361 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/12(金)
22:24
>>360 非活動1年生さん
はじめまして。
> でも「自分で考えること」「自分で決めること」の出来る
> 幸せ以上の物はこの世の中にはないという事だけは言えると
> 思っています。
非活動1年生さんがいわれていることは、牧口初代会長の精神[注1]に通じるとおもい
ます。
[注1] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
http://fallibilism.web.fc2.com/024.html
《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態から人を解放する》という意味で
の啓蒙主義こそがまさに創価学会の創立理念だったはずなんですが[注2]、残念ながら、
現状は逆方向を走ってしまっています(涙)。
[注2] スレッド「創価学会(SGI)は世界宗教をめざす」、No. 473。
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1034690171&START=473&END=473&NOFIRST=TRUE
395 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/18(木) 07:40
>>389 みれいさんへ(1/2)
おはようございます。スレちがいになるとはおもいますが、せっかくコメントを頂戴し
ましたのでレスしてみたいとおもいます。
> 反証によって結論を出そうとしていない方へ「反証のルールにのっとって」おっしゃら
> れてもわかりにくいかもしれないです。
わたしは、対話によって、自分の考えに含まれている誤りに気がつきたいとおもってい
るのです。そのためには、批判は特定されたものでなければ困るのです[注1]。
[注1] 小河原先生からのご回答(ポパーの真理論などについて)
http://fallibilism.web.fc2.com/kogawara01.html
> ひょっとしたら学会だけでなく、日蓮正宗自体が反証は受け入れ難いのかもしれないで
> すね。
そうなのかもしれません。たとえば、日蓮自身が残した言葉(確実な御書)を引用して、
日蓮自身の考えとの相違を指摘しても、それが反証として受け入れられないということが
実際にあります[注2]。
[注2] 《日蓮本仏論》再考
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html
> 私にはLibraさんの、yurikoさんへのフォローと、創宗の中立姿勢は伝わりました。
わたしは「中立」でありたいとおもっているわけではないのです。創価学会の主張であ
っても、日蓮正宗の主張であっても、その主張の中身が妥当であれば賛成します。
396 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/18(木)
07:41
>>389 みれいさんへ(2/2)
あちらのスレッドでもいいましたように、わたしは、【主張そのものの妥当性というの
は、その主張を誰が言い出したのかということとは切り離して考えるべきである】と考え
ます。日蓮が「諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず」というのもそういう意味だ
とおもいます。
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本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずいづれも仏説に証拠分明に
道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん、又
法門によりては設い王のせめなりともはばかるべからず何に況や其の已下の人をや、
父母師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不信はしらずありのままに申すべし
と誓状を立てしゆへに…
(「破良観等御書」、学会版全集、p. 1293)
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> 本尊の取り扱いが、その団体の思想をあらわすのかな、と思いました。
本尊についてのわたしの考えは、以下の議論の中で、ある程度しめすことができたので
はないかとおもっています。
「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 3 ](No. 780〜)
http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html#780
日蓮の本尊(曼荼羅)というのは、『法華経』の「虚空会の付嘱の儀式」の表現です。
教主釈尊から上行菩薩へ、「仏の智慧の全体」であるところの「題目」が付嘱されている
まさにそのシーンを表現したものなわけです[注2]。
[注2] 【日蓮は東を向いている】(Libra)
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1034690171&START=609&END=609&NOFIRST=TRUE
399 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/18(木)
22:54
>>389 みれいさんへ(補足)
わたしのせいで、おさわがせしてしまったようです。もうしわけありませんでした。
> ひょっとしたら学会だけでなく、日蓮正宗自体が反証は受け入れ難いのかもしれないで
> すね。
「みずからに対する批判を却下する装置をはじめから内在させている」[注]ような知的
体系のことを、ポパーは「補強済みのドグマティズム」と呼んでいます。
[注] 小河原誠『ポパー──批判的合理主義』、講談社、1997年、p. 219。
別のスレッドで、わたしが「yurikoさん&研鑚板の理論」と名づけておいたものは、お
そらく、ポパーがいうところの「補強済みのドグマティズム」なのでしょう。
404 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/19(金)
06:43
>>402 経悟空さん
はじめまして。おはようございます。
> 「みずからに対する批判を却下する装置をはじめから内在させている知的体系」
>
> それは簡単に-わたしの申立てる事柄はぜんぶ真実である-という体系でしょうか?
かならずしもそうはならないだろうとおもいます。
1.上の文章からあきらかなように、「みずから」というのは「知的体系」のことをさし
ています。「知的体系」の提唱者とか支持者とかといった「個人」のことではありま
せん。
2.当該「批判を却下する装置」が却下(回避)するのは、「みずからに対する批判」で
す。つまり、却下されるのは、当該「知的体系」に対する批判です。
3.当該「知的体系」は、かならずしも、「わたし(当該「知的体系」の提唱者とか支持
者)の申立てる事柄」の「ぜんぶ」とは一致しないでしょう。ふつうは、「わたしの
申立てる事柄」の一部だろうとおもいます。
4.したがって、当該「批判を却下する装置」は、「わたしの申立てる事柄」に対する批
判のすべてを却下するわけではないでしょう(ふつうは)。
5.よって、当該「知的体系」は、「-わたしの申立てる事柄はぜんぶ真実である-という
体系」とは、かならずしも一致しないとおもいます。
#「すべての批判を却下できる」ということと、「真実である」ということもちがうよう
#におもいます。しかし、この点については、無視して今回は書きました。
405 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/19(金)
07:30
>>400 みれいさん
> マインドコントロール論でいうところの「ビリーフシステムの強化」にも繋がる部分か
> な、と。
わたしは「マインドコントロール論」についてはまったく何もしらないので、こんど、
本格的に復帰したら、イロハから教えて下さい。今は、読みたい本を読む時間もありませ
ん(涙)。
> Libraさんがいかにして反証主義にたどりついたか、なんてのも気になりました。
仏に導いていただいのでしょう。
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ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。「永遠の越
境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に固執して生きること」
という儚き夢から「常に目覚める者」がブッダなのです。
(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、pp. 166-167)
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何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永遠に突破することにあ
ります。一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。
(同上、p. 174)
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永遠の脱出者ブッダは、心地よき悟りから脱出しようとするのです。「心地よさ」は
くせ者です。「心地よさ」は立場を構築してしまったことの表れです。安らかな繭の
中で、快適な惰眠(だみん)を貪るのです。
(同上、p. 175)
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4
07 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/19(金)
23:37
「補強済みのドグマティズム」については、小河原先生の以下のご説明が参考になるか
もしれません。
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反証回避戦略をとることは、ときとしては理論が反証されてしまったことに対する
みっともない取り繕いであり、ときとしては新たな真理を発見するための果敢な試み
である。したがって、この戦略をとることを頭からいいとか悪いとか決めつけること
はできない。
しかしながら、反証回避戦略のうちには極端な種類のものがある。すなわち、いっ
さいの反証をはなから受けつけない狂信的タイプの反証回避戦略といったものが存在
する。ポパーは、そのような戦略をフロイトの精神分析やマルクス主義などの一部に
認めた。
精神分析学者はどんな反対意見に出会っても、その反対意見は批判者の抑圧の
せいであると示して、いつでも反対意見を説明し去ることができる。同様に、意
味の哲学者もまた、彼らの敵対者の主張を無意味であると指摘しさえすればよい。
そして、この指摘は、「無意味」という言葉の定義がこの言葉についての討論は
無意味である、というように定義されているのだから、いつでも真である。マル
クス主義者も、同じ手管で敵対者の不同意をいつでもその敵対者の階級的偏見に
よって説明する……。
このような反証回避戦略がとられると、反証ということが原理的に考えられなくな
る。どんなまともな反論が述べられたところで、それは「抑圧があるからだ」とか
「階級的偏見があるからだ」といって片づけられてしまう。これは、一見、その理論
が無敵の理論であるかのような印象をあたえるが、よく考えてみるならば、どんなこ
とでも説明できる──みずからに対する反対意見としての批判さえ説明し去ることが
できる──ということは、(中略)理論としては空虚なのである。そして、(理論と
して)「空虚である」とは、経験となんらのつながりをもたないということでもある。
ことばを換えれば、そのような理論は、決して(経験的には)反証されえないのであ
り、無傷でいられるのである。
(小河原誠『ポパー─批判的合理主義』、講談社、1997年、pp. 26-27)
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