がいくまで考え
    てきて、今はそのように考えているということを述べたものにすぎません。ど
    なたかに同調してほしいともおもいません。どなたかに同調されたところで、
    わたしの考えが正しいということには全くなりませんので。

     わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
    には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。

     最後に、ポパーの本によって知ることができたアルブレヒト・デューラーと
    いう人の言葉[*6]を引用させて頂いておわりにしたいとおもいます。

     「しかし、わたしよりも有能な者が真実を推察し、その仕事の中でわたしの
      間違いを証明して、論破できるようにするために、わたしが学んだ僅かば
      かりのものを世に出そうと思います。ここにおいて、自分がその真実の明
      らかにされるに至る手段になったということに、わたしは喜びを感じます。」


      [*6] カール・ R・ポパー『確定性の世界』(田島裕訳、信山社、1998年)
         の 88 ページから孫引き。


244 名前: Libra 投稿日: 2005/12/13(火) 01:53:07

    わめさん、こんばんは。もう落ちますが少しだけ。

    > 人それぞれバラバラが大好きわめも激しく同意です。

     「人それぞれバラバラ」だから相互批判が実り多いものになりうるのではな
    いでしょうか[*1]。「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、こ
    の道のすべてである」[*2]というのはそういう意味も含んでいるとわたしはお
    もいます。

     わたしは「相対主義ではなくて、多元主義」[*3]が大好きです。

    > 師匠は何が目的なのか

     わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
    せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
    もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
    を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
    果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。

     では、今日のところはこのへんで。


      [*1] フレーム ワークの神話(カール・ポパー)
         http://fallibilism.web.fc2.com/111.html

      [*2] 「われを善き友として」(増谷文雄)
         http://fallibilism.web.fc2.com/012.html

      [*3] 相対主義批 判(小河原誠)
         http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

      [*4] 信仰的模倣 時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
         http://fallibilism.web.fc2.com/024.html


289 名前: Libra 投稿日: 2005/12/28(水) 02:58:25

    Leo さん、こんばんは。抜書きありがとうございました。

     「関係性」の問題のほうにもコメントしたいので、こっちのほうは簡潔に書
    いてみます。不明な点がありましたら、またおっしゃってください。

     長老は「本物のアビダンマのテキスト」について「仏説ではないだろうとい
    う感じはあります」といわれています。龍樹の批判対象は「本物のアビダンマ
    のテキスト」だろうとおもいます。わたしは『アビダンマッタサンガハ』は見
    ていませんので評価できません。

     「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色
    がある」と言います。大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸
    命批判しています。どちらが正しいか、ちょっと考えればすぐに分かります。」
    と長老はいわれています。たしかに、長老がおっしゃるような大乗仏教がある
    とすれば、そんなものが正しくないことは考えればすぐに分かります。しかし、
    少なくとも、龍樹やチギの大乗仏教がそのようなものではないことは、龍樹や
    チギの書いたものを読みさえすればすぐに分かります。たとえば、チギの「三
    諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有していな
    い(空)けれども、それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有してお
    り(仮)、しかも空であることと仮であることとが一なる存在において統一さ
    れている(中)がゆえに、即空即仮即中として表示されうることを明かす教説」[*1]
    です。

     「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから『これ』と掴
    まえられるものはない」と言い、それをsunnata〔中略〕と言」うという長老
    のご理解は正しいとおもいます。ところが、「本物のアビダンマのテキスト」
    では「現象の中に実体はある」といっています[*2]。龍樹は、この「現象の中
    に実体はある」という考えを論理的に批判しています。この龍樹の批判を「言
    葉の遊びだけ」といわれているのだとすると、長老にとっては「論理的な批判」
    も「言葉の遊び」ということになるのでしょう。こうなりますと、わたしとし
    ても「では頑張って下さい」と言うしかありません。わたしが長老のお考えを
    論理的に批判したところで、それは「言葉の遊び」ということになるだけでし
    ょうから。


      [*1] 一念三千説 は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
         http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

      [*2] 佐倉 哲 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
         http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html


291 名前: Libra 投稿日: 2005/12/28(水) 05:56:16

    わめさん、こんばんは。

     関係性の問題について、以下に私見をのべてみます(わめさんに理解してい
    ただけるように書く自信はあまりありませんが)。


    1.関係の不可逆性

     「ナーガルジュナの縁起思想を関係性で理解」してしまうと常に仏教ではな
    くなってしまうということはないとわたしはおもいます。問題は、関係性をど
    のように理解するかだろうとおもいます。

     たとえば、松本先生は、ダルマキールティが関係の不可逆性≠論証した
    ことを高く評価され、「彼に至るまでは、〔中略〕ナーガールジュナの論法を
    別にすれば、関係≠ニいうものは、相互的なものと考えられ、関係者である
    二項の間に漠然と存在すると考えられていた。しかるに、ダルマキィールティ
    は、関係≠ニいうものは、関係項を離れては存在しないこと、従って、関係
    項Aから関係項Bを見たときの関係は、BからAを見たときの関係と全く逆で
    あることを論証したのである。〔中略〕即ち、彼は、関係の不可逆性≠説
    くことによって、縁起≠ニ時間≠サのものを論証したのである。従って、
    彼は、仏陀とナーガールジュナを継ぐ縁起論者≠ナあると見るべきであろう」[*1]
    といわれています。

     松本先生のこのようなダルマキールティ評価が現在も維持されているのかを
    わたしは知りませんが、少なくとも、松本先生は「関係の不可逆性≠説く
    ことによって、縁起≠ニ時間≠サのものを論証」できるとお考えなのだと
    おもいます。



292 名前: Libra 投稿日: 2005/12/28(水) 05:56:50

    2.存在論と認識論

     わたしは、関係性を論じるさいには、存在論と認識論を区別して論じるべき
    であると考えます。松本先生は主として存在論を論じておられ、佐倉さんは認
    識論のみを論じておられるというのがわたしの印象です。

     存在論と認識論を区別して関係性を論じるということは、《概念》を関係項
    として論じる場合と《具体的な存在》を関係項として論じる場合を区別して関
    係性を論じるということです。

     たとえば、「男」という概念と「女」という概念は、まさに相互否定の関係
    にあるといってもよいとおもいます。「男」という概念がないのに、「女」と
    いう概念のみがあるということはありえません。佐倉さんが「第二章」[*2]で
    論じられているように、たしかに龍樹もこういった議論を展開して、概念に自
    性などはないと主張しているとおもいます。

     これにたいしまして、ある具体的な男の子(太郎)と女の子(花子)がいた
    として、この太郎と花子の関係性を論じる場合を考えましょう。この太郎と花
    子の関係を、「男」という概念と「女」という概念の関係と同じにように考え
    るのは馬鹿げているとわたしはおもいます。

     松本先生は、《具体的な存在》を関係項として、関係の不可逆性≠いわ
    れているのだとわたしは理解します。



293 名前: Libra 投稿日: 2005/12/28(水) 05:57:25

    3.松本先生の存在論──危機的存在──

     松本先生の存在論をもっとも特徴づけているのは「危機的存在」という言葉
    です。たとえば、松本先生は、「法は確固不変なるものではなく、反対に実に
    不安定な中ぶらりんな危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこ
    にもない。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ存在
    しているのだ。」[*3]といわれています。この言葉以上に仏教の縁起説を的確
    に表現する文章をわたしはしりません。

     空(無自性)の思想は、概念の無自性をいうだけではありません。わたしと
    いう存在に自性などはなく、まさに「危機的存在」であることをふかく自覚さ
    せてくれるものであるからこそ、空(無自性)の思想は菩薩行につながるのだ
    とわたしは理解しています。


294 名前: Libra 投稿日: 2005/12/28(水) 05:58:07

    4.龍樹の認識論──概念に自性などはない──

     《概念に自性などはない》という龍樹の主張についても、認識論として優れ
    た視点を提供してくれるものであるとわたしは高く評価します。この龍樹の思
    想は、《概念もまた危機的である》ということを含意します。すなわち、「概
    念の体系」は plastic である[*4]ということです。このような考えは、ポパー
    の以下の議論にみられるような意味での自由をわれわれに教えてくれるように
    おもいます。

      ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
       ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがある種の知的牢獄、われ
      われの言語の構造的規則によって形作られた牢獄のなかに住んでいると示
      唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意があるが、しかしわれ
      われは通常この牢獄に気づいていないというかぎりでは、これは奇妙な牢
      獄だということを付け加えねばならない。われわれは文化衝突を通じて牢
      獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに気づくということによ
      って、牢獄から脱出できるのである。十分に努力し、新しい言語を研究し、
      母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。
       その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、これははるかに大きく広
      い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄に悩むこともないであ
      ろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことになれば、われわれには
      つねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由が
      あるのだ。
     
      (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
        『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
         会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)
      ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


295 名前: Libra 投稿日: 2005/12/28(水) 05:58:50

    5.時間と場所

     「場所」というのは、ある時点において切り取られた(静止した)世界をイ
    メージしてみるとわかりやすいのではないでしょうか。現実の世界は「危機的
    な諸法の時間的因果系列としてのみ存在している」のですが、われわれの認識
    というのは、その現実の世界をある時点における「概念の体系」で切り分けま
    す。その結果として、諸法が危機的でないものに見えてくる場合もあるのでは
    ないでしょうか。その典型が、諸法を支える(それ自体は変化しない)基体の
    存在を信じる、いわゆる基体説だとわたしはおもいます。

     

      [*1] 『中論』に おける「自性」の二つの語義(松本史朗)
         http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

      [*2] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第二章 縁起論」
         http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html

      [*3] 松本史朗 『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 27。

      [*4] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33


2006.01.07

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