■ 「「開会」「死活の法門」研鑽!【絶待妙】【相待妙】って何?」スレッド


19 名前: Libra 投稿日: 2003/08/22(金) 22:27

>>18 Leo さん
(中略)
> バリバリ氏との対話を考えるならば...

 「バリバリ氏との対話」に限りませんが、対話するに際してとても重要であるにもかか
わらずもっとも困難なのは、「勝利することを忘れ」ることかもしれませんね。

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   真剣で批判的な討論というのはいつにあっても困難なものである。人格的な問題の
  ような合理性を欠いた人間的要素がつねに入りこんでくる。合理的な、つまり批判的
  な討論の参加者の多くがとくに困難に感じるのは、本能が命じているように見えるこ
  と、(そして、論争的な社会ではどこでも結果的に教えられること)つまり勝利する
  ことを忘れねばならないということである。学ばねばならないことは、論争における
  勝利にはなんの価値もなく、他方、問題をほんのわずか明晰にすることですら──自
  分自身の立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けてなされたほんの些細
  な貢献ですら──大きな成功だということである。ある討論において勝利を得ても、
  みずからの精神が変化したり明晰になったりすることがどうみてもほとんどないので
  あれば、その討論はまったくの無駄とみなすべきなのである。まさにこの理由のゆえ
  に、みずからの立場の変更は内密になされてはならず、その変更がつねに強調され、
  その帰結が探求されるべきなのである。
   この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれ
  はそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗などを目的とはしていな
  い。その期待しているところは慎ましやかなものである。われわれが物事を新しい光
  のもとで見ることができるようになったとか、真理に少しでも近づいたとすれば、そ
  れで十分、いや十二分なのである。

  (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、
    M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパ
    ー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、pp. 88-89)
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 あと、「対話のもたらすものについての過度に楽観的な期待」をいだいてしまうと、結
局は、「全般的な悲観主義に転じ」てしまうのかもしれませんね。

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  さてここで再び、フレームワークの神話へと眼を転じよう。この神話がしばしばほと
  んど自明の真理とみなされているという事実があるが、それには数多くの原因となる
  風潮が存在しているのである。
   その風潮のひとつにわたくしはすでに言及した。これは、理性のもつ力にかんする
  過剰な楽観主義が裏切られたことから生じたものである。つまり、討論のもたらすも
  のについての過度に楽観的な期待から生じているのである。わたくしが言いたいのは、
  討論の結果として、ある党派によって代表される真理が別の党派によって代表される
  誤りに対して決定的かつ当然の知的勝利をおさめるべきであるという期待のことであ
  る。これが討論によっていつも達成されるとはかぎらないことが見出されたとき、失
  望から、討論の実りにかんする過度に楽観的な期待が全般的な悲観主義に転じるので
  ある。

  (同上、pp. 89-90)
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22 名前: Libra 投稿日: 2003/08/23(土) 23:02

>>21 鬼太郎さん

> 命題「普遍的絶対的『正誤』を決定することは、誤りである」
>
> ということで…じゃ〜いったいこの「誤り」ってのはなんなの?ってことになっちゃう。
> 論理の限界ですわ…。根本的にパラドってるんですね。

 典型的な「相対主義の自己矛盾」ですね。

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   歴史的にみるならば、相対主義は各人が固有の真理規準を持つこと、したがって客
  観的な真理規準は存在しないと主張する立場として理解されてきた。古代ギリシアに
  おける相対主義の提唱者の一人、プロタゴラスの言をもってすれば、各人があらゆる
  ことがらの尺度なのである。そのとき以来、相対主義は繰り返し客観的な実在とか真
  理は存在せず、存在するのは、ただ主観的な実在のみであると、あるいは、主張の所
  有者、つまり、個人、社会、時代に特有な真理のみであると主張してきた。しかしな
  がら、相対主義者は、自らの立場の真なることを確信しているかぎりで、この主張自
  体は客観的な真理であると考えざるをえなかった。ここにあるのは、明らかな自己矛
  盾である。そしてこれが、相対主義に対する伝統的反駁であった。

  (小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、
    pp. 210-211)
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23 名前: Libra 投稿日: 2003/08/23(土) 23:22

>>21 鬼太郎さん

> どちらの主張も、やはり「正しい」もの「確かなもの」への依存性(心理的)を否定で
> きないように思います。

 もちろん、われわれは真理を所有できないし、われわれの認識は「確かなもの」などで
はありえません。しかし、「真理の追究」という理念は否定すべきではないと思います。

  ポパーの倫理思想(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

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  3.すべての主張は、《正当化できない》という意味で、推測です。われわれは、
    真理を所有することはできません。推測は、おそらく、誤りを含んでいます。

  4. どんな主張も、正当化できませんが、証拠や論証によってテストされ、批判さ
    れ、反証されえます。もちろん、提出された証拠や論証それ自体も批判され、
    反証されえます。

  5. われわれは、真理を所有することはできませんが、批判的討論(批判・反証)
    を通じて、推測に含まれる誤りを除去していくことができます。誤りを除去す
    ることによって、真理により接近することが可能です。

  (スレッド「仏教の源流から」、No. 903、
 http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1029381997&START=903&END=903&NOFIRST=TRUE
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24 名前: Libra 投稿日: 2003/08/23(土) 23:33

 フッサールの以下の言葉はとても重みがあるとわたしは思います。

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  たとえ学問が、最終的には自ら洞察せざるをえないように、「絶対的」な真理の体系
  の実現に事実上至ることがなく、その真理を繰り返し変更するよう強いられるとして
  も、学問はやはり絶対的な真理または学問的に真正な真理という理念を追いかけ、そ
  れゆえ、この理念に近似的に接近して行こうとする、無限の営みの地平のなかへ入り
  込んでいくことになる。学問は、この近似的な接近とともに、日常的な認識と自分自
  身とを無限に乗り越えていくことができる、と考えている。

  (フッサール著・浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波文庫、2001年、pp. 34-35)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



26 名前: Libra 投稿日: 2003/08/24(日) 08:54

>>25 オフィルさん

 横レス失礼します。

> 自分の望む在り方からして、役に立たないことを「誤り」と言っているのではないでし
> ょうか。

 そういうプラグマティックな真理観をもっている人はけっこう多いのかもしれませんね。
これにたいして、わたしは、いちおう対応説を受け容れています(「いちおう」というの
は、「規制観念として」ということなのですが、その説明については参考文献にゆずりま
す)。つまり、「言明と事実とが一致(対応)するときは当該言明は真であり、一致しな
いときは偽である」とわたしは考えています[注1]。

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  真理についてはどんな規準もありません。しかし、誤りの規準らしきものはあります。
  すなわち、われわれの知識内部で生じる衝突や、事実とわれわれの知識とのあいだで
  の衝突は、何かが間違っていることを示しています。このようにして、知識は批判的
  な誤り除去を通して成長することができるのです。

  (カール・R・ポパー著、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と
    合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、p. 252)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


    [注1] 小河原誠「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」(ポパ
        ー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、未來社、
        2001年)の 27 - 30 ページを参照されたい。


> 普遍的絶対的「正誤」がある。と思っていたらあちこちで対立してしまうので一緒に仲
> 良く暮らすためには役に立たない思想だ。

 むしろ逆だとわたしはおもいます。相対主義は「その公言された目標、すなわち、異な
った立場の平和的な共存と相互的尊敬という目標を達成することはできない」[注2]とお
もいます。相対主義こそ「一緒に仲良く暮らすためには役に立たない思想」だとおもいま
す。

    [注2] 相対主義批判(小河原誠)
        http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

 これにたいして、「客観的真理がある」という考えは、一緒に仲良く暮らすために役に
立つ考えだとおもいます。
 「客観的真理がある」ということと「われわれは客観的真理を所有しうる」ということ
は主張の中身がぜんぜん異なります。わたしは前者を肯定しますが、後者は否定します。
 「客観的真理がある」と思っていても、「われわれは客観的真理を所有していない」と
思っているなら、「一緒に仲良く」協働して、客観的真理への接近を目指すことが可能で
す。その試みが対話だとわたしはおもいます。対話とは「協働して真理に接近しようと試
みること」だとわたしは考えます。そうであるならば、対話というのは、すくなくとも以
下の5つのことを前提としなければそもそも成り立たないとおもいます[注3]。

  1.客観的真理はある。
  2.われわれは客観的真理を所有できない。
  3.われわれは誤り除去を通して客観的真理に接近することが可能である。
  4.われわれには真理を追究する意志がある。
  5.われわれが誤りを発見するためには他の人間を必要とする。

    [注3] ポパーの倫理思想(小河原誠)
        http://fallibilism.web.fc2.com/083.html


27 名前: Libra 投稿日: 2003/08/24(日) 09:41

>>25 オフィルさん

> 私、「誤り」っていうのは何か悪いことをしたみたいなイメージがあるんです。

 まずそういうイメージ(誤りに対する態度)をわれわれは変更すべきなのだとわたしは
おもいます。

 「われわれのすべては始終誤りを犯している」のですから「われわれは相互に誤りを許
し合」うべきです。また、われわれの知識というのは「みずからの誤りから学」ぶことに
よって成長していくものですから、「他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、
それを(中略)感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない」し、「われわれが
他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯
したことがあることをいつでも思いだすべき」だとおもいます。

 以下、すべて、小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(講談社、1997年)からの引用で
http://fallibilism.web.fc2.com/083.html)。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ポパーの認識論は、彼自身がおこなっているように、無知の自覚の論理として捉え
  ることができる。(中略)それはたとえば、彼がヴォルテールの寛容論をひいて、認
  識論と倫理との関係を指摘している箇所に明らかである。

     寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的である
    し、われわれのすべては始終誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれて
    くる。としたら、われわれは相互に誤りを許し合おうではないか。これが自然法
    の基礎である。

   ポパーは、己の愚かさを相互に赦し合うべきであるというヴォルテールの主張を受
  け入れる。われわれは、互いの誤り、互いの無知を容認し合うべきである。ポパーは、
  知的謙虚や知的正直さへ訴えて寛容を基礎づけたヴォルテールの立場を継承する。
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  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  二、すべての誤りを避けることは、あるいはそれ自体として回避可能ないっさいの誤
    りを避けることは、不可能である。誤りは、あらゆる科学者によってたえず犯さ
    れている。誤りは避けることができ、したがって避けることが義務であるという
    古い理念は修正されねばならない。この理念自身が誤っている。

  三、もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。
    しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しい
    ことであるか、そしてなんぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないこと
    をとくに明確に自覚する必要がある。(中略)

  五、それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの
    実際上の倫理改革が始まるのは、ここにおいてである。なぜなら、古い職業倫理
    の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させる
    ものであるからである。

  六、新しい原則は、学ぶためには、また、可能なかぎり誤りを避けるためには、われ
    われはまさにみずからの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、
    誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。

  (中略)

  九、われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを
    気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受
    け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、
    われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつ
    でも思いだすべきである。またわれわれは、最大級の科学者でさえ誤りを犯した
    ことを思いだすべきである。もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許
    されると言っているのではない。われわれは気をゆるめてはならないということ
    である。しかし、くりかえし誤りを犯すことは人間には避けがたい。
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



28 名前: Libra 投稿日: 2003/08/26(火) 00:25

【誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である】

 ポパーの《誤りをもみ消したり、隠蔽したり、できるだけ速やかに忘却しようとするこ
とは最大の知的犯罪である》という主張に関連して、袴谷憲昭『道元と仏教──十二巻本
『正法眼蔵』の道元──』(大蔵出版、1992年)
から以下のコメントを引用しておきます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  しかし、失敗も罪も、たとえ隠し通すことに成功したとしましても、決して消えてな
  くなることはありません。記憶が文字通り零になるのでもない限りは、失敗や罪も、
  更には無知も、隠そうとすればするほど益々鮮明になってくるものであります。しか
  し、決して消えるものではないからこそ、むしろ自ら進んで言葉によって明瞭に失敗
  や罪や無知を認めて正しい方へ変っていこうとする以外に道はないのだと思います。
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 以下にもう少し詳しく引用してありますので興味がおありの方はどうぞ。

  真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/011.html


30 名前: Libra 投稿日: 2003/08/26(火) 09:26

>>29 オフィルさん

 よろしくおねがいします。ごあいさつがおくれてもうしわけありません(汗)。

> Libraさんがおっしゃる「失敗や罪」を隠し通して認めまいとしているわけではありま
> せん。

 わたしは、オフィルさんが「「失敗や罪」を隠し通して認めまいとしている」とはおも
っていません(汗)。わたしがそうおもっているというような誤解をオフィルさんに与え
てしまったのならもうしわけありません。

> Libraさんがおっしゃる失敗や罪や誤りというものを、私は自分の望む在り方を実現す
> るのに役に立たない方法。と定義しています。

 そのように私も理解しました(少なくとも「誤り」に関しては)。そのうえで、わたし
は、オフィルさんが、

  《言明の「正誤」は普遍的絶対的なものではなく主観的相対的なものである》という
  思想(相対主義)は一緒に仲良く暮らすために役に立つ。

と考えておられると理解しました。それに対して、わたしは、《相対主義は一緒に仲良く
暮らすためには役に立たない》とおもっていますので、そのことを >>26 で書きました。

> 私のレスから、私を「プログマティックな真理観をもつ人間」と解釈されたのかもわか
> りませんが、私は不勉強でそのプログマティックという意味がわかりません。

 わたしがいう「プラグマティックな真理観」というのは、「真理を実践上の有効さでき
める」真理観というほどの意味です。ある哲学辞典の「プラグマティズム」についての解
説の引用が落ちていたので孫引きしておきます。

  プラグマティズム
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~asanami/pragma.html

 >>27 は、 >>26 とは独立した別の問題意識をもって書きました。そこでは、《「誤る」
ということ自体を悪いことのように考える態度》は変更されるべきであると主張しました。
「誤り」については、《悪いのは「誤る」こと自体ではなく、「誤りをもみ消したり、誤
りから学ぼうとしないこと」であると考える態度》をとるべきだという主張です。

 >>28 は、 >>27 で引用した、ポパーの「誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である」
という主張を理解するのに資するとおもわれる袴谷先生のコメントを引用しました。


32 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 01:23

>>31 【オフィルさんへ(1/4)】

 ご丁寧なレスをありがとうございました。

 さて、わたしの興味は、《オフィルさんの真理観》から《オフィルさんがいわれている
ところの真理の具体的な中身》に移ってきました。以下にいくつか質問させていただきま
すので、コメントして頂ければ幸いです(もしご迷惑でなければ)。

> 私は、宇宙に存在する生命は ある1つの法則 により機能していると思っています。

 わたしが興味があるのは、ここで「ある1つの法則」という言葉で表現されているもの
の具体的な中身です。それによって、上のご主張の内容がはじめて明らかになると思うか
らです。オフィルさんのコメントをまちたいと思います。


33 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 01:26

>>31 【オフィルさんへ(2/4)】

 といっても、ただまつだけではあまりにも芸がないので、仏教にからめてちょこっと書
いてみます。
 上のような質問に対する回答として、一般によくみられるであろう典型的なパターンと
しては、「根源的生命」[注1]というものが考えられます。このような考えは、日本の新
宗教に限らず、「宗教の一つのパターンとして、一般的であ」り、「インドのウパニシャ
ッド哲学も同じです」[注2]。この対極に位置するのが、仏教の「無我」ですが[注3]、
仏教の場合には、「無我」というのは、「宇宙に存在する生命」にかぎらず、あらゆるも
のについていわれます[注4]。
 「根源的生命」系が「一般によくみられる典型的なパターン」であるぶん、仏教はかな
りの珍種ということになります。おそらく、仏教というのは、人間の通常の発想に逆らう
たぐいの教えであって、通念になじみにくいという性質を有するのだろうと思います。そ
ういう理由もあってか、仏教は、結局、「根源的生命」系にしだいに同化されてしまい、
インドにおいては実質的に消滅してしまいました[注5]。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  仏教は原始仏教以来、「無我」を主張するが、これはインドの伝統的なアートマン
  (我)の宗教と敵対するのである。……唯識思想の阿頼耶識や、如来蔵思想の如来蔵
  や仏性などは、アートマンにきわめて類似した観念である。……仏教が興起した若さ
  にあふれた時代には、無我や空の思想が力強く主張せられたのであるが、時代ととも
  に教理に変容を蒙ってゆくうちに、しだいにアートマンの思想に同化されていったの
  であり、それにつれて仏教はインドに勢力を失っていったのである。仏教が本来アー
  トマン説でなかったことが、仏教がインドに滅びる大きな理由であったと考える。

  (平川彰『インド仏教史 上』、春秋社、1974年、pp. 9-10)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  [注1] 新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
      http://fallibilism.web.fc2.com/041.html

  [注2] 「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
      http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
      
  [注3] 原始仏教における生命観(高橋審也)
      http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

  [注4] 「無我」と「非我」は違うか?(Libra)
      http://fallibilism.web.fc2.com/z011.html

  [注5] 仏教の消滅(小川一乗)
      http://fallibilism.web.fc2.com/060.html



34 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 01:31

>>31 【オフィルさんへ(3/4)】

> その ある1つの法則 を真理というなら、それを実践上の有効さだけで決めるのは浅
> はかだと思います。

 このご主張も、「ある1つの法則」の具体的な中身が明らかにされるまでは、なぜ「そ
れを実践上の有効さだけで決めるの」が「浅はか」なのかが明らかにならないとおもいま
す。ですから、まずはオフィルさんのコメントをまちたいと思います。

> また、普遍的絶対的な真理があり、私の信じているものがまさしくそれだ。とエゴを膨
> らませすぎるのも浅はかだと思います。

 《普遍的絶対的な真理(以下、「客観的真理」ということにします)はあると信じるが、
わたしの信じているものがまさしくそれであると証明することなどはできない。そういう
意味では、わたしの信じているものは、つねに、「客観的真理についての推測」であるに
すぎない。しかし、わたしは、自分の推測を批判にさらしていくことにより、推測から誤
りを除去していき、推測を成長させ、客観的真理への接近を試みることができる。》とい
うような考え[注6]を、オフィルさんは「浅はか」と思われますでしょうか。また、それ
以外に「浅はか」でない考えがありえるとお考えになられますでしょうか。もし、ありえ
るとお考えになるとすれば、たとえばどのような考えがあると思われますでしょうか。

  [注6]  創価学会をみんなで考えよう BBSの記録
       http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog2.html



35 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 01:33

>>31 【オフィルさんへ(4/4)】

> 絶対的な真理を味わうために、相対性の領域(現世界)を利用すれば良いと思うのです。

 「相対性の領域(現世界)」という表現は、「現世界は相対性の領域である」という意
味だと理解してよろしいでしょうか。「世界」といわれていますので、ここでいわれてい
る「相対性」というのは、「真理」についてのそれではなく、存在についての「相対性」
ということになるのでしょうか。世界には「絶対的な存在」の領域と「相対的な存在」の
領域があって、そのうちの「相対的な存在」の領域(現世界)を利用して「絶対的な真理
〔の世界?〕を味わう」ということになるのでしょうか。「絶対的な存在」というのは、
《「相対的な存在」を支えている「確実な基盤」》というようなものなのでしょうか。そ
うかんがえると、「絶対的な存在」と「絶対的な真理」というのは、オフィルさんにおい
ては同じものであると想定されているのかもしれないとおもえてきます(もちろんわたし
の誤解かもしれません)。だとすれば、オフィルさんがいわれるところの「ある1つの法
則」というのは、前述の「根源的生命」に近いのかもしれないと推測します。このわたし
の推理がどれだけ当っているのか、オフィルさんのコメントをたのしみにまちたいと思い
ます。


37 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 07:54

>>36 オフィルさん

>  わわっLibraさん、コメントを楽しみにされているとのことですので、今日はもう寝
> ますが少しずつでもお答えできればと思います。

 ぜひじっくりと納得がいかれるまでおかんがえになってください。それから少しずつゆ
っくりとコメントしていただければとてもありがたいです。

 わたしのほうも、いろいろとやらないといけないことがあったりしますし、そのくせ、
なりゆきで、今、ある方とメールでこまかい議論をしたりもしていますので、わたしにと
っては、《ゆっくりではあっても、そのぶん着実に話が前に進んでいく》というのがもっ
とも好ましい対話のありかたです。

 「以前とは異なった仕方で物事をみる仕方を学ぶ」のが対話の目的ですから[注1]、先
をいそいでしまってそのチャンスを失ってしまうというのはじつにもったいないとおもい
ます。それに、そもそも、《「やりとりのスピード」が高ければそれだけ「話が前に進ん
でいくスピード」も高くなる》ということには必ずしもなりません。おなじところをぐる
ぐるまわってしまうというのもよくあることです。ですから、われわれは、デカルトをみ
ならって「闇の中を歩む者のようにゆっくりと行」きましょう[注2]。われわれはひとり
ではないので、もしかしたらデカルトより先にすすめるかもしれません。以下はデカルト
の言葉です(メモを紛失したので出典は忘れました)。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  私は、ただひとり闇の中を歩む者のようにゆっくりと行こう、すべてに細心の注意を
  はらおう、と決心した。そしてそうすれば、たとえ少ししか進めなくとも、せめて倒
  れることだけはまぬがれるだろう、と考えた。
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  [注] 論争における勝利にはなんの価値もない(カール・ポパー)
     http://fallibilism.web.fc2.com/110.html



38 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 08:02

>>37 訂正です

 [注2]にデカルトの言葉の出典を示そうとおもったのですがメモが見つからなくてでき
ませんでした。で、そのまま投稿してしまいました(汗)。

 [注2]は削除して、[注1]は[注]とよみかえてください。


46 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 22:46

>>40 【鬼太郎さんへ(1/4)】

 おいそがしいところをコメントありがとうございます。

> ここで問題になってくるのは、その思想を用いて議論する際、この思想自体の共通認識を
> 前提にしなければならない

 「この思想」というのは「ポパーの倫理思想」ということでよいのだとおもいますが、ポ
パーは「ポパーの倫理思想」を含めて批判にさらすわけですから、議論の相手に「ポパーの
倫理思想」を前提とすることをまったく要求しません。ちなみに、ポパーは、「合理的で実
りある討論は、その参加者が基本的な仮定にかんする共通のフレームワークを共有しなけれ
ば、あるいは少なくとも討論のためのそのようなフレームワークにかんして合意していなけ
れば、不可能である」という考えを「フレームワークの神話」として批判します[注1]。

  [注1] フレームワークの神話(カール・ポパー)
      http://fallibilism.web.fc2.com/111.html



47 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 22:46

>>40 【鬼太郎さんへ(2/4)】

> ガイアさんのような方ならともかく、この議論を成立させるには哲学的思考のセンス(優
> れているという意味ではないです)が要求されます。

 わたしはそのような考えを嫌悪します。わたしは、ポパーとおなじく、「知的で哲学的な
エリートが存在するという考え方には真っ向から反対する者」です[注2] 。

  [注2] あらゆる人々は哲学者である(カール・ポパー)
      http://fallibilism.web.fc2.com/113.html


 こういう言葉もあります。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  もし他の人々が現に考えていること、あるいは過去に考えたことをわれわれが顧みな
  いならば、各人は幸福げにひとりごとをいい続けることはできるかもしれないが、合
  理的議論は終りにならざるをえない。ある哲学者たちは、独白をもってよしとした。
  多分、彼らは語りあうに価するいかなる他人もいはしないと思ったからであろう。こ
  のいささか高尚な次元で哲学することが、合理的議論の衰退の徴候であろうと、私は
  おそれる。もちろん、神はおもに自分とだけ語る。なぜなら、神はともに語るにたる
  人をもたぬからである。しかし哲学者たちは、自分たちが他の人たちと同様に神のご
  とき存在ではないことを知るべきである。

  (カール・R・ポパー『科学的発見の論理〔上〕』〔大内義一・森博訳〕、
    恒星社厚生閣、1971年、p. 139)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



48 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 22:47

>>40 【鬼太郎さんへ(3/4)】

> Libraさん、どうでしょう。どうすればこの思想自体を論じずに、この思想に即した実践
> 的問題の議論(方法論の議論)が出来るのでしょうか。

 「この思想」を論じたとしても「パラドックスに陥」ったりはしないので論じてよいし、
また、論じるべきだとわたしはおもいますので、これからも論じつづけます。

> 観念を超えた「方向性」こそ「真理」であるといってしまえば、観念の重力から解き放
> たれるわけではなく、寧ろ観念の闇に落ち込んでしまうことである訳ですから…。

 まことに残念ですが、この部分は、わたしには意味がまったくわかりません。わたしが
このようにいうと、鬼太郎さんは、わたしの「哲学的思考のセンス」を疑われるのかもし
れませんが…。実際、ありませんが(笑)。


49 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 22:48

>>40 【鬼太郎さんへ(4/4)】

> やはり、「幸福」の共通認識を求めるしかないのでしょうか…。

 「幸福」の共通認識を求めるという方向性はかなり危険なのではないでしょうか。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  人を愛するとは人を幸福にしたいという意味である(ついでながら、これはトマス・
  アクィナスの愛の定義であった)。しかし、すべての政治的諸理想のうちでも、人々
  を幸福にしようとする理想は、おそらく、最も危険な理想である。それは、われわれ
  の「より高級な」価値尺度を他人に押し付け、そして彼らにわれわれにとって最大に
  意義を持っているものを彼らの幸福だと思わせ、そしていわば彼の魂を救済するとい
  う企てを不可避的に招くのである。それはユートピア主義とロマンチシズムとに至る。
  われわれのうちの誰れにせよ、あらゆる人がわれわれの夢の美しい完璧な共同体で幸
  福になるだろう、と確信しているのである。そして、疑いもなく、われわれのすべて
  が相互に愛しあえるならば、地上に天国が出現することになろう。だが、私が先に
  (第九章で)述べたように、地上に天国を作ろうとする企ては不可避的に地獄を産み
  出す。その企ては不寛容を導く。その企ては宗教戦争に至り、そして、魂の救済を異
  端審問を通じて行うに至る。そして、私見によれば、その企ては、われわれの道徳的
  義務の完全な誤解に基づいているのだ。われわれの義務はわれわれの救助を必要とす
  る人々を助けることであって、他人を幸福にしようとすることはわれわれの義務では
  ありえない。なぜなら、他人を幸福にすることはわれわれには依存しないし、それは
  またしばしば、われわれがそのような心やさしい意図を向ける人々のプライバシーを
  侵害することでしかないであろうからである。

  (K.R.ポパー著・小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』、未來社、
    1980年、p. 218)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


50 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 22:57

>>49 補足

> 「幸福」の共通認識を求めるという方向性はかなり危険なのではないでしょうか。

 わたしは、「幸せについて考える」よりも「不幸について考える」ほうがよいのではな
いかと思っています。この件については過去に別のところで論じたことがあります[注]。

  [注] 仏教とは何か(Leoさんが記録を残して下さいました)
     http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog001.html



51 名前: Libra 投稿日: 2003/08/27(水) 23:43

>>41 オフィルさん

 コメントありがとうございました。オフィルさんのお考えはだいたいわかりました。

 仏教という観点からいえば、オフィルさんのようなお考えは、釈尊の無我説や日蓮が智
ギから継承した一念三千説とは論理的に両立しません[注1]。わたしは無我説を真実と信
じていますし、無我説と一念三千説とは内容的に異なるものではないと考えていますので
[注2]、そのわたしにとっては、オフィルさんのようなお考えは真実ではないということ
になります。

 しかし、わたしは、オフィルさんを「フェアに競争できる相手」として尊敬したいとお
もいます。ここでいっている「競争」というのは、どちらがより多くの人々を「生を呪縛
するものから解放」することができるかという意味です。わたしは、宗教とは「生を呪縛
するものからの解放の運動」であると考えています[注3]。

  [注1] 一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄)
      http://fallibilism.web.fc2.com/121.html

  [注2] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
      http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

  [注3] 呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
      http://fallibilism.web.fc2.com/042.html


 とはいえ、オフィルさんは、そのようなお考えを、仏教の説として主張されるべきでは
ないとおもいます。そのようなことをすれば、かえって混乱を招いてしまって、フェアな
競争を阻害することになるとおもうからです


54 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 03:14

>>53 【オフィルさんへ(1/2)】

 ちょうどいま、別の掲示板でのオフィルさんのご活躍を拝見させて頂いているところで
す。まだ途中ですが。

> どうして私の思想が無我や一念三千とは違うのかわかりません。

 これは2つの意味で当然だろうとおもいます。ひとつは、オフィルさんが、わたしがこ
れまで[注]で引用したものをまだ読まれていないということです。読んで頂ければ、少な
くとも、どうしてわたしが、オフィルさんのようなお考えを「無我や一念三千とは違う」
ものだと考えるのか、その理由だけはある程度理解して頂けるだろうと思います。

 とはいえ、改めて簡単にご説明しておきますと、無我説の「我」というのは、いわゆる
「私」ということではなくて、アートマンのことなのです。すべてはアートマンではない
(アートマンなどは存在しない)というのが無我説です[注1]。それに対して、「根源的
生命」というようなものはあきらかにアートマンです[注2]。オフィルさんは「根源的生
命」の存在を肯定しておられるわけですから、そのようなものはないとする無我説とオフ
ィルさんの思想は両立しません。一念三千説というのは智ギが中観派の無自性説を敷衍し
たものですが[注3]、無自性説の「自性」というのは、内容的にはアートマンと同じです。
ですから、一念三千説と無我説というのは内容的には同じです。オフィルさんの思想は無
我説と両立しないのですから、それと内容的に同じである一念三千説とも両立しません。

  [注1] 「無我」と「非我」は違うか?(Libra)
      http://fallibilism.web.fc2.com/z011.html

  [注2] 原始仏教における生命観(高橋審也)
      http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

  [注3] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
      http://fallibilism.web.fc2.com/122.html



55 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 03:17

>>53 【オフィルさんへ(2/2)】

 もうひとう意味というのは、無我説とか一念三千説を、オフィルさんの思想と同じよう
なものだと誤解している人がかなり多い[注4]ので、オフィルさんがそのように思われる
のもしかたがないということです。

  [注4] 一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄)
      http://fallibilism.web.fc2.com/121.html


> (無我を目指し瞑想の修練をしたことがあることもあって・・・)おそらく私の言葉足
> らずと勉強不足と説明下手のせいだと思っています。

 《瞑想によって自我意識がなくなるような体験をする》というようなことは、じつは、
仏教の無我説とは何の関係もないのです。無我説の「我」というのは、「私という自我意
識」のことではなくて、アートマンのことなのです。《すべてはアートマンではない(ア
ートマンなどは存在しない)》というのが無我説です。すべてはアートマンではないので、
当然、「私」もアートマンではありえません。《「私」はアートマンではない》というこ
とと、《「私」はない》ということとは全然ちがいます。《「私」はアートマンではない》
ということは、《「私」は、仮としての存在であり、確かなものとしては存在していない》
ということです。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  私たちが死んだらどうなるかと考えるのは、どうしてかというと、確かな「私」が有
  ると思っているからでしょう。(…)もともと存在していないのだから、ないものが
  死んだらどうなるかと考える必要はない。もともと私たちは、仮としての存在であり、
  確かなものとして存在していないのです。

  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 144-145)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



56 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 03:20

>>55 訂正

  「もうひとう意味というのは、」→「もうひとつの意味というのは、」


58 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 05:17

>>57 名も無き行者さん

> 別掲示板で「原始仏教では即身成仏を説いてるんじゃないの?」という疑問を受けまし
> て、未だにその方とは討論中です

 「即身成仏」というのもいろんな意味でつかわれますので、どういう意味でいっている
のかがまず問題となりますよね。というか、「成仏」ということの意味が問題になるのだ
と思います。密教なんかの「成仏」はまさに「梵我一如」なわけでしょう。

 しかし、《死んでからではなくて、生きているこの生身のままで仏になる》という意味
で「即身成仏」というのであれば、わたしは仏教は「即身成仏」を目指す宗教であると思
います。日蓮流にいうなら「一生成仏」ということです。

 また、ある思想が初期経典に現われているからといって、それがそのまま釈尊の思想だ
ったということにはなりませんね[注]。

  [注] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://fallibilism.web.fc2.com/082.html



59 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 10:28

>>39 名も無き行者さん

 ちょっとだけ休憩して、いざ噛み砕こうとしたんですが、このままでは噛み砕きようが
ないです(涙)。というわけで、名も無き行者さんの問題意識をもう少し噛み砕いておっ
しゃって頂ければ幸いです。

 以下は、いちおうのコメントです。

> 私が源流スレの最後の方でLibraさんに質問した内容

 具体的には、どの質問のことでしょうか(汗)。

> 「証明などできなくても正しい事はある」というのは、もう少し噛み砕いて言うならどう
> いう意味なのか?

 わたしは【《正当化などできなくても真である》ということはありえる】とはいいました
が(No. 950)、「証明などできなくても正しい事はある」とおっしゃっておられるのはそ
のことだということでよろしいでしょうか。
(後略)


61 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 14:14

>>60 名も無き行者さん

 では、【《正当化などできなくても真である》ということはありえる】ということを、
わたしなりに噛み砕いて説明してみましょう。

 >>26 に書きましたように、わたしは、いちおう対応説を受け容れています。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  わたしは、いちおう対応説を受け容れています(…)。つまり、「言明と事実とが一
  致(対応)するときは当該言明は真であり、一致しないときは偽である」とわたしは
  考えています(…)。

  (本スレッド、>>26)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ちなみに、ポパーは、タルスキーの真理理論[注1]を採用して対応説の立場を取ります
[注2]。

  [注1] 佐藤正美「メタ言語」
      http://www.sdi-net.co.jp/sdi_040.html

  [注2] 神野慧一郎「ポパーにおける三つの実在論(仮題)」
      http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v7n2kamino.html


 要するに、《ある言明が現実の世界における事実と対応するときにその言明は真である》
とするのが対応説なのです。これを別の角度から説明してみましょう。たとえば、今、あ
る言明Aがあるとしましょう。で、わたしたちが住んでいるこの現実の世界(説明の便宜
上、以下、これを「実在」と呼んでおきます)が[注3]、無数にありえる可能世界のうち、
たまたま、言明Aに対応するものであったときには、言明Aは真となります。逆に、実在
が言明Aに対応するものでないときには言明Aは偽となります。

  [注3] ここで用いられる「実在」という表現にアートマン的な意味はない。

 このように考えますと、実在というものが、無数にありえる可能世界のうちのある特定
のただ一つのものである限りは、言明の真偽は客観的にきまるといえます。しかしながら、
わたしたちは、ある言明Aが与えられたときに、その言明が真であるということを有限回
の手続きで確かめることはできないのです[注4]。それを、わたしは、「言明は正当化な
どできない」といってきたわけです。

  [注4] ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
      http://fallibilism.web.fc2.com/109.html

      デイヴィッド・ミラー「論証は何をなしとげるのだろうか」
      http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1miller.html

      肯定的証拠をいくら積み重ねても理論の正しさは証明されない(小河原誠)
      http://fallibilism.web.fc2.com/057.html


 ところが、前述したとおり、言明の真偽というものは、実在が可能世界のうちのどの世
界であるかのかということによって客観的にきまるものなのですから、言明は【《正当化
などできなくても真である》ということはありえる】のです。


62 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 14:18

>>61 訂正です

> 実在が可能世界のうちのどの世界であるかのかということによって客観的にきまるもの
> なのですから、

  ↓

  実在が可能世界のうちのどの世界であるのかということによって客観的にきまるもの
  なのですから、


64 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 21:46

>>63 名も無き行者さん

> ちょっと難しいです・・・・・。

 ではさらに噛み砕きましょう。

 以下のような命題X、Y、Zを考えます。

  「言明Aが真であるということを有限回の手続きで確かめることはできない」:命題X

  「言明Aは真でありうる」:命題Y

  【命題Aは正当化できないが真でありうる】:命題Z

 わたしは、以下のような推論が成り立つと考えます(もちろん、このわたしの考えも批
判に開かれています)。

 1.任意の命題Aについて、命題Xは真となる。そうならざるをえない理由については、
   No. 61 の[注4]を参照。

 2.任意の命題Aについて、命題Yは真となる。なんとなれば、言明Aが真であるよう
   な世界というのはありうる可能世界の集合の中にかならず含まるので、実在がたま
   たまそのような世界である(言明Aが真である)ということはありえるから。

 3.上の2つから、任意の命題Aについて、命題Xと命題Yの連言は真であるといえる。

 4.命題Xと命題Yの連言は命題Zである。

 5.3と4から、任意の命題Aについて、命題Zは真であるといえる。


65 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 21:48

>>64 補足です

 もちろん、言明Aには、「トートロジーではない」という制約がつきます。


66 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 21:50

>>64 訂正です(細かいですが)

> 【命題Aは正当化できないが真でありうる】:命題Z

   ↓

 【言明Aは正当化できないが真でありうる】:命題Z


67 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 21:52

>>65 補足の補足です。

 「トートロジー」というのは、「すべての可能世界において真となる言明」のことです。


70 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 22:54

>>69 名も無き行者さん

 「言明が実在と対応するときその言明は真であり、言明が実在と対応しないときその言
明は偽である」とするのが真理の対応説です。

 《実在が、無限にありえる可能世界群のうちの【命題Aが真であるような世界】である
という可能性はある》ということは、「可能世界」の定義だけから直接導けます。「可能
世界」というのは「ありえる世界」ということなわけですから。

 「客観的に」という意味は、「言明を主張する者に依存せずに、言明それ自体に対して
ただ一通りに」というほどの意味です。「実存に一対一に対応して一義的に」といっても
よいかもしれませんね。つまり、実在が可能世界のうちのどの世界であるのかということ
に依存して、各言明の真偽というのは、言明を主張する者には依存せずにただ一通りに一
義的にきまるということです。たとえば、わたしたちが住んでいるこの現実の世界が【命
題Aに対応するような世界】なのであれば、《命題Aは真》であり、【命題Aに対応しな
いような世界】なのであれば《命題Aは偽》です。この部分は、対応説からしてあたりま
えのことをいっているだけなのです。

(後略)


71 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 22:58

>>70 訂正です

 厳密にいうなら、「無限にありえる可能世界群」というのは、「無限にある可能世界す
べてからなる集合」というべきでした。

(後略)


72 名前: Libra 投稿日: 2003/08/28(木) 23:11

 よくみたら、「言明」と「命題」とが不統一ですね(汗)。全部、「言明」で統一して
読んで下さい。これらに差異はないです。


74 名前: Libra 投稿日: 2003/08/29(金) 00:19

>>69 鬼太郎さん
(中略)
 このスレとは全く関係がありませんが、研鑚板での鬼太郎さんのご議論を昨晩から今朝
にかけて読ませて頂きました(精読とはいえませんが)。わたしごときがいうことではあ
りませんが、あなたはいい素質をおもちかもしれないと思いました。もちろん、わたしが
鬼太郎さんの主張を肯定したというようなことではないです(意味が解らない文章も多か
ったです)。鬼太郎さんはこれからの訓練次第ではよい論者になられるかもしれないと思
います。しかし、なにごともそうだと思いますが、素質だけではダメです。長い時間をか
けて訓練していくということの方がずっとずっと大変で重要です。

 意味が通じない文章にならないためにも、ご自分の文章を投稿される前には、これまで
より一二回多く読み返して、自分の文章や考えをチェック(自己批判)されることをお勧
めします。このときには、他人の文章や考えをチェックするとき以上に懐疑心を発揮する
心構えでされて下さい。逆に、他人の文章や考えをチェックするときには、自分の主張に
とって都合がよいように解釈してしまっていないかどうかをこれまでより一二回多く確認
されることをお勧めします。あと、いろんな分野に広く興味を持たれるということはとて
もよいことだと思いますが、何か一つくらいはとことん納得がいくまで勉強されることを
お勧めします。

 「善悪」「真偽」「美醜」の峻別ということについても考えてみて下さい。これらをご
っちゃにして論じてよいのかどうなのか。事実の領域と価値の領域は分けて考える必要が
あるのかないのか。

 「対立」と「競争」についても考えてみて下さい。「対立する」ということと「異なる
意見をもつものどうしがフェアに競争する」ということとはどのように違うのか、あるい
は違わないのか。

 「相対主義」と「多元主義」の違いについても考えてみて下さい。「多元主義」という
のは、簡単にいってしまうと以下のような考えです(わたしが提示した参考文献の中にも
この言葉は出てきます)。

 1.真理は一つであるが、われわれはそれを所有しえない。
 2.われわれの主張は、真理についての推測にすぎない。
 3.推測は、批判による誤り除去によって、真理に接近できる。
 4.真理についての推測は多数ありうるが、それらは相互批判による誤り除去によって
   淘汰され、真理へ接近する。


75 名前: Libra 投稿日: 2003/08/29(金) 01:35

 脱線したついでにいってしまいますと、研鑚板の人たちは、自分たちの宗教が他の多く
の宗教と大きく異なっていると考えておられるわけですが、事実は全然そうではありませ
ん。形式が異なっているだけで、ほとんどその中身は同じです[注1]。それでも実際には
対立してしまっているのだとすれば、「根源的生命」系の宗教には対立を乗り越える力が
ないのだとおもいます。

  [注1] 新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
      http://fallibilism.web.fc2.com/041.html


 さらにいうと、研鑚板の人たちの宗教というのは、仏教とは大きく異なっており、仏教
が否定したものと一致しています。この点については、>>51、>>54、>>55 で書いたこと
が参考になるかもしれません。
 研鑚板の人たちは「日蓮仏法は釈迦仏教とは異なる」と認識されているようなので、そ
れはそれでよいということもできるのですが、しかし、ご本人たちがいわれるとおりに
「御書根本」でいくとすれば、「仏説に証拠分明に道理現前ならんを用」[注2]いないと
いけないということになるわけです。もちろん、ここで日蓮が「仏説」といっているのは
釈尊の言葉としての経典のことです。「仏説に証拠分明に道理現前ならんを用」いるなら、
仏教が否定したものと一致してしまうということにはならないはずなんですが、どういう
わけだか一致してしまっています。研鑚板の人たちは、基本的に、《論理は無視して体験
を重視する》という方針のようなのでそれでもよいのかもしれませんが、日蓮自身が「道
理」を重視する人であったということを考えると、本当にそれでよいのかと思います。

  [注2] 学会版全集、p. 1293。


79 名前: Libra 投稿日: 2003/08/29(金) 07:46

【《仏教の信仰》と《「根源的生命」系の宗教の信仰》とのちがい】

 師弟関係という観点から、《仏教の信仰》と《「根源的生命」系の宗教の信仰》との差
異について考えてみます。

 仏教の信仰は、《師の教えを無条件に盲目的に受けいれる》というようなもの(盲信)
ではありません。仏教の信仰は、「師をのりこえて進」[注1]もうとする信仰です。
 釈尊は「教え授けられたことにもとづいてそれを発展し、師をのりこえて進まなければ
ならない」[注2]というようなことをいっています。また、釈尊は、釈尊自身の教えにも
執着すべきではないといっています[注3]。仏教は、競争の原則を承認し、正当な競争に
よって進歩を目指すものですが、この「競争と進歩の原則」[注4]は、師弟の間にも成立
します。ちなみに、この点においても、仏教はポパーの思想と一致します[注5]。
 釈尊は、「わたしを善き友と」し[注6]、「法に関し」て「疑い、疑惑が起」ったら、
「仲間が仲間に(たずねるように)たずねなさい」[注7]といっています。仏弟子にとっ
ての師というのは、ともに「正当な競争によって進歩を目指す」「善き友」であり「仲間」
だとされるわけです。

 これにたいして、「根源的生命」系の宗教においては、師というのは、《「根源的生命」
との一体を完全にはたしたもの》という位置づけになります。師が一体化しているところ
の「根源的生命」は、それぞれの宗教によって異なった固有の名前で呼ばれることもある
わけですが、そこで観念されている内容に差異があるわけではなく、ただ「生命」とか
「根源」というような漠然としたイメージがあるだけで、それは、言語化して弟子に伝え
ることなどできないものであり、弟子が頭で理解できるようなものではないとされます。
「師と呼吸をあわせる」ことでしか体験できないというわけです。結局、「根源的生命」
系の宗教の信仰は、「師に対して絶対的な服従を求める」[注8]ものとなります。

 上のような違いさえわかれば、仏教を自称している教団の宗教が、ほんとうに仏教なの
かどうなのかを容易に知ることができるとおもいます。

  [注1] 仏教の師弟関係(中村元)
      http://fallibilism.web.fc2.com/044.html

  [注2] 同上。

  [注3] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
      http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

  [注4] 仏教の師弟関係(中村元)
      http://fallibilism.web.fc2.com/044.html

  [注5] 弟子の批判を許容する精神(小河原誠)
      http://fallibilism.web.fc2.com/027.html

  [注6] 「われを善き友として」(増谷文雄)
      http://fallibilism.web.fc2.com/012.html

  [注7] 仲間が仲間にたずねるようにたずねなさい(『大パリニッバーナ経』) 
      http://fallibilism.web.fc2.com/045.html

  [注8] 神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶) 
      http://fallibilism.web.fc2.com/046.html



83 名前: Libra 投稿日: 2003/08/29(金) 23:41

>>80 ロム専さん

(中略)
> 人間を見失っている自己満足の観念論は人の心を動かさない...
> ということがわかった

 わたしは、自分の理論を「自己満足の観念論」とはおもいません。なぜなら、わたしは
反証主義者として《つねに自分の理論に対する反証を積極的にさがしもとめています》の
で。

 これに対しまして、《自分の理論に対して示された反証をなにひとつ真正面から受けと
めようとはせずに、理論の是非とはまったく関係のないレッテルを反証提示者にはること
によって反証をことごとく無視し、そのことによって自分の理論が無敵であると錯覚して
いる》のが「自己満足の観念論」なのでしょう。

 ただ、わたしの文章が「人の心を動かさない」というのはたしかにその通りだとおもわ
れます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   そうなんですよ(涙)。私の文章を読んで「心に響かない」という印象を持たれる
  方は多いみたいなんです。それでも、一部のマニアにだけはうけてるみたいなんです
  よね(笑)。(後略)

  (http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1029381997&START=915&END=915&NOFIRST=TRUE
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 
(後略)


88 名前: Libra 投稿日: 2003/08/30(土) 01:04

>>86 Leo さん

(中略)
 さて、このスレの議論についてですが、天台思想や日蓮思想を考えていく際の基礎理論
としての仏教(とその対極に位置するところの「根源的生命」系の宗教)というところま
ではある程度やれたかとおもいます。まずはこの時点で、わたしの考えに問題があれば是
非ご指摘下さい。その問題がある程度かたづけば、あとはじっくりと天台思想や日蓮思想
について考えていって頂きたいとおもいます。その際には、鬼太郎さんの問題意識とどう
うまくからめて論じていけるかもポイントになりますね。とにかく、いいスレッドに成長
していくようにこれからも頑張って下さい。


96 名前: Libra 投稿日: 2003/08/30(土) 05:29

【鰻のように散乱した説】

 仏教では、肝腎な論点を外してノラリクラリと鰻のように話を展開する答弁を「鰻のよ
うに散乱した説」[注1]と呼んで忌避しています。

 ほんとうに「「無知」をはっきり知ることは難しいし、知った「無知」を明確に改める
ことはなおのこと難しい」[注2]ものですね。

  [注1] 真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
      http://fallibilism.web.fc2.com/011.html

  [注2] 「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
      http://fallibilism.web.fc2.com/003.html


(後略)


102 名前: Libra 投稿日: 2003/08/31(日) 12:50

>>99 鬼太郎さん

 今回のレスについても少しだけコメントしておきます。

> 「フレームワークの神話」批判は、議論するということを前提にしたときには当然とい
> えます。が、それが議論に発展しない場合が多々あって、どうしても議論を始めるにあ
> たって最低限の「フレームワーク」の必要性を感じざるを得ないのです。

 ポパーの文章の意味を理解されずに書かれています。ポパーは、「合理的で実りある討
論は、その参加者が基本的な仮定にかんする共通のフレームワークを共有しなければ、あ
るいは少なくとも討論のためのそのようなフレームワークにかんして合意していなければ、
不可能である」という考えを「フレームワークの神話」として批判しているのです(>>46)。

 これに対して、鬼太郎さんは、「どうしても議論を始めるにあたって最低限の「フレー
ムワーク」の必要性を感じざるを得ない」のでしょう。そのように考えられる鬼太郎さん
からすれば、ポパーの「フレームワークの神話」批判が「議論するということを前提にし
たときには当然といえ」るということにはならないでしょう。


104 名前: Libra 投稿日: 2003/08/31(日) 13:19

>>99、>>103 鬼太郎さん

> 人類は、如何に生きていけば憎み合い殺し合わずにすむのか。

 可謬主義が重要だとおもいます。

 もし、鬼太郎さんがいわれるように、「議論を始めるにあたって最低限の「フレームワ
ーク」の必要」があるとすれば、それは可謬主義でしょう。鬼太郎さんがそのような意味
でいわれていたのであれば、その考えは正しいとおもいます。「可謬主義」についての説
明は不要でしょう(「ポパーの倫理思想(小河原誠)」を参照されたい)。以下も参照さ
れてください。

  対話主義と可謬主義(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html


> 次回はしっかり理解した上で論点を明確にして問題提起させていただこうと思っていま
> す。

 「問題提起」はわたしがいない間に進めてもらってもよいです。むしろそうされてくだ
さい。まずは、その「問題提起」が、わたしにかぎらず、多くの人に「問題」として理解
されるように努力されてください。

> 今回は何せ時間がない上に僕にとっての早急に解決したい問題点が「議論の方法」でし
> たので、焦りすぎましたね(^^;

 焦るのがいちばんダメだとおもいます。それが、わたしがこのスレッドで最初にいった
ことです(>>15、>>37)。

(後略)


105 名前: Libra 投稿日: 2003/08/31(日) 13:27

>>104 訂正

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   焦るのがいちばんダメだとおもいます。それが、わたしがこのスレッドで最初にいった
  ことです(>>15、>>37)。
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
       ↓
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   焦るのがいちばんダメだとおもいます。それが、わたしがこのスレッドで最初にいった
  ことです(>>19、>>37)。
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


106 名前: Libra 投稿日: 2003/08/31(日) 19:13

>>104 補足です(鬼太郎さんへ)

 わたしがいっていることの意味がまた伝わらないといけないので、ややくどいいい方を
しておきます。

>  もし、鬼太郎さんがいわれるように、「議論を始めるにあたって最低限の「フレームワ
> ーク」の必要」があるとすれば、それは可謬主義でしょう。

 これは、ようするに、《ある議論を始めるにあたっては、ある特定の「哲学的思考のセ
ンス」が必要である》(鬼太郎さんのご主張、>>40)というようなことは全くないといい
たいのです。


107 名前: Libra 投稿日: 2003/08/31(日) 22:55

>>103 鬼太郎さん

> 僕にとっての早急に解決したい問題点が「議論の方法」でした

 「方法」ということですので、以下の資料も引用しておきます(このスレッドではまだ
引用してなかったとおもいますので)。

  ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
  http://fallibilism.web.fc2.com/114.html


 以下のスレッドでの議論は「対話主義と可謬主義(Libra)」に関連します。ぜひ参照
されてみてください。

  学会員の対話能力
  http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1059383480&LAST=100


(後略)


109 名前: Libra 投稿日: 2003/08/31(日) 23:39

>>108 みれいさん

(中略)
> 相手の誤りを批判することなく、お互いが磨きあい、成長しあう。

 「相手の理論の誤りを具体的に指摘する」ことによって、「協働して真理に接近
しよう」と試みるのが批判ですから、「お互いが磨きあい、成長しあう」ためにこ
そ批判が必要だとわたしはおもっています。そして、それは、「互いの誤り、互い
の無知を容認し合う」ところからはじまります。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  わけわかめのためにその2──【批判と寛容】──

   《容赦なく他者の理論を批判するのは不寛容である》と考えている人がいる
  のかもしれない。しかし、それは誤りだと思う。
  
   他者の誤りに気がついたときに、その誤りを具体的に指摘するのが批判であ
  る。結果的に、誤りを指摘した方の側が、自らの誤りに気がつくということも
  よくある話である。ようするに、批判というのは、協働して真理に接近しよう
  と試みることをいうのだ。批判は、 「互いの誤り、互いの無知を容認し合う」
  ところからはじまる。私はそのような行為を不寛容だとは決して思わない。も
  しも、批判という行為を不寛容だと考える人がいるとすれば、その人は、おそ
  らく、批判というものをほとんど理解していないのだろう。以下の資料を参照
  されたい。
  
    ポパーの倫理思想(小河原誠)
    http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

  (スレッド「仏教の源流から」、No. 905、
    http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1029381997&START=905&END=905&NOFIRST=TRUE
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 もっとも、その際の批判というのは、「非個人的」なものであるべきだとおもい
ます。「非個人的」というのは、《批判というのは、理論それじたいを対象として
なされるべきであって、理論の提唱者(個人)を対象とするものであってはならな
い》ということです。


110 名前: Libra 投稿日: 2003/09/01(月) 00:02

【わが国における真の意味での「論争」の欠如】

 丸山真男が『日本の思想』において「諸思想間の真剣な対決を促すことあまりにも少な
いわが国の知的風土における思想的「無限抱擁性」あるいは「雑居性」を批判」[注1]し
てからもうずいぶんたちますが、いまだに、わが国には「真の意味での「討論の精神」」
[注2]が欠如しているのかもしれません[注3]。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残
  されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そ
  こでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まる
  と、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。

  (丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  [注1]  相対主義批判(小河原誠)
       http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

  [注2]  同上。

  [注3]  肯定と批判と無知と無視─無視≠ニいうことが最悪(松本史朗)
       http://fallibilism.web.fc2.com/072.html




2003.09.01

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