473 名前: Libra 投稿日: 2003/07/29(火)
03:20
【創価学会の根本理念──カントと牧口常三郎に共通する啓蒙主義──】
池田名誉会長も「牧口先生とカントを語」っておられるようですが[注1]、一番重要な
点について言及をさけられているようです。両者に共通する最も重要な理念は、おそらく、
「啓蒙」ということだろうとわたしはおもいます。
カントがいう「啓蒙」とは《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態から人
を解放する》ということですが[注2]、この理念は創価学会の初代会長である牧口常三郎
に継承されています[注3]。この意味での啓蒙主義こそが、おそらくは創価学会の創立理
念だったのだと思います。
しかし、残念ながら現時点においては、創価学会はその根本理念を見失ってしまってい
るといわざるをえません。たとえば、「師弟不二」というような言葉を使って、「自分自
身の知性を使わずに指導者に頼っている状態」を奨励してさえいます。「指導者の考えに
コミットしている状態」(権威主義)を自ら作り出しています[注5]。
わたしは、「指導者の考えにコミットしている状態」にある人の精神というのは、狂人
の精神に近いと思います[注6]。
[注1] 名誉会長「牧口先生とカントを語る」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/2009/sidoum5.html
[注2] 自分たち自身の知性を使え(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/118.html
[注3] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
http://fallibilism.web.fc2.com/024.html
[注4] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/112.html
[注5] 「自立」を抑制する要素(島薗進)
http://fallibilism.web.fc2.com/043.html
[注6] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/112.html
[引用者補注]
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474 名前: Libra 投稿日: 2003/07/29(火) 03:26
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>>473 訂正です
[注4]はありませんので削除(汗)。
597 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/12(金)
18:59
>>594 二世@学会女子部さん
はじめまして。
この掲示板からは撤退中なのですが、ちょこっとだけ書かせていただきます。
> 日蓮大聖人が説かれた南無妙法蓮華経という仏法の宝物
日蓮自身の考えからすれば、「法華経の真髄を抽出した処の「妙法蓮華経」の五字を御
弟子中最も因縁の深い上行菩薩に伝授し、後世の人々を救ふ様に指導せられた」のは釈尊
だということになるのではないでしょうか。少なくとも、牧口初代会長はそのように理解
されています[注1]。
日蓮はどう考えても釈子(釈尊の弟子)です。日蓮自身がそういっていますし、日寛も
そういっています[注2]。
ちなみに、日寛教学では、釈尊と日蓮は同一人物ということになります[注3]ので、
「日蓮大聖人は釈尊に勝れる」というような意味での日蓮本仏論は日寛教学の立場とは異
なります。
[注1] 上行菩薩即日蓮聖人(牧口常三郎)
http://fallibilism.web.fc2.com/065.html
[注2] しゃくし【釈子】(『仏教哲学大辞典』)
http://fallibilism.web.fc2.com/058.html
[注3] 《日蓮本仏論》再考
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html
(後略)
600 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/12(金)
21:14
>>598 法華講員さん
コメントありがとうございました。
> 日寛教学では、釈尊と日蓮は同一人物ということになります。
「釈尊と日蓮は同一人物」という意味は、「釈尊の久遠発心の時、名字即位の菩薩であ
ったままを本因の仏といい、それが日蓮である」(顕正居士さん)という意味です。この
釈尊は釈迦とも同一人物です。同じ議論を再びここで繰り返すつもりはありませんのでぜ
ひ以下を参照されて下さい。
《日蓮本仏論》再考
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html
> 寛師様と日蓮本佛論は別物とするのは的が外れています。
おそらく、わたしの書き方がわるかったのでしょう。わたしは「日寛と日蓮本佛論は別
物」であるとはいっていないのです。前掲「《日蓮本仏論》再考」での議論からあきらか
なように、日寛の立場は「釈尊=釈迦=日蓮本佛論」です。この立場は、日蓮自身の立場
である「上行再誕論」の否定を含意します。したがって、日寛は日蓮自身の立場(上行再
誕論)を否定したか、あるいは矛盾していたか、そのどちらかです。いずれにせよ、わた
しは日寛の立場にはたちません。
ちなみに、日蓮自身の立場が「上行再誕論」であったということは、保田妙本寺に真蹟
が所蔵されている文永十一年十二月図顕の大曼荼羅(通称「万年救護御本尊」)に
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大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年
雖爾月漢日三ヶ国之間未有此大本尊
或知不弘之或不知之
我慈父以仏智隠留之為末代残之
後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之
(『山中喜八著作選集T 日蓮聖人真蹟の世界 上』、雄山閣出版、1992年、
pp. 58-59)
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という日蓮自筆の讃文があり、そこでは「後ノ五百歳ノ時、上行菩薩、世ニ出現シテ、始
メテ之ヲ弘宣シタマフ」といわれていることからもあきらかでしょう。日興の写本が現存
している「頼基陳状」にも以下のような記述があります。
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日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・上行菩薩の垂迹・法華
本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人
(「頼基陳状」、学会版全集、p. 1157)
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初期興門教学では、一貫して、「日蓮聖人は上行菩薩の再誕」と主張されています[注]。
[注] 初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html
601 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/12(金)
21:25
>>599 名も無き行者さん
> うーん、この掲示板で創宗戦争勃発かな?
「創」といっても、牧口初代会長と戸田第二代会長以降とでは中身がかなりちがうよう
な気がします(>>473)。もちろん、わたしは牧口派ですが。
606 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/12(金)
23:20
>>565、>>579 Leo さん
> 「折伏経典」など誤りを総括せずに廃刊にするなど(もみ消し、忘却)
これは本当によくないことだとおもいます。知的犯罪だとおもいます。
> 『法華経』を重要視するようになったという点では表面上は少し変ったということがで
> きるかもしれません...
そうですね。この変化はすばらしいことだとおもいます。しかし、ちゃんと総括してい
ないのでほとんど浸透していないのではないでしょうか。
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法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事因縁、すなわち、仏がこの世に出現し
た、最大で究極の目的であると説かれている。滅後の衆生、特に末法という濁世の衆
生を救わなければ、その理想は叶えられない。だから滅後の衆生のための教えを仏が
説かないはずがない。そのための慈悲の経典が法華経です。
(池田名誉会長のご発言、池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、
1996年、pp. 62-63)
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今、池田名誉会長が機関紙・誌で法華経をテーマとした論述に力を入れているのも、
「人間のための宗教」の大道を更に深く大きく開くためであろうと改めて実感してい
る。大聖人の仏法は法華経と表裏一体であり、法華経の精神を世界に広げていくこと
は、大聖人仏法の「人間主義」の光で世界を、全人類を照らしゆく一大民衆運動とな
るに違いない。
(遠藤孝紀「創価学会の思想と『法華経』」、『東洋学術研究』第34巻第2号、
1995年11月、pp. 97-98)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
寿量品は末法のために説かれた(池田大作)
http://fallibilism.web.fc2.com/097.html
呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html
以下はおまけです(笑)。
大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄)
http://fallibilism.web.fc2.com/067.html
609 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/13(土)
01:05
【日蓮は東を向いている】
日蓮の「上行再誕論」は、日蓮の宗教の根幹といってもいいとわたしはおもう。「上行
再誕論」を否定する人は、御本尊の「「虚空会の儀式」という立体的な情景」(中山英子
さん)をまったく理解していないのではないかともおもう。
御本尊においては、「教主釈尊」が「北の上座」に西を向いておられ、それと「向かい
合って」「上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き」におられる。で、「勤行・唱
題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員と
して合掌している」ので、このとき、われわれは『法華経』の中に入り込んで、「教主釈
尊」と向かい合って東を向いている。このとき、日蓮は「無数の地涌の菩薩」の「リーダ
ー」としてわれわれの先頭にいるはずである。われわれと同じく東を向いて。
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上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き、つまり釈尊・多宝如来と向かい合っ
ているのです。
(中山英子「御本尊に認められた広布誓願の儀式」、『大白蓮華』第624号、
2002年5月、p. 87b)
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勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の
菩薩の一員として合掌しているのです。
(同上、p. 87c)
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
曼荼羅を三次元的に見れば、宝塔は(我々から見て)東の方位に、西向きに開い
て′嘯チているのではないでしょうか。曼荼羅では、(我々から見て)左が北で、右
が南となっていますから、そのように考えるのが自然だと思います。寛師も宝塔は
「西向き」だと言われていますね。
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故に報恩抄上終に云く「教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北
の上座につかせ給う」等云云。当に知るべし、宝塔既にこれ西向きなり。
(日寛「観心本尊抄文段」、創価学会教学部編『日寛上人文段集』、聖教新聞社、
1980年、p. 478)
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(Libra「本尊論メモ」〔02.04.25付記〕、
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html)
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本尊観について(Leo's home page)
http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
610 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/13(土)
01:18
>>608 Leo さん
> きちんと総括しないので会員が混乱する(人によって昔の(悪しき)指導を信じ続ける)
> のだと思います(問題があったから廃刊になったわけですし...)。
『道元と仏教──十二巻本『正法眼蔵』の道元──』(大蔵出版、1992年)の袴谷憲昭
先生のコメントをもういちど引用しておきましょう。
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しかし、失敗も罪も、たとえ隠し通すことに成功したとしましても、決して消えてな
くなることはありません。記憶が文字通り零になるのでもない限りは、失敗や罪も、
更には無知も、隠そうとすればするほど益々鮮明になってくるものであります。しか
し、決して消えるものではないからこそ、むしろ自ら進んで言葉によって明瞭に失敗
や罪や無知を認めて正しい方へ変っていこうとする以外に道はないのだと思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
http://fallibilism.web.fc2.com/011.html
(後略)
615 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/15(月)
14:09
>>612 Leoさん
> この歴史への姿勢と同様に、われわれは教学について追究・探求しているのだと思います。
創価学会の中には、われわれの他にも、「伝統的な大石寺教学の齟齬が至るところで露
見してい」るという認識をもたれている方が少なからずおられますね。われわれも負けず
にがんばりましょう。
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ところで現在、伝統的な大石寺教学の齟齬が至るところで露見しています。もちろ
ん、それで私たちの信仰がいささかたりとも揺らぐことはありませんでした。むしろ
信心の面から言うならば、ますます意気軒昂ではあります。なぜならば、日蓮大聖人
直結、御本尊直結、御書直結の姿勢がある限り、何ら恐れることが無いからです。
しかし、広宣流布という運動をさらに広く、深く進めていくためには、新しい日蓮
教学の確立が強く模索されていることは事実でしょう。より開かれた、より説得力の
ある、普遍的な教義体系を確立していく必要があると思います。それはとてつもない
大事業であるとも思います。
(魯の人「「法華経の智慧」を学ぼう」、2001年2月、
http://www.ginpa.com/column/20010227.html)
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616 名前: Libra@三世 投稿日: 2003/09/15(月)
14:12
>>614 Leoさん
> 「(合理的)批判は《非個人的》なものでなければならない」ということの重要性を
> かみしめる今日この頃です。
「「われわれの代わりに理論を死なせる」と考えられる観点」(蔭山泰之さん)が重要
だということですね。
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組織が全体として誤った方向に突き進んでいるときに、内外からのあらゆる批判、
反駁を避けることができれば、当面は、たしかに組織の体面は保たれるだろう。しか
しそれは、沈みつつある船の中で安全な個室を確保しようとするようなものである。
というよりもむしろ、船底の板をはがして個室を補強しようとするような、組織の危
険性をさらに増す可能性さえある。
(蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から見た日本的組織の諸問題−」、
日本ポパー哲学研究会機関誌、Vol. 10、No. 1 、1998年6月、
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html)
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批判は、ふつう非難と混同され、敵意の現れとさえ見られることがある。そして、
批判を受け入れることは、屈服を意味するとも考えられ、一種の屈辱ともみなされて
いる。たしかにそういう侮辱的な批判もあるかもしれないが、しかしそれはたいてい
相手を理解しないたんなる非難と同程度のものであろう。本来、批判とは、論理的矛
盾や事実との齟齬を指摘することにより、批判される対象と現実を直面させる試みで
ある。そしてその目的は、その批判対象をよりよきものにすることにある。この意味
では、批判はその対象に対する真剣な関心の現れである。それは批判の対象を改善す
るきっかけ、チャンスなのである。だから、批判や反駁を受け入れることは改良への
一ステップである。
(同上)
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日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と容易にむすびつけ
てしまう強い傾向がある。(中略)こうした傾向が強いところでは、批判即人格攻撃
と受け取られてしまうだろう。しかしそうであるからこそ、行動や、思想と人格を切
り離し、たとえ理論が誤っていたとしても、「われわれの代わりに理論を死なせる」
と考えられる観点が、きわめて切実に要請されてくる。
(同上)
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