■ 独り言スレッドvol.4


65 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 01:49

>>62 名も無き行者さん

(前略)
 現時点での率直な感想を一言でいうと、「いろんなことがごっちゃにされて議論されて
るなあ」という感じです。たとえば、「善悪」と「真偽」の区別すらなされていないとい
う印象を持ちました。いってみれば、わたしは別スレで、《偽であった(誤った)という
こと、自体は「悪」ではない》と主張したわけですが、「善悪」と「真偽」の区別すらな
されていないところでは、わたしのいっていることは全く理解されないだろうとおもいま
す。あと、「批判」と「非寛容」についても混同があるのように感じました。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   《容赦なく他者の理論を批判するのは不寛容である》と考えている人がいるのかも
  しれない。しかし、それは誤りだと思う。

   他者の誤りに気がついたときに、その誤りを具体的に指摘するのが批判である。結
  果的に、誤りを指摘した方の側が、自らの誤りに気がつくということもよくある話で
  ある。ようするに、批判というのは、協働して真理に接近しようと試みることをいう
  のだ。批判は、 「互いの誤り、互いの無知を容認し合う」ところからはじまる。私
  はそのような行為を不寛容だとは決して思わない。もしも、批判という行為を不寛容
  だと考える人がいるとすれば、その人は、おそらく、批判というものをほとんど理解
  していないのだろう。以下の資料を参照されたい。

  (スレッド「仏教の源流から」、No. 905、
    http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1029381997&START=905&END=905&NOFIRST=TRUE
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(中略)
 わたしは、自分が読んで理解できたものしか引用してませんので、名も無き行者さんな
ら必ず理解できるはずです。もちろん、《どういう主張なのかを理解する》ということと
《理解した主張を肯定する》というのは違います。

(後略)
[引用者註] 本コメントは「研鑚板」の下記スレッドに関するものである。http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=168&KEY=1059627942&LAST=100

71 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 04:56

>>69 名も無き行者さん
(中略)
> これです。「特定」ってのはどういう風に特定されているのか?何によって特定されて
> いるのか?というのが、いま一つぴんと来ないでいます。

 この部分はそんなに難しいことがいわれているのでは全然なくて、《批判者は、自分が
対象理論に誤りがあると思う理由を、相手側に十分に伝わるように、相手の理論のどこが
どのように誤っていると思うのかを具体的に特定して述べなければならない》ということ
です。もしそのような批判でないとすれば、批判された側が自らの誤りに気がつくことが
できたり、批判された側が批判者の見解の誤りに気がついて異論を唱えたりすることがで
きないので、なんら誤りの除去(真理への接近)に寄与しないということです。牧口常三
郎なら、同じことを以下のようにいうでしょう。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  万一如何にしても、納得する事が出来ないといふならば、学者的良心からしても、納
  得する能はざる理由を意識しなければならない。異議を挾(さしはさ)む余地のあつ
  てこそ、初めて不承知の理由となるのである。

  (斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社、1982年、p. 78、
    http://fallibilism.web.fc2.com/024.html
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


> 「非個人的」って「個人の意見に拠らない」って意味なのかな?

 わたしは原語で読んだわけではありませんが、おそらく、ここで「個人的」と訳されて
いる部分は「個人を対象とするものである」というような意味なのでしょう。つまり、
「非個人的」というのは、批判の主体について形容していわれているわけではないとおも
います。こんど小河原先生に聞いてみます。


72 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 08:59

 名も無き行者さんへ

 たった今読み終わりました。精読とはいえませんが。

 わたしがこの板のスレッド「「開会」…って何?」において、鬼太郎さんのご主張(命
題)が陥っているところの「相対主義の自己矛盾」を指摘したそのすぐ直後に、偶然、別
の方が同じことを指摘されていたという事実以外には、わたしの考えとはなんの関係性も
有さないようです。

 (後略)


74 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 14:38

>>73  名も無き行者さん

> 変な事書いたばっかりにとんでもない時間を掛けさせてしまいました。

 いえいえ。わたしは反証主義者[注1]なので、《常に自説に対する反証を積極的にさ
がしもとめる》というのは、「いっそう広い牢獄へと脱出する」[注2]ための日課みた
いなものです。

  [注1] 創価学会をみんなで考えよう BBSの記録(記録:Leo さん)
      http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog2.html
      
      ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
      http://fallibilism.web.fc2.com/114.html

  [注2] フレームワークの神話(カール・ポパー)
      http://fallibilism.web.fc2.com/111.html


(後略)


89 名前: Libra 投稿日: 2003/09/01(月) 00:28

>>88 名も無き行者さん

 資料のご紹介ありがとうございました。

 ポパーは、科学と科学でないものとの境界を設定する境界設定問題を「カントの問題」
といっています。「カントの問題」はポパーによって解かれたとわたしはおもいます。

 ポパーの考えを肯定するにせよ否定するにせよ、今後はポパーを無視することはできな
いだろうとおもいます。もういちどだけ、おすすめの参考文献をあげておきます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  一応、おすすめの本を具体的にあげておきます。以下の順番に専門的になっ
  ていきます。1.だけでもいいと思います。
  
   1.小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、
      講談社、1997年。

   2.ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、
      未來社、2001年。
  
   3.小河原誠編『批判と挑戦──ポパー哲学の継承と発展にむけて』、
      未來社、2000年。

   4.小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、
      未來社、1993年。

   あと、1.と4.についての訂正については以下を参照されて下さい。私も
  少しだけ協力しました。

    訂正
    http://www2u.biglobe.ne.jp/~kogawara/mistake1.htm

  (スレッド「マインドコントロールについて」、No. 54、
    http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1057634332&START=54&END=54&NOFIRST=TRUE
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


(後略)


95 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/12(金) 22:39

>>94 名も無き行者さん

(中略)

 「メルロ・ポンティ」と「マルクス、ニーチェ、フロイト、フッサール」は読みました。
わたしはもともと現象学から哲学にはいりました。メルロ・ポンティとかフッサールとか。
フッサールの挫折を追体験するというのは、ポパーの思想を理解するのに資するかもしれ
ません。以下は現象学関連の資料です(おまけ)。

  フッサール現象学の運動性(谷徹)
  http://fallibilism.web.fc2.com/053.html



2003.09.14

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