■ 「仏教の源流から」スレッド 主な発言 その1〜8、付録1〜3


903 名前: Libra 投稿日: 2003/07/09(水) 23:34

>>898 自己レス&いつものわけわかめ

1.以下のようなものを書いたことがありますので、一応、はりつけておきます。


    輪廻説は仏教ではない(Libra)
    http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html

2.私は、《証拠や論証によって正当化(実証)できないことは主張してはならな
  い》などとは全く思いません。そのようなこと(証拠や論証によって主張を正
  当化すること)はそもそも不可能なのですから。大胆な推測ほど検討に値する
  と思います。


    肯定的証拠をいくら積み重ねても理論の正しさは証明されない(小河原誠)
    http://fallibilism.web.fc2.com/057.html

    ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
    http://fallibilism.web.fc2.com/109.html

3.すべての主張は、《正当化できない》という意味で、推測です。われわれは、
  真理を所有することはできません。推測は、おそらく、誤りを含んでいます。

4.
どんな主張も、正当化できませんが、証拠や論証によってテストされ、批判さ
  れ、反証されえます。もちろん、提出された証拠や論証それ自体も批判され、
  反証されえます。

5.
われわれは、真理を所有することはできませんが、批判的討論(批判・反証)
  を通じて、推測に含まれる誤りを除去していくことができます。誤りを除去す
  ることによって、真理により接近することが可能です。

6.
誤りを発見し、推測を修正するためには、われわれは他の人間を必要とします。
  とりわけ、異なった環境のもとで、異なった理念のもとで育った他の人間を必
  要とすることが自覚されなければなりません。


    フレームワークの神話(カール・ポパー)
    http://fallibilism.web.fc2.com/111.html
    
7.われわれは、誤りから学ばねばならないのですから、他者がわれわれの誤りを
  気づかせてくれたときには、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばな
  ければなりません。

8.
われわれが他者の誤りを明らかにするときには、われわれ自身が彼らが犯した
  のと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思いだすべきです。

    ポパーの倫理思想(小河原誠)
    http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

追伸 私が今までにこのスレで提示した資料はすべてリンクが切れてしまって
   いますが、全部、以下のサイトにあります。


    NOTHING TO YOU
    http://fallibilism.web.fc2.com/


904 名前: Libra 投稿日: 2003/07/10(木) 10:19

わけわかめのためにその1──【定義について】──

 《一応の定義というものがあった方が便利なことが多い》ということは私も
認める。しかし、
定義というものは、《それがなければ議論をはじめてはなら
ない》というようなものではない。これについては、小河原先生の
「観念とそ
の判定規準」についてのご解説が参考になるかもしれない。


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  (規制)観念とその判定規準とにかんしては多くの誤解があるように思わ
  れる。ときには、両者がまったく混同されている場合もある。しかし、観
  念とは、基本的にその観念によってどのような概念内容が考えられている
  のかという意味の問題であり、(判定)規準とは、ある対象がその観念に
  即応するかどうかを判定するための有限の操作的な手続きである。両者は
  異なるのであり、同一視することはできない。たとえば、われわれは「有
  名人」という観念を十分に理解しているが、必ずしもその判定規準を所有
  しているわけではない。観念があれば、その判定規準もあるということに
  はならない。
   ところで、
多くの人びとはありとあらゆる事柄にかんして明確な判定規
  準を求める。それさえ得られれば、観念は明確になると考えるからである。
  ふたしかな判定規準では判定を下せないし、観念も明瞭なものとはなりえ
  ないというわけである。さらには、
信頼のおける判定規準が得られないな
  らば、いかなる判断もできなくなってしまうとさえ考える。そのような規
  準がなければ、自分の判断を正当化できないからというわけである。
彼ら
  は、判定規準の存在しないものについて語ることは無意味であるという考
  えに容易に導かれてしまう。これは正当化主義の典型的な思考様式である。
  判定規準の不在は正当化主義を露出させてくる。
   だが、
この思考様式に対しては、判定規準が存在しているか否かの判定
  規準──高位の判定規準──はどうなっているのか、と問うことができる
  だろう。もし、そのような高位の判定規準を前提して判断が下されている
  ならば、その高位の判定規準そのものの正当化はいかにして果たされるの
  かと問わざるをえなくなる。
そこにおいては、判定規準を支える判定規準
  の無限背進が生じてしまうことであろう。ここにおいても、正当化主義は
  みずからの墓穴の前に立たされている。

  (小河原誠「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」、
    ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、
    未來社、2001年、pp. 28-29)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 あるいは、定義についても「ほらふき男爵のトリレンマ」[注]と同様の議論
が成立するかもしれない。
   
     第一の困難:定義の無限背進
     第二の困難:定義の循環
     第三の困難:定義の恣意的打ち切り

 もっとも、「定義」という語の定義(!?)にもよるのかもしれないが(笑)。

 [注]

   ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
   http://fallibilism.web.fc2.com/109.html


905 名前: Libra 投稿日: 2003/07/10(木) 10:53

わけわかめのためにその2──【批判と寛容】──

 《容赦なく他者の理論を批判するのは不寛容である》と考えている人がいる
のかもしれない。しかし、それは誤りだと思う。

 他者の誤りに気がついたときに、その誤りを具体的に指摘するのが批判であ
る。結果的に、誤りを指摘した方の側が、自らの誤りに気がつくということも
よくある話である。ようするに、批判というのは、協働して真理に接近しよう
と試みることをいうのだ。批判は、
「互いの誤り、互いの無知を容認し合う」
ところからはじまる。私はそのような行為を不寛容だとは決して思わない。も
しも、
批判という行為を不寛容だと考える人がいるとすれば、その人は、おそ
らく、
批判というものをほとんど理解していないのだろう。以下の資料を参照
されたい。


  ポパーの倫理思想(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/083.html


906 名前: Libra 投稿日: 2003/07/10(木) 11:02

わけわかめのためにその3──【無知の知】──

 世の中には、他人の誤りを発見して、それを得意げに指摘し、優越感に酔っ
ている人たちがいる(私はそのような行為まで含めて批判であるとは思ってい
ない)。おそらく、彼らは
われわれの無知がかぎりなく広く深いということを
理解していないのだろう。
自分の誤りを発見できないことを残念に思ったりは
しないのだろう。

 
「無知の知」という言葉は有名だ。みんなが知っている。しかし、みんなが
知っているものを、みんなが理解しているとはかぎらない。いや、そういう私
こそ、理解しているかどうか怪しいものだ。理解してもいない人間が、このよ
うな場所に、このようなことを書いているのだとすれば、それこそまさに
「無
限に喜劇的」ではないか…。


  「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
  http://fallibilism.web.fc2.com/095.html


907 名前: Libra 投稿日: 2003/07/10(木) 11:11

わけわかめのためにその4──【ポパーゼミの風景】──

 以下は、バートリーが描写した、ポパーゼミにおけるポパーと学生とのやりとり
である。
ポパーの批判的態度がよく表現されていると思うので紹介させて頂きたい。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  イギリスやアメリカにおける大学院ゼミの演習は、学生が論文を読み、それに
  他の参加者が質問やコメントを加え、それから一般討論に移るというものであ
  る。教授のなかには討論に加わるものもいるが、あまり深く立ち入ろうとはし
  ない。……ポパーゼミは違っていた。そのゼミは、ポパーと論文を読み上げる
  ひと──学生であろうと客員教授であろうとかまわない──とのあいだの激し
  い対決であった。この特殊な集まり〔バートリーが初めて参加したゼミ〕では、
  学生はようやく二つの段落を読むことができた。ポパーはあらゆる文に口をさ
  しはさんだ。何ものも批判のないまま見過ごされることはなかった。すべての
  言葉が重要なのであった。
かれはある質問をした。学生はそれを避けた。ポパ
  ーは同じ質問を繰り返した。
学生は再びそれを避けた。ポパーはその質問をも
  う一度繰り返した。とうとうその学生は答えた。
「それではあなたが最初にい
  ったことは間違っていたのだね」とポパーは尋ねた。
学生は言葉を並べてこの
  嫌な結論を避けた。ポパーは聞いていたが、それからいった。
「なるほど。だ
  けど、あなたが最初にいったことは間違っていたのだね」と。
その学生は学ん
  でいた。そして誤りを認めた。
「謝るかね」とポパーは聞いた。学生はそうし
  た。するとポパーはにっこりと笑って、
「よろしい。これでわれわれは友達に
  なれる」といった。

  (W. W. Bartley, III, A Popperian Harvest, in Pursuit of Truth, p. 250.、
    立花希一「ポパーの批判的方法について」〔ポパー哲学研究会編『批判的
    合理主義──第1巻:基本的諸問題』、未來社、2001年、所収〕の35-36ペ
    ージより孫引き。)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


912 名前: Libra 投稿日: 2003/07/10(木) 21:06

わけわかめのためにその5──【批判は特定されたものでなければならない】──

 《批判というものは常に特定されたものでなければならない》というのは、
つまり、「なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の
論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければなら
ない」(カール・ポパー)ということです。以下に、かなり単純化して、説明
してみます。

 
ある人の主張の結論が、既成の考えの結論(命題Aとしておきます)と一致
するとします。で、そのAはすでに批判され、その批判に耐えられなかったと
します。しかし、この場合でも、この
「ある人の主張の結論」は、そのある人
の提出している具体的な論証のいかんを問うことなしに常に怪しいと断定して
よいというものでは必ずしもないわけです。これは、Aがどういう形で批判さ
れたのかにもよるわけですが[注]、たとえば、
《Aを導出するために用いられ
た前提の中には必ずしも真とは言えない命題が用いられている。よって、Aは
必ずしも成立しない。》という形のものである場合には、そのような批判を
「ある人の主張の結論」に対してそっくりそのまま適用することはできないわ
けです。この場合には、
「ある人の主張の結論」に対する批判というものは、
その
「ある人の提出している論証」がなぜ妥当ではないのかについての特定さ
れた理由を述べるものでなければなりません。もしも、それをすることなしに、
《すでに批判された既成の考えと結論が同じである》ということだけを理由に、
直ちにその考えを怪しいものであると断定してしまうとすれば、やはりそれは
偏見だろうと思います。

  [注]たとえば、既成の考えの結論(A)に対する批判が、《Aから導出さ
    れるある命題は偽である。よって、Aが真であることはありえない。》
    という形での批判であったとすれば、それは「ある人の主張」に対し
    てもそっくり適用するができるでしょう。
[引用者補注]
[引用者補注]
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
914 名前: Libra 投稿日: 2003/07/10(木) 21:25
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>>912 訂正です
> てもそっくり適用するができるでしょう。
        ↓
「てもそっくり適用することができるでしょう。」


913 名前: Libra 投稿日: 2003/07/10(木) 21:21

わけわかめのためにその6──【いろいろなタイプの批判】──

 誤りの除去にもつながらず、真理への接近にもなんら寄与しないようなもの
を私は批判とは思わない。


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日常生活では、われわれは実にいろいろなタイプの批判をする。たとえば、
  「彼の言っていることは正しいのだが、言い方がよくない、時と場合を考
  えるべきだし、聴衆にどんな反応を引きおこすかも考えるべきだ」とか
  「あんなものの言い方では、彼の誠実さがちっとも表現されていない」と
  いった類のコメントである。こうしたタイプの批判的コメントは、基本的
  に言って、問題となっている言明の内容そのものにかかわるのではなく、
  その言明の提出のされ方とか、ある状況下でどんな反応を引きおこすかと
  いった二次的要素にかかわっている。
こうしたタイプの批判は、言命の内
  容そのものにたいする批判ではないという点に最大の特徴をもっている。

  (小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、
    1993年、p. 130)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



943 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 13:41

わけわかめのためにその7──【討論は勝ち負けではない】──

 討論とは《協働して真理に接近しようとする試み》なのである。よって、そ
こには勝ちも負けもない。

 
討論とは《自分たちが真理であると信じている主張が、他集団によって信じ
られている主張に決定的に勝利する》というようなことを期待してなされるべ
きではない。そのような過度の期待は必ずや裏切られるであろう。

 討論の目的は、あくまでも、
「以前とは異なった仕方で物事をみる仕方を学
ぶ」ことにある。討論によって
「われわれが物事を新しい光のもとで見ること
ができるようになったとか、真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、
いや十二分なのである。」


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ポパーにとっては、討論とは勝ち負けではなく、討論ののち、以前とは異
  なった仕方で物事をみる仕方を学ぶことである。ポパーは、言及していな
  いが、勝ち負けをいうならば、ポパーの哲学が正しいかぎりどんな主張で
  も原理的には批判されたり、経験的に反駁されうるのであるから、
勝者は
  いないのであり、われわれは原理的には敗者であるといった方が、討論と
  いう事態の本質にかなうであろう。

  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、
    講談社、1997年、p. 242)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



944 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 13:43

わけわかめのためにその8──【啓蒙】──

 カントについては池田名誉会長もたびたび引用されていることと思うが、
ントがいう「啓蒙」とは《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態
から人を解放する》ということである。この意味での啓蒙主義は、創価学会初
代会長牧口常三郎に継承されている。


  自分たち自身の知性を使え(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/118.html

  信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/024.html

 「自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態」というのは、「指導
者の考えにコミットしている状態」といいかえてもよいかもしれない。だとす
れば、そのような状態にある人の精神というのは、狂人の精神に近いのではな
いだろうか。


  精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/112.html


972 名前: Libra 投稿日: 2003/07/13(日) 18:12

わけわかめのために・付録1──【観察の理論負荷性】──

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  いま筆者は書斎の窓から遠くの梢に黒い物体──どうもカラスらしい──
  がとまっているのを見ている。それは、筆者の記憶のなかのカラスのシル
  エットに合致する。この知覚は、もっと正確に記述することもできるにせ
  よ、筆者の現時点での感覚的経験である。筆者はこうした経験をふまえて
  (動機づけられて)「梢にカラスがとまっている」(すなわち、「時空領
  域 k にカラスがいる」)という単称言明をつくる。
   心理主義の立場からすれば、この言明は筆者の感覚的経験によって文句
  なく正当化されていることになろう。しかし、「カラス」という言葉は普
  遍名詞である。それは、対象がカラスであるならば当然示すであろういろ
  いろな性質、たとえば、「カァー」という鳴き声を出す、嘴をもっている、
  羽を広げて飛ぶことができる、などなどを意味としてふくんでいる。しか
  し、筆者の現時点での感覚的知覚は当該の物体が羽をもっているのか、ま
  たそれを広げて飛ぶことができるのかなどについては何事も教えてはくれ
  ない。「カラス」という普遍概念は、個々の感覚的知覚を超えでている。
  
われわれの感覚的知覚は一回かぎりのユニークなものであり、ある瞬間で
  の知覚像である。それは、
普遍概念の意味内容のすべてを示すことはでき
  ないのであり、われわれはみずからの限定された感覚的知覚から普遍概念
  ──われわれの例でいえば、カラス──に飛躍する。言葉を換えれば、

  ま知覚している物体はカラスであろうという仮説をたてる。そしてそれに
  よってさまざまな知覚像を整合的なものに統合する。(中略)
   
ポパーは、このような事態をさして「普遍概念の経験超越性」とよぶ。
  これは、別の角度からいうならば、
普遍概念は対象の準法則的なふるまい
  を記述しているのだと言ってもよい。あるいは、
普遍概念は背後にさまざ
  まな理論を背負っている──観察の理論負荷性──のだともいえる。そし
  て、
法則が有限個の単称言明の連言に還元されないように、普遍概念もま
  た有限個の感覚知覚に還元されることはない。

  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、
    講談社、1997年、pp. 108-109)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  今日の科学哲学者のほとんどすべては、いわゆる観察の理論負荷性のテー
  ゼを信じている。つまり、観察は、背後になんらかの理論──観察者がど
  の程度自覚的であるか否かはどうでもよい──を背負っており、したがっ
  て
いかなる理論からも解き放たれた「中立的な」観察などありえないとい
  うテーゼである。(中略)このテーゼは簡単に言えば、
証拠というものは、
  すでに解釈されたものであるということである。

  (小河原誠「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」、
    ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、
      未來社、2001年、p. 20)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



973 名前: Libra 投稿日: 2003/07/13(日) 18:15

わけわかめのために・付録2──【反証の形而上学的言明への影響】──
  
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 
 形而上学的言明が連言として理論体系に結合されていれば、反証によって
  もちろんこの言明にも影響が及ぶ。そして、もしその形而上学的言明がほ
  んとうに問題をはらんでいるならば、それはさらに反証にさらされること
  になるだろう。しかし、もしそれがたいした問題でないなら、それはすぐ
  に問題領域から排除されるだろう。(中略)
  たとえば、エーテルそのものは、見ることも触ることもできない形而上学
  的実体であるので、「エーテルが存在する」という言明はたしかに形而上
  学的言明であると言えるだろう。だが、この言明を組み込んだ理論体系が
  マイケルソン・モーレーの実験がエーテル仮説にとって否定的な結果を示
  したことによって、たしかに、この形而上学的言明にも影響が及んだので
  ある。もちろん、この結果だけで「エーテルは存在する」という形而上学
  的言明がただちに否定されることはなかった。だが、そこに問題が発生し
  たことはたしかである。だからこそ、ローレンツの仮説などが提出されて、
  この問題に真剣に取り組む試みが現われたのである。
   このように、エーテルの存在そのものは、形而上学的な性格を帯びてい
  たが、それはテスト可能な理論体系と内容的に密接に関連していた。この
  ため、反証の影響が及んだわけである。しかし、
テスト可能な理論体系に、
  わざとらしく「絶対者は完全である」などといった形而上学的言明を連言
  でくっつけたとしても、それが理論と実質的な関係をもたなければ、たん
  に盲腸のようなもので、理論体系がテストによって反証されても、なんら
  問題にされることはなく、ただぶら下がっているだけでおしまいであろう。
  たしかに、こうした無用な言明にも、論理的には反証の影響は及ぶ。しか
  しそれだけである。テストの結果を生かして、その理論体系を改良し、知
  識を成長させていくうえでは、なんの関係もないものである。したがって、
  
こうした盲腸のような形而上学的言明によって、探求をまえに進めるとい
  う反証可能性の本来の機能が損なわれることは、まったくない。
  
  (蔭山泰之「反証可能性の理論──その意義」、
    小河原誠編『批判と挑戦──ポパー哲学の継承と発展にむけて』、
    未來社、2000年、pp. 111-112)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


982 名前: Libra 投稿日: 2003/07/14(月) 17:51

わけわかめのために・付録3──【宗教批判の可能性】──

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   論理実証主義者たちの実証可能性の規準とポパーによる境界設定の規準
  との相違は、文脈を少しずらしてみると鮮明になってくる。つまり、
科学
  と宗教の対立という古くからの文脈にたち返って二つの規準を考えたらど
  うなるであろうか。
   論理実証主義者たちの規準からすれば、たとえば「死後の生がある」と
  いった宗教的あるいは神学的言明は、実証不可能であるがゆえに無意味と
  されるであろう。しかし、宗教家とか神学者にとっては、そうした言明は
  無意味ではあるまい。むしろ、彼らは、論理実証主義者たちは宗教的言明
  をあつかえないというかぎりで、科学の限界を示したにすぎないと考える
  ことだろう。みずからの言明の有意味なことを信じている宗教家とか神学
  者からみれば、論理実証主義者たちは著しく知的理解力を欠いた連中とい
  うことになる。他方で、論理実証主義者の方が、みずからが無意味と決め
  つけたことがらに立ち入っていくわけもない。
   とすると、ここに生じてくるのは一種の棲み分けである。生活様式ある
  いは言語ゲームが異なるというわけだ。
ウィトゲンシュタインが、その著
  『論理哲学論考』(一九二二年)の第六・五三命題で、哲学の正しい方法
  は語り得ないことについてはなにも語らないことだというとき、彼は実質
  的に宗教批判の道を封じ、宗教にその居場所を保証している。これに対し
  て、
ポパーの境界設定の規準からすれば、宗教的言明は依然として有意味
  である。そしてポパーは、大部分の宗教的言明を科学でないものに分類す
  るとはいえ、宗教的あるいは形而上学的レベルでの討論の可能性を否定し
  ていない。つまり、ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って
  宗教批判をおこなうことが可能なのである。現代日本におけるカルト宗教
  のおぞましさに引きつけていえば、科学者はカルト宗教を別種の生活様式
  としてたてまつる必要がないどころか、それらに立ち入って批判しうると
  いうことである。

  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、
    講談社、1997年、pp. 70-71)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 わけわかめのために………完


「仏教の源流から」スレッド その他の発言(抜粋)



935 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 01:59

>>934 

 仏教学だけではなくて、インド学全体がもともとイギリスを中心にして興っ
たものなんですよね。

  インド学と仏教学
  http://www.inbuds.net/jaibs/panf3.htm

> 小乗教のみを仏説とする根本仏教←戸田説

 このような説は「残念ながら(…)話にならないといわざるをえない。」


  四阿含経までも「小乗仏教」と呼ぶのは誤り(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/029.html

  仏教学を離れた仏教評論などはまったく成立の余地がない(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/040.html


939 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 03:15

>>937、>>938 鬼太郎さん

> ちょうど今、「からぐらねっと」にカキコしてきたところです。

 うーむ。またスゴイところに参加されてますね。

> こんだけめちゃくちゃ書けば釣れるかなと思いまして、お恥ずかしいのですが。

 「釣るためにめちゃくちゃ書く」というのはどういうことなのでしょうか。

> これをやられると全ての既存の仏教は、正当性(優位性)の根拠を失ってしまう。

 このようないい方はちょっと短絡的すぎるだろうと思います。現代の研究成
果を駆使して既存の仏教の結論を擁護するということも十分に可能なのではな
いでしょうか(>>912 を参照)。

  「宗学的立場」と「批評的立場」(本田義英
  http://fallibilism.web.fc2.com/104.html

> 今の学会員は、外部の仏教研究書に接しようとしませんね。

 公平のためにいっておくと、これは必ずしも事実ではないだろうと思います。
友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』(第三文明社、2001年)などはご覧
になられましたでしょうか(これは学会系の雑誌に連載され、好評を博したも
のが後にまとめられたものです)。他にも、友岡さんが書かれたものはたくさ
んありますのでご参考までに列挙しておきます(聖教新聞に連載されたものも
あります)。

  頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
  http://fallibilism.web.fc2.com/014.html

  意志と業(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
  http://fallibilism.web.fc2.com/015.html

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html
 
  呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/042.html

  ブッダ、因果を超える(友岡雅弥
  http://fallibilism.web.fc2.com/080.html

  エゴイズムの昇華(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/013.html

 ただし、「外部の仏教研究書に接しようとし」ない学会員が少なからずおら
れるというのは事実でしょう。とはいえ、他の仏教団体の構成員と比較して、
創価学会員がとりわけ「外部の仏教研究書に接しようとし」ていないと言いう
るのかについては少々疑問です。統計とったわけではありませんが。

> なるほどやはり研究の方法論のことですか。

 ただ単に「現代の仏教学」というものを、その発祥当時の中心地を冠するこ
とによって表現されただけだろうと推測します。私は『人間革命』を読んでま
せんので文脈まで考慮しての推測ではありませんが、常識的に考えてそうだろ
うと思います。


940 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 03:25

>>937 補足です。

> 大乗仏教の経典全てが偽書(釈尊本人の直筆ではないという意味で)である

 このことはたぶん創価大学でも菅野先生がきちんと教えておられるんだと思
います。

  『無量義経』は中国で作られた偽経(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/050.html

  中国における教判の形成の必然性(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/021.html


941 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 04:04

>>939 わかりにくいので自己レス

> > 今の学会員は、外部の仏教研究書に接しようとしませんね。
>
>  公平のためにいっておくと、これは必ずしも事実ではないだろうと思います。
> 友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』(第三文明社、2001年)などはご覧
> になられましたでしょうか(これは学会系の雑誌に連載され、好評を博したも
> のが後にまとめられたものです)。

 友岡さんの本自体は「外部の仏教研究書」ではありませんが、内容的にはこ
こでいわれている「ロンドン仏教」に基づくものだろうということで、実質的
には同じことだろう思うわけです。今の議論においては。

(後略)


942 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 13:29

>>939 自己レス

>  ただ単に「現代の仏教学」というものを、その発祥当時の中心地を冠するこ
> とによって表現されただけだろうと推測します。

 「ロンドン仏教」ではなくて「オックスフォード仏教」というべきだったの
かもしれないけど。


946 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 17:43

>>945 名も無き行者さん

> 今気付いたんですが、この命題(主張?)も証明・実証する事は不可能って事
> になりますかね?

 もちろんです。正当化などできません。ですが、われわれ(批判的合理主義
者)は、《証明できないことは主張してはならない》とはそもそも考えないわ
けですから別に問題はないわけです。もしもそういうわれわれの考えに対して、
特定された有意義な批判(>>912)が提出された場合には、真剣にそれを受け
止めて、誤りの発見に努め、真理により接近できるよう努力していけばよいと
考えているわけです。

 要するに、批判的合理主義者は《証明できないことは主張してはならない》
なんて馬鹿な考えからは早く開放されましょうと主張しているわけです。



950 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 19:52

>>949 名も無き行者さん

(中略)

> この命題を真とするならば、この命題も証明する事は論理的に不可能となる。
> もしこの命題が正しい事を論理的に証明した場合、この命題の意味する所は偽
> である事が同事に証明されてしまう。
> ↑パラドックス

 いかなる命題も正当化などできません。したがって、あの命題も正当化でき
ません。しかし、正当化などできなくても真であるということはありえるので
す。ですからパラドックスは生じないのです。

 そもそも、われわれは、別に主張を正当化できるなどと思って論証を提出し
ているわけではないのです。正当化なんてできないけど、暫定的に真だと考え
てみようってわけです。それで具体的な問題が生じたら、誤りを発見して、修
正していこうよというわけです。その点をまずご理解頂きたいです。

 数学なんかでいう証明なんてものは、前提(公理系&推論規則)にどのよう
な論理的帰結が含意されているかをただ確認してるだけの話なんで、論理的に
は前提をただ単に独断的に受け容れているのと同じなんです。正当化できるか
否かという観点からみれば、前提は正当化できませんから、定理なんてのも、
別に正当化されているわけではありません。

 
われわれは正当化主義に対する批判として論証を提出しているわけでして、
それに対してまともに反批判できた人が今のところいないのです。それで、正
当化主義は挫折していると考えられているわけです。もちろん、われわれの提
出している批判(論証)がなぜ妥当でないのかについての特定された理由を述
べるような有意義な反批判(>>912)によって正当化主義を挫折から救うことは
もしかしたら可能かもしれません(批判的合理主義は挫折するかもしれません)。
しかし、そういう有意義な反批判に成功した人が今のところいないわけです。

 さっき書いたこと(>>946)をもう少し補足しておきますと、われわれは《証
明できないことは主張してはならない》などとは全く考えないわけでして、も
ちろん他人にそんなことを要求したりもしません。それは不可能事の要求だか
らです。ですから、われわれは「みずからを正当化しなければならないという
義務は負っていない」わけです。単に、
われわれの主張が正当化不可能だとい
うことを指摘するだけでは、われわれは全然挫折しないのです。


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   さて、正当化主義か非正当化主義かという選択を考えたとき、すでに正
  当化主義はみずからを正当化しなければならないためにトリレンマに陥り
  自滅していた。とすると、残る選択肢は非正当化主義ということになる。
  しかし、
非正当化主義はみずからを正当化しなければならないという義務
  は負っていないのであるから、トリレンマに陥る必然性はないのである。
  そしていま、非正当化主義の地平に立つならば、合理性ははてしない批判
  可能性のうちに存在することになる。(中略)換言すれば、
批判的合理主
  義もまた果てしない批判的討論という議論の世界に投げこまれる。そのと
  き、われわれは正当化はされないけれども挫折していないというかぎりで
  批判的合理主義を保持していけばよいのである。

  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』、講談社、1997年、pp. 201-202)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



951 名前: Libra 投稿日: 2003/07/12(土) 20:15

 このままでは仏教との関係がどんどんわかりにくくなっていきますね(汗)。
それではちょっと問題だろうと思いますので、非正当化主義と無我説との関係
についての私の考えをちょこっと書いてみようかと思います。

 私の無我説についての理解は、松本史朗先生のご説明によるところが大きい
のですが、松本先生は無我説を以下のように表現されます。


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  
法は確固不変なるものではなく、反対に実に不安定な中ぶらりんな危機的
  存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこにもない。

  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 27)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 これに対して、私は、批判的合理主義の非正当化主義を《無我説の認識論版》
だと捉えます。「我々の生に存在論的な根拠などどこにもない」のと同様に、
「我々の主張に認識論的な根拠などどこにもない」と。


963 名前: Libra 投稿日: 2003/07/13(日) 10:28

>>952、>>953 名も無き行者さん

> 言わんとしている事は判ってますよ。

 いや、たぶん分かっておられないと思いますよ。別にそれでもかまわないと
は思いますが。

> 「主張」の定義付けは
> ・論理的な証明が不可能な命題。
> という事に集約されませんか?

 
そもそも《正当化可能な命題》などは存在しないのです。そんなのは幻想に
すぎません。それと、「定義付け」なんてのも私にとってはたいした問題では
ないんです(>>904)。

> この命題の正当化は可能ですか?

 なんどでもいいましょう(笑)。いかなる命題も正当化などできません。


  ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/109.html

  デイヴィッド・ミラー「論証は何をなしとげるのだろうか」
  http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1miller.html

  肯定的証拠をいくら積み重ねても理論の正しさは証明されない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/057.html

> >暫定的に真だと考えてみようってわけです。
> この前提で進まれるわけですか?

 その通りです。

> あと、暫定的に真だと考えてみよう、を許してしまえばそれこそ何でもアリ
> になってしまうような気がしますね。

 《正当化は可能である》という幻想をお持ちだからそのように思われるんだ
ろうと思います。本当は、許すもなにもそれ以外に選択の余地はないのです。

> 例えばそれこそカルト教団が打ち出している教義、うちなんかもそうですが、
> 絶対に証明不可能な事をまず受け入れる事から教義ってのは構築されていく
> わけで。

 「カルト教団が打ち出している教義」に限らず、あなたが普通に信じている
ことだって正当化などできないのです。

> 日蓮本仏論なんかも証明は不可能だと思いますし。
> それもLibraさんはアリだとお考えなのですか?
 
 
私はもちろん日蓮本仏論は挫折していると考えていますよ。しかし、それは
証明不可能だからではありません。
具体的な批判によって挫折していると考え
るからです。


  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

 どんな主張も、正当化できませんが、証拠や論証によってテストされ、批判
され、反証されえます。もちろん、提出された証拠や論証それ自体も批判され、
反証されえます(>>903、4.)。
 「証明は不可能」だからこそ、「批判、反証によって誤りを除去することに
より、真理に接近することが可能である」ということの意義が大きいのだと思
います(>>909)。
 
主張する者は自らの主張を批判にさらす。その結果、批判を受ける。そして、
批判に耐えることのできた主張が当面生き残っていく。そして、それもまた、
新しい批判によって淘汰されていき、また新しい主張が生まれていく…(>>909)。
われわれの知識の成長というのはそういうものだろうと私は思っています。
 
 あとは、私の一連の投稿を読み返して頂くしかないのかもしれません。すで
に、同じところをぐるぐる回りだしているようなので。

 直接関係ないものも含めて、一応、「一連の投稿」を列挙しておきます。


  自己レス&いつものわけわかめ(>>903)
  【定義について】(>>904)
  【批判と寛容】(>>905)
  【無知の知】(>>906)
  【ポパーゼミの風景】(>>907)
  【批判は特定されたものでなければならない】(>>912)
  【いろいろなタイプの批判】(>>913)
  【討論は勝ち負けではない】(>>943)
  【啓蒙】(>>944)


> #どんどんスレ違いになりつつあります。

 私はそんなことはないと思っています(>>951)。しかし、それを理解する
人がどれくらいここにおられるかはわかりません。あまりおられないかもしれ
ませんね。

 しかし、確実なものでありたい(ありうる)とか、真理の所有者でありたい
(ありうる)とか、そういう《確実性を求める心》というのは実に根深いもの
ですね。


969 名前: Libra 投稿日: 2003/07/13(日) 17:54

>>966 完全なる勝利という幻想

> 具体的な批判によって宗教じたいが挫折する、なんて類いのものじゃない

 
批判というものは決定的なものではありえない(批判もまた批判に開かれて
いる)ので、そういう意味では、
理論が批判によって完全に挫折してしまうと
いうようなことは原理的にはありえません。科学だろうが宗教だろうがそれは
同じです。もちろん私がいってる挫折というのはそういうことをいっているん
じゃありません。

 一応、読者の方々のためにと思って書いてみました。



985 名前: Libra 投稿日: 2003/07/15(火) 08:03

>>984 鬼太郎さん

> 「言語ゲーム」

 「言語ゲーム」とか「生活様式」というのも、「フレームワーク」の一種で
しょうね。牢獄といってもいいかと思います。

  フレームワークの神話(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/111.html

> ポパーの語ることも「言語ゲーム」の域を脱することは言語を使う以上は、不
> 可能。

 しかし、「われわれにはつねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢
獄へと脱出する自由がある」のです。

> だからと言って、それにニヒリズムを感じる必要はない。
> それが、人間の限界。足るを知れと・・・

 いや、そう消極的なものでもないです。


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  原則として、より広い監獄へ、さらには、まえもって定められた限界のな
  いより広い別の監獄へ逃れ出ることによって自分自身を解放できるのであ
  れば、知的監獄へ閉じ込めるという終身刑の宣告を受けていたところで、
  この宣告は、耐えられるばかりでなく、自由のためにたたかうというスリ
  ルに満ちた展望、つまり、われわれの知的生活にとって価値ある課題を切
  り開くべしという宣告ともなる。

  (カール・R・ポパー『実在論と科学の目的(上)』〔小河原誠・蔭山泰
    之・篠崎研二訳〕、岩波書店、2002年、p. 22)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


(後略)

2003.8.29

TOPに戻る




inserted by FC2 system