掲示板を再開

 
掲示板を再開
日時: 2002/10/16 21:59
名前: Libra <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


  本日から掲示板を再開します。


Re: 掲示板を再開 ( No.1 )
日時: 2002/10/17 01:39
名前: 真フィン


公開掲示板、復活おめでとう♪

 あとは、トップページに宣伝文句を付けて、人の出入りを促したらいいよね。
 今度は、「人の話を聞けない荒らしまがいの書き込み者」が入らないよう、期待しています。



掲示板開設おめでとう御座います。 ( No.2 )
日時: 2002/10/17 01:50
名前: 反創価学会連盟(A・S・C) <hansoukarenmei@hotmail.com>


公開掲示板おめでとう御座います。

まず規約から作っていって徐々に、みんなが建設的な議論し合う健全な掲示板を目指しましょう。
今後の展開を期待します。



Re: 掲示板を再開 ( No.3 )
日時: 2002/10/17 02:54
名前: Libra


>>1 真フィンへ

> 公開掲示板、復活おめでとう♪

 真フィンの提案からは少し時間がかかってしまったけど、なんとか復活にこ
ぎつけることができた。自分では、スレッド式でなかなかいい掲示板だと思っ
ているのだがどうだろうか。



Re: 掲示板を再開 ( No.4 )
日時: 2002/10/17 02:57
名前: Libra


>>2 反創価学会連盟さんへ

> 公開掲示板おめでとう御座います。

 ありがとうございます。

> まず規約から作っていって徐々に、みんなが建設的な議論し合う健全な掲示板
> を目指しましょう。

 規約のいいお手本などをご存知でしたら教えて頂けるとありがたいです。その
他にもどんどん注文をつけて下さいね。



Re: 掲示板を再開 ( No.5 )
日時: 2002/10/17 18:47
名前: Sameo


公開掲示板の復活おめでとうございます!僕は文章を書くのは苦手で書き込む
ことはほとんどないのですが、今回思い切って挨拶させていただきます(^^;

いつもいろいろなところでLibra氏の書き込みを読ませていただいてます。以
前は少し頑なな感じで、ちょっと話すのが恐い人かな?と思っていましたが、
最近のLibra氏の書き込みは、肩の力が抜けたというか見ていて気持ちがよく
なります(笑)

これからも書き込むことは、あまりないと思いますがLibra氏の一賛同者とし
てROMらせていただきます(^^; 

また公開掲示板の管理者としてこれから、いろいろと大変なことがあるかもし
れませんが、ここが学会員にかぎらずいろいろな人たちにとって居心地のいい
場所(僕にとっては見心地でしょうか(笑))として長くつづくよう祈っていま
すので頑張ってくださいね!!

ここに書き込みをする人たちも、きっと皆良い人ばかりだと思います。ですか
ら他の掲示板に見られる、心の荒むような書き込みは自粛してくださるようお
願いいたします(こんなこと書かなくても皆さんわかってらっしゃる方ばかり
だと思いますが(^^;)

それでは。こんな新参者が長々とくだらない書き込みをして申し訳ありません
でした。


Re: 掲示板を再開 ( No.6 )
日時: 2002/10/17 21:12
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


公開掲示板開設おめでとうございます

色々議論したいこともあったりします。
(私自身肩の力を抜く必要がありそうですが )
これからもよろしくお願いします。




規約草案 ( No.7 )
日時: 2002/10/17 23:21
名前: 反創価学会連盟(A・S・C) <hansoukarenmei@hotmail.com>


ベタな部分もありますが、一応草案を作りました。

基本規約
一、相手の意見・考えを否定しない。
二、社会的倫理(一般的モラル)から見た発言を行なう。
三、名無し・捨てハンドルネームは行なわない。

具体規約
掲示板が荒らされる事への防止の為、以下の発言は禁止します。

・社会的倫理から見て、礼儀のない発言。
・議論において実証論及び体験主義を出す発言
・特定人物における誹謗中傷・罵詈雑言などといった発言
・(悪・善という二元論にたって)弁護・若しくはパッシングする事を目的とした発言

なお、守らない場合はアカウント制限などの処遇があります。

といったところです。
後は管理人が色々考えて上手く利用規約を作って頂きたいです。



Re: 規約草案 ( No.8 )
日時: 2002/10/18 13:55
名前: Libra


>>7

 反創価学会連盟さん、規約の草案を作成してくださいましてありがとうござ
いました。この草案に対して、みなさまからのご意見をお伺いできればと思い
ます。

 私の方で気になった点をまず一つだけ述べさせていただきます。

> 一、相手の意見・考えを否定しない。

 相手の考え(思想)を誤っているとして批判するのが討論だろうと私は思い
ます。その際に重要なのは、相手の「思想と人格を切り離」すことではないで
しょうか。おそらく、反創価学会連盟さんも、「人格攻撃をしてはならない」
ということをおっしゃられたかったのだと思いますがいかがでしょうか。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  批判は、ふつう非難と混同され、敵意の現れとさえ見られることがある。
  そして、批判を受け入れることは、屈服を意味するとも考えられ、一種の
  屈辱ともみなされている。たしかにそういう侮辱的な批判もあるかもしれ
  ないが、しかしそれはたいてい相手を理解しないたんなる非難と同程度の
  ものであろう。本来、批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘するこ
  とにより、批判される対象と現実を直面させる試みである。そしてその目
  的は、その批判対象をよりよきものにすることにある。この意味では、批
  判はその対象に対する真剣な関心の現れである。それは批判の対象を改善
  するきっかけ、チャンスなのである。だから、批判や反駁を受け入れるこ
  とは改良への一ステップである。

  (蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から見た日本的組織の諸
    問題−」、http://www.law.keio.ac.jp/popper/v10n1kagefr.html)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と容易に
  むすびつけてしまう強い傾向がある。もっともこれは、日本的組織にだけ
  見られる傾向ではないが、こうした傾向が強いところでは、批判即人格攻
  撃と受け取られてしまうだろう。しかしそうであるからこそ、行動や、思
  想と人格を切り離し、たとえ理論が誤っていたとしても、「われわれの代
  わりに理論を死なせる」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されて
  くる。

  (同上)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



余談:蔭山論文の興味深い記述 ( No.9 )
日時: 2002/10/18 14:08
名前: Libra


>>8 

 余談になりますが、No. 8 の中で引用した蔭山論文には、以下のような興味
深い記述があります。現在の創価学会にもあてはまるのではないでしょうか。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  組織が全体として誤った方向に突き進んでいるときに、内外からのあらゆ
  る批判、反駁を避けることができれば、当面は、たしかに組織の体面は保
  たれるだろう。しかしそれは、沈みつつある船の中で安全な個室を確保し
  ようとするようなものである。というよりもむしろ、船底の板をはがして
  個室を補強しようとするような、組織の危険性をさらに増す可能性さえあ
  る。

  (蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から見た日本的組織の諸
    問題−」、http://www.law.keio.ac.jp/popper/v10n1kagefr.html)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




Sameoさん&Leoさんへ ( No.10 )
日時: 2002/10/18 14:30
名前: Libra


 Sameoさん、Leoさん、さっそくの書き込みありがとうございました。まだま
だ試運転という感じですが、これからもよろしくお願いいたします。

 Leoさんには議論したいことがたくさんおありのようなので、スレッドをど
んどんたてて頂いて、問題提起してもらえると有り難いです。

 Sameoさんも、ROMだけといわずにたまには顔を出してくださいね。




草案に関して ( No.11 )
日時: 2002/10/18 14:59
名前: 反創価学会連盟@学校中


こんにちは、Libraさん
返答有難う御座いました。
私なんぞの草案が役に立つかどうか分かりませんが(笑)

さて、ご意見がありましたので返答させて頂きます。

>> 一、相手の意見・考えを否定しない。

これは言葉足らずでしたね。言いたいことは理解して頂いておられると思いますが、意見などの批判をすることへの禁止することではなく、要は相手の意見・考え“そのもの”を否定しないということです。

そのものというのはイデオロギーに対して、自分のイデオロギーを崩さないためにレッテル貼ったり、体験などを用いて正当化を図らないという意味を込めて規約に入れました。

<相手の考え(思想)を誤っているとして批判するのが討論だろうと私は思います。その際に重要なのは、相手の「思想と人格を切り離」すことではないで
しょうか。おそらく、反創価学会連盟さんも、「人格攻撃をしてはならない」ということをおっしゃられたかったのだと思いますがいかがでしょうか。

仰るとおりです。しかし、「人格攻撃をしてはならない」というだけではありません。人格攻撃にも問題がありますが、創価学会をはじめ日本人の多くにおける。「自分は自分」「君は君」という様な相対主義者も含みます。纏めますと1の規約というのは

相手の意見“そのもの”を否定しない。

そのものというのは自分の考えを固持したい為にあらゆる手(人格攻撃・レッテル・相対主義を用いることなど)を使って正当化を図るという意味です。

とこんな所です。
文章が悪すぎなので、上手く纏めるべきだったなと
反省しています(苦笑)



Re: 草案に関して ( No.12 )
日時: 2002/10/18 19:54
名前: Libra


>>11 

 すばやいレスをありがとうございました。

 今回のご説明に対しても疑問を感じましたので、率直に述べさせて頂きます。

> 相手の意見“そのもの”を否定しない。

 私は《言明の内容“そのもの”》は否定してもよいと思います。むしろ、批
判というものは、《言命の内容そのものにたいする批判》であるべきだと考え
ます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日常生活では、われわれは実にいろいろなタイプの批判をする。たとえば、
  「彼の言っていることは正しいのだが、言い方がよくない、時と場合を考
  えるべきだし、聴衆にどんな反応を引きおこすかも考えるべきだ」とか
  「あんなものの言い方では、彼の誠実さがちっとも表現されていない」と
  いった類のコメントである。こうしたタイプの批判的コメントは、基本的
  に言って、問題となっている言明の内容そのものにかかわるのではなく、
  その言明の提出のされ方とか、ある状況下でどんな反応を引きおこすかと
  いった二次的要素にかかわっている。こうしたタイプの批判は、言命の内
  容そのものにたいする批判ではないという点に最大の特徴をもっている。

  (小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、
    1993年、p. 130)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 たとえば、Aさんが「○○は××である」という言明を主張している場合に、
その否定である「○○は××ではない」という言明を主張すること(すなわち、
Aさんの《言明の内容そのもの》を否定すること)は誰にとっても許されるで
しょう(Aさんからそれなりの論拠を求められるでしょうが)。これに対して、
Aさんの《言明の内容そのもの》とは関係のない二次的要素を持ち出してきて、
Aさんを非難すること(そして、そのことによって、Aさんの《言明の内容そ
のもの》を葬り去ろうとすること)は許されるべきではないと思います。

> そのものというのは自分の考えを固持したい為にあらゆる手(人格攻撃・レッ
> テル・相対主義を用いることなど)を使って正当化を図るという意味です。

 このご説明によって、反創価学会連盟さんが考えておられることはおおよそ
伝わってきますし、そういうお考えには私も賛成できるのですが、「相手の意
見“そのもの”を否定しない。」という表現は、さきほど述べたような理由に
より、あまり適当ではないように感じました。

 言明の内容そのものに対しての真正面からの批判(「論理的矛盾や事実との
齟齬を指摘すること」)を《正当な批判》ということにすれば、反創価学会連
盟さんがおっしゃられるところの、《あらゆる手を使っての批判》というのは
《正当な批判》とはいえないものだと思います。少なくとも、この掲示板にお
いては、そのような種類の言動は《正当な批判》とは見なしません。

 勝手なことばかり言ってスイマセン。



Re: 掲示板を再開 ( No.13 )
日時: 2002/10/19 00:22
名前: さかなこ@部屋がみっふぃーだらけ


掲示板再開おめでとうございますm(__)mm(__)m

楽しいお話が沢山聞けるのを期待してます〜♪♪



はじめまして ( No.14 )
日時: 2002/10/19 03:15
名前: 今里 祐二 <imachan@hm5.aitai.ne.jp>
参照: http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html


掲示板の再開おめでとうございます。
法華講員の今里と申します。よろしくお願いします。

興門流のHPは数多く存在しますが、
「縁起」という事にスポットの当たったサイトには
めったにお目にかかる事は出来ません。

そんな中でLibra様のHPは大変完成度が高く、ずいぶん勉強させていただきました。

これからこの掲示板で素晴らしい議論が展開されていくことを期待しています。



Re:Re:草案に関して ( No.15 )
日時: 2002/10/19 03:18
名前: 反創価学会連盟(A・S・C) <hansoukarenmei@hotmail.com>


こんばんは、Libraさん
実は「そのもの」という言葉はまた適切ではないと投稿直前に気付いたので念のために私なりの「そのもの」の使う意味を書いておりました。適用ではないのは分かっております^_^;、どちらかと言えば反創価学会語になっている感じが受けます。故に私の意図を理解した上で言葉の中で適切であるように規約を書いて頂きたいです。
つまりは

<一、相手の意見・考えを否定しない。

に変わる、私の考えている意図を含めた適切な
文章を作って頂きたいです。



さかなこさん&今里さんへ ( No.16 )
日時: 2002/10/19 16:01
名前: Libra


 ご訪問、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。



Re: 掲示板を再開 ( No.17 )
日時: 2002/10/21 03:42
名前: S4323


掲示板、再々開(ですよね?)おめでとうございます。

三吉さんやLibraさんの論客の書き込みにはずいぶん勉強させてもらいました。

熱い議論を期待しています。



S4323さんへ ( No.18 )
日時: 2002/10/21 11:57
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>17

 S4323さん、書き込みありがとうございました。これからもよろしくお願い
いたします。




Re: 掲示板を再開 ( No.19 )
日時: 2002/10/21 13:18
名前: 惣流 城


公開掲示板の再開、おめでとう御座います。
と共に、有難う御座いますm(_ _)m

ようやくリアルタイムで、有意義且つ冷静な議論を拝見出来るであろう幸運に喜びを禁じ得ません。

以後、楽しく拝見及び勉強させて頂きますm(_ _)m



惣流 城さんへ ( No.20 )
日時: 2002/10/21 13:25
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>19 

 書き込みありがとうございました。お久しぶりですね。これからもよろしく
お願いいたします。

 前回の惣流さんとの対話の延長線上の議論として、以下のような議論を展開
しましたのでお知らせしておきます。

  「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 2 ]
  http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html



Re: 掲示板を再開 ( No.21 )
日時: 2002/10/22 11:28
名前: みかん


掲示板再開おめでとうございます。
活発な議論がなされることを念願しております。
取り急ぎお祝いまで。



Re: 惣流 城さんへ ( No.22 )
日時: 2002/10/24 18:43
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>

Libraさん、今晩は、早々のレス有難う御座いますm(_ _)m

御紹介頂いた議論ですが、Pohさんとも議論されていたのですね
私も某所にて議論する予定だったのですが、当該掲示板が荒しに遭いまして^_^;)
私の意見を提示したまま、Pohさんの反論を待たずに終了してしまいました。
いずれ、Pohさんとも議論する事になると思います。
とは言え、私等の一般仏教教学は、貴方がたには遠く及びません^_^;)

話は変わりますが、段々とポパー研究会の様相を呈してきましたね♪
前回は、ポパー思想に対して批判を強調していましたが、実のところは、ポパー思想にとても共感しているのです。
極端に言えば、前回指摘していなかった部分については、全面的に賛同しています。
唯、それ故に、玉の傷との思いからも、批判箇所を強調させて頂きました。

また私が、Libraさんに興味を持ったのも、論理的でありながら、人の言を尊重するその受容姿勢に魅力を感じたからです。(そっちの気はありませんのでご心配なく…笑)
最初に目についたのは、『折伏は慈悲が根本』の忍辱重視の御見解で、現在では、私の基本姿勢とさせて頂いているつもりです。
唯、あまりにも『空』を強調する姿勢に、大聖人仏法者として少々違和感を感じる事、且つ何事にも中道精神が大事ではとの思いと、仏法は実践にありとの思いから、これまた玉の傷ではないのかなとの愚慮から、いずれ議論をと思っていました^_^;)
何を隠そう、昨年春頃から議論の場を探していたのですよ(笑

しかし、前回の議論では、私が焦り過ぎた為に、中途半端に終わってしまいました。
今回は、折角の機会ですから、ゆっくりと視点を弁えて議論したいと思います。
どうか、暫くの間御付合い下さいm(_ _)m
では、宜しく御願い致しますm(_ _)m



惣流 城さんへ ( No.23 )
日時: 2002/10/24 20:22
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>22 惣流さんへ

> いずれ、Pohさんとも議論する事になると思います。

 では、Pohさんをここにご招待いたしましょうか(笑)。

> 唯、それ故に、玉の傷との思いからも、批判箇所を強調させて頂きました。

 ポパー思想の問題点についてはまた議論しましょう。一応、読者の方々のた
めに、惣流さんからの「批判箇所」を明示しておきますね。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  人を愛するとは人を幸福にしたいという意味である(ついでながら、これ
  はトマス・アクィナスの愛の定義であった)。しかし、すべての政治的諸
  理想のうちでも、人々を幸福にしようとする理想は、おそらく、最も危険
  な理想である。それは、われわれの「より高級な」価値尺度を他人に押し
  付け、そして彼らにわれわれにとって最大に意義を持っているものを彼ら
  の幸福だと思わせ、そしていわば彼の魂を救済するという企てを不可避的
  に招くのである。それはユートピア主義とロマンチシズムとに至る。われ
  われのうちの誰れにせよ、あらゆる人がわれわれの夢の美しい完璧な共同
  体で幸福になるだろう、と確信しているのである。そして、疑いもなく、
  われわれのすべてが相互に愛しあえるならば、地上に天国が出現すること
  になろう。だが、私が先に(第九章で)述べたように、地上に天国を作ろ
  うとする企ては不可避的に地獄を産み出す。その企ては不寛容を導く。そ
  の企ては宗教戦争に至り、そして、魂の救済を異端審問を通じて行うに至
  る。そして、私見によれば、その企ては、われわれの道徳的義務の完全な
  誤解に基づいているのだ。われわれの義務はわれわれの救助を必要とする
  人々を助けることであって、他人を幸福にしようとすることはわれわれの
  義務ではありえない。なぜなら、他人を幸福にすることはわれわれには依
  存しないし、それはまたしばしば、われわれがそのような心やさしい意図
  を向ける人々のプライバシーを侵害することでしかないであろうからであ
  る。

  (K.R.ポパー著・小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』、
    未來社、1980年、p. 218)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 私から見れば、ポパーの上のような考えは、まさに、別スレッド(「仏教と
はなにか」)で述べたところの、《「幸せについて考える」よりも「不幸につ
いて考える」ほうがよい》という考えにつながります。だから、「傷」などで
はなくて、むしろ「玉」の部分だと思うわけです。

  スレッド「仏教とはなにか」、No. 2
  http://fallibilism.web.fc2.com/cgi-bin/patio/patio.cgi?mode=view2&f=9&no=2

> 唯、あまりにも『空』を強調する姿勢に、大聖人仏法者として少々違和感を
> 感じる事、

 前回の対話でも申し上げましたとおり、私が言うところの「空」というのは、
「第一義空」=「中道」のことです(「但空」のことではありません)。

  創価学会応援隊・会議室2での発言、No. 19192
  http://fallibilism.web.fc2.com/kaigishitu2.html#19192

> 仏法は実践にありとの思いから、

 《仏教の実践とは何か?》ということがまさに問題でしょうね。私はこれで
も仏教を実践しているつもりなのです(笑)。仏教とは、《縁起・空・無我》
の智慧によって、自他をさまざまな《呪縛》から解放していく運動であると私
は理解しています。

> 何を隠そう、昨年春頃から議論の場を探していたのですよ(笑

 自由に、楽しく、議論していきましょう。



Libraさんへ ( No.24 )
日時: 2002/10/24 23:04
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>



Libraさん、知らぬ間に、、、本当に早いレスですね(^_^;

>では、Pohさんをここにご招待いたしましょうか(笑)。

複雑な展開になる事が予想されますが、勉強出来そうですね♪

>惣流さんからの「批判箇所」を明示しておきますね。

前回の私の指摘箇所とは、以下の二点ですので提示しておきます。
――――――――――――――――――――――――
1.『他人を幸福にしようとすることはわれわれの義務ではありえない。』
上記ポパーの言は、下記寿量品の思想に反します。
寿量品に曰く『毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身』
根本目的・方向性を異にするものは、道中の思想・所作が一致しようと最終的に相容れないでしょう。

2.『自己批判的な態度と誠実さが義務』『われわれ両方がともに間違っているのかもしれない』との言は、動執生疑重視の観点から、非常に重要な姿勢であると賛同致します。
しかし、『恐らく私が間違っているのであって、恐らく貴方が正しいのであろう。』との姿勢は、人間・思想等の荒廃を予感させるのです。
言論・理論とは、恐らくは戦わせる事により深淵に至ると思うのです。
しかし、上記姿勢に立てば、深淵に至る事なく妥協に至るのではないか、、、
それ以前に、深く追求すれば議論不能に陥るとも思われますが如何でしょうか?
――――――――――――――――――――――――

加えて今ひとつ指摘させて頂きたいと思います。
『誤りの排除をつうじて真理への接近を目指すポパーの科学哲学』

上記ポパーの思想とは、一般的には非常に納得出来る思想ではあります。
しかし、仏法者として見る時、真理とは成仏である以上、誤りの排除のみにて真理に到達する事は難しいと思われます。

>私が言うところの「空」というのは、「第一義空」=「中道」のことです

前回の議論では、あまりの驚き故に、疑惑が生じました^_^;)
改めて御聞き致します。
Libraさんの仰る空とは、三諦説の中道という事でよろしいでしょうか?

>《仏教の実践とは何か?》ということがまさに問題でしょうね。

仏教の実践とは、自行化他行の実践以外に何があるのでしょう^_^;)
成仏を目指す法なのですから、仏の境涯を開けなければ無意味でしょう。
自行のみでは、観念観法となってしまうでしょう。
化他行により、自行を完成へと導く事が必要であると思います。
折伏等の化他行により、様々な矛盾に直面して慈悲を懐き忍辱を行じ、仏智と勇気を身に付け、あらゆる無明を打破り、自行を完成させていく事が成仏への道であると思います。
中でも目に見える実践としては、人類の救済であると思います。
即ち、釈迦・大聖人と同じ『衆生無辺誓願度』にたつ一念による実践でしょう。
生涯、周りの人達を救っていく以外に実践は無いと思います。

死んだ後に、『あの人のお陰で、私は今生きているんだ、あの人が居なければ今の私は無いんだ』と多くの人に言われる人物は、確かに仏法実践者であったと言えるのだと思います。
一人にも言われない人物は、果たして実践者と言えるのか疑問に思います。
現実に人を救ってこその仏であり、人を救わない仏など居ないと思います。

>自由に、楽しく、議論していきましょう。

寛大な御言葉、有難う御座いますm(_ _)m



惣流さんへ ( No.25 )
日時: 2002/10/25 00:22
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>24 

> >では、Pohさんをここにご招待いたしましょうか(笑)。
>
> 複雑な展開になる事が予想されますが、勉強出来そうですね♪

 さっそくご招待しておきました(笑)。おいで下さるかどうかは分かりませ
んが(汗)。

> 前回の私の指摘箇所とは、以下の二点ですので提示しておきます。

 ありがとうございました。この件については、改めてスレッドを立てて議論
した方がいいかもしれませんね。といっても、惣流さんがポパーについて少し
でもご自分で学ばれれば、氷解する疑問だろうと思いますが。
 成仏とは《智慧による自己解放》であるといっていいと思いますが、ポパー
の思想もまさにそれを目指すものです。その意味では、寿量品と方向性を異に
するものではありません。また、「恐らく私が間違っているのであって、恐ら
く貴方が正しいのであろう。」というのは、《相手の主張を無条件に肯定し、
自説を直ちに否定せよ》などということではありません(笑)。あくまでも可
謬主義の説明の文脈で読まれるべき文です。実際、ポパーの哲学は「論争の哲
学」なのですよ(笑)。

  ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
  http://fallibilism.web.fc2.com/114.html

> しかし、仏法者として見る時、真理とは成仏である以上、誤りの排除のみに
> て真理に到達する事は難しいと思われます。

 惣流さんの「真理とは成仏」というご発言の意味が、残念ながら、私にはさ
っぱり理解できません。成仏というのは「常に自らを相対化し、自らの立場を
突破しつづけることができる」認識の態度を身につけるということなのではな
いでしょうか。「自らの立場を突破しつづける」ということは、「自らの誤り
を排除しつづける」ということと同じでしょう。

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

> Libraさんの仰る空とは、三諦説の中道という事でよろしいでしょうか?

 惣流さんがどのような意味で「三諦説の中道」ということをいわれているの
かが不明ですが、私がいう《空》というのは、中観派でいわれる《空》です。
三諦説でいえば、「即空即仮即中」ですね。三諦説でいっても、空から離れて
中があるわけではありません。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と
  説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすな
  わち、中道そのものである。

  (『根本中論偈』第二十四章第十八偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグ
    ルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  三諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有し
  ていない(空)けれども、それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字
  を有しており(仮)、しかも空であることと仮であることとが一なる存在
  において統一されている(中)がゆえに、即空即仮即中として表示されう
  ることを明かす教説である。

  (新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』
    〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、p. 268)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 仏教の実践とは、自行化他行の実践以外に何があるのでしょう^_^;)

 その「自行化他行」の中身がまさに問題だということです。いうまでもなく、
私は《自行のみでいい》などとはいってません。自行のみでいいと思っている
なら、私はこんな掲示板なんてやりません(笑)。

> 成仏を目指す法なのですから、仏の境涯を開けなければ無意味でしょう。

 《仏の境涯とは何か?》ということがまさに問題でしょう。「成仏」につい
ての私の考えはさきほど述べたとおりです。少なくとも、「仏の境涯を開」い
ているといえるためには、「頑迷な心を捨て」ている必要があると思います。

  頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
  http://fallibilism.web.fc2.com/014.html

> 折伏等の化他行により、様々な矛盾に直面して慈悲を懐き忍辱を行じ、仏智
> と勇気を身に付け、あらゆる無明を打破り、自行を完成させていく事が成仏
> への道であると思います。

 私がやっていることも折伏(破折屈伏)だろうと思いますがちがいますでし
ょうか?



Re: 掲示板を再開 ( No.26 )
日時: 2002/10/25 18:11
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>


Libraさんへ

>成仏とは《智慧による自己解放》であるといっていいと思いますが…

宗祖が、法華経の根幹とされる寿量品の自我偈の最後には…
『毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身』とあります。
即ち、全民衆の救済こそが、仏の誓願なのです。
《智慧による自己解放》だけでは、小乗ではないでしょうか?
上記寿量品の誓願部分がすっぽり抜けていると思うのですが^_^;)

>また、「恐らく私が間違っているのであって、恐らく貴方が正しいのであろう。」というのは、《相手の主張を無条件に肯定し、自説を直ちに否定せよ》などということではありません(笑)。

なるほど、では、心では『自説を肯定しようが否定しようが構わない』と思いつつも、『恐らく私が間違っている』との姿勢で論争せよとの主張なのですね。
頑なな相手であれば、一通りの主張さえすれば、最後には『私の主張方法が悪いのだろう』等の旨を述べて終了だと思うのですが…果たして上記のような主張が、人生経験豊富な、頑固な方に通用するのでしょうか^_^;)
また、通用しない相手に対しては、その後如何なる手法を用いるのでしょうか。
まさか、見捨てる訳ではないですよね^_^;)

>惣流さんの「真理とは成仏」というご発言の意味が、残念ながら…

言葉足らずでした。
真理に到達する事=成仏との意です。

>どのような意味で「三諦説の中道」ということをいわれているのかが不明…

前回も提示しましたように、『空仮不二にして中道=妙法』との意です。
Libraさん御提示の「中国天台における因果の思想」の方の三諦説です。
これは、空・仮はどちらも偏る事なく、強調されるのは中道です。
宗祖の三諦説も同様に、強調されるのは中道=妙法です。
しかし、Libraさんが主張する空とは、上記三諦説に聞こえないのです。

同じく御提示のもう一方『根本中論偈(三枝充悳訳)』の三諦説?。
これは、上記三諦説とは、似て非なるものではないでしょうか。
同じ三諦説?でも、仮よりも空が強調されています。
前者は、即空即仮即中ですが、後者は即空仮仮即中に聞こえます。
これは、宗祖が批判されている以下の空思想に当てはまるのではないでしょうか。

『大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は折空・或は体空・或は但空或は不但空・或は但中・不但中の理をばさとれどもいまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず、その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり、彼の経経の仏・菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず何に況や題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや(曾谷入道殿御返事1057)』

『大般若経に云く(中略)大日経第一に云く(中略)「所謂空性は根境を離れ無相にして境界無く諸の戯論に越えて虚空に等同なり乃至極無自性」(中略)此等の経文を法華経の已今当・六難・九易に相対すれば月に星をならべ九山に須弥を合せたるににたり、しかれども華厳宗の澄観・法相・三論・真言等の慈恩・嘉祥・弘法等の仏眼のごとくなる人・猶此の文にまどへり、何に況や盲眼のごとくなる当世の学者等・勝劣を弁うべしや、黒白のごとく・あきらかに須弥・芥子のごとくなる勝劣なを・まどへり・いはんや虚空のごとくなる理に迷わざるべしや(開目抄下221〜222)』

>その「自行化他行」の中身がまさに問題だということです。

自行とは、Libraさん御提示の「自らの立場を突破しつづける」という事でしょう。
化他行とは、他にも「自らの立場を突破しつづけ」させようと努力する事でしょう。

>少なくとも、「仏の境涯を開」いているといえるためには、「頑迷な心を捨て」ている必要があると思います。

仰る通りであると思います。
常に動執生疑を忘れる事なく、自身の壁を打破る努力が不可欠でしょう。

>私がやっていることも折伏(破折屈伏)だろうと思いますがちがいますでしょうか?

それは、Libraさんにしか、解らない事だと思いますm(_ _)m




惣流さんへ ( No.27 )
日時: 2002/10/25 19:46
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>26

> 即ち、全民衆の救済こそが、仏の誓願なのです。
> 《智慧による自己解放》だけでは、小乗ではないでしょうか?

 私は、《自分だけが成仏すればよい》などとは一言もいっていません。すべ
ての人が智慧によって自己解放できれば「全民衆の救済」が実現されるわけで
す。意図的なのかどうなのかわかりませんが、私のことを無理やりあるイメー
ジ(小乗教徒?)に閉じ込めようとされているという印象をうけます。ちなみ
に、私は、>>23において、以下のようにいっておきました。もしかしたら、惣
流さんは「自他を」という部分を読みとばされてしまったのかもしれませんね。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  仏教とは、《縁起・空・無我》の智慧によって、自他をさまざまな《呪縛》
  から解放していく運動であると私は理解しています。
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> では、心では『自説を肯定しようが否定しようが構わない』と思いつつも、
> 『恐らく私が間違っている』との姿勢で論争せよとの主張なのですね。

 全然ちがいます(笑)。《自分が間違っていて、相手が正しいという可能性
は常に大いにある》ということを強く自覚せよということです。そういう可能
性を常に自覚して、相手の批判的議論には喜んで耳を傾けよということです。
可謬主義です。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  合理主義とは喜んで批判的議論を傾聴し経験から学習する態度である、と
  いうことができよう。合理主義とは基本的には、「私は間違っているかも
  しれない、そしてあなたが正しいのかもしれない。そして努力すれば、わ
  れわれはより真理に接近しえよう」ということを承認する態度である。

  (K.R.ポパー著・小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』、
    未來社、1980年、pp. 207-208)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ポパーの倫理思想(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

> 同じく御提示のもう一方『根本中論偈(三枝充悳訳)』の三諦説?

 あれは中観派の《空》(=《縁起》)を説明するために引用したものです。
三諦説ではありません。文脈からあきらかだと思いますが(苦笑)。

> これは、上記三諦説とは、似て非なるものではないでしょうか。

 天台の三諦説というのは、龍樹の『中論』で説かれている理論を天台なりに
解釈して展開したものでしょう(笑)。「即空即仮即中」が『摩訶止観』で展
開されている理論だということは押さえられていますか?

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  文師用心一依釋論。論是龍樹所説。付法藏中第十三師。智者觀心論云。歸
  命龍樹師。驗知龍樹是高祖師也。
 
  文師の用心は一に釈論に依る。論は是れ竜樹の説く所にして、付法蔵の中
  の第十三の師なり。智者の『観心論』に云く、『竜樹師に帰命したてまつ
  る』と。験かに知る、竜樹は是れ高祖師なることを。

  (『摩訶止観』巻一上、同上、p. 1)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  稽首龍樹師。

  (『觀心論』、大正蔵第46巻、p. 585c)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> これは、宗祖が批判されている以下の空思想に当てはまるのではないでしょ
> うか。

 私がいう《空》というのは「但空」ではありません。このことはもう何度も
申し上げました。「即空即仮即中」の《空》です。惣流さんにとっては、『法
華経』に説かれる《空》も「但空」になってしまうのでしょうか。

  スレッド「仏教とはなにか」、No.7
  http://fallibilism.web.fc2.com/cgi-bin/patio/patio.cgi?mode=view2&f=9&no=7



Re: 掲示板を再開 ( No.28 )
日時: 2002/10/26 16:58
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>


>私は、《自分だけが成仏すればよい》などとは一言もいっていません。
>惣流さんは「自他を」という部分を読みとばされてしまったのかも…

そのようですね(^_^;、、、申し訳ありませんm(_ _)m
Libraさんが実践する、具体的救済策を御聞かせ頂けないでしょうか。

>全然ちがいます(笑)。《自分が間違っていて、相手が正しいという可能性は常に大いにある》ということを強く自覚せよということです。

ん、これは、動執生疑そのものであり、これであれば、私は違和感を感じなかったと思うのですが^_^;)
とは言え、前回も書いた通り、過ぎたる動執生疑は害になると思います。

『恐らく私が間違っているのであって、恐らく貴方が正しいのであろう』
と、、、
『私は間違っているかもしれない、そしてあなたが正しいのかもしれない』
とでは、可能性としての比率、及び対論姿勢が全然違います。
私が指摘しているのは、前文なのですよ。

また、前文が『あくまでも可謬主義の説明の文脈で読まれるべき文』であったとしても、後文があるにも関らず前文をポパーの言として掲載している事から、可謬主義の説明文としては不可欠な文章であると推測出来ます。

『恐らく私が間違っているのであって、恐らく貴方が正しいのであろう』
との文章から、何をどう読めば、、、
《自分が間違っていて、相手が正しいという可能性は常に大いにある》
と解釈出来るのかが、私には不思議でなりません。
上記文章を、Libraさんの言葉に即して訳せば、、、
『自分が間違っていて、相手が正しいという可能性は大である』でしょう。

何にせよ、誤解を招く文章である事は間違いないと思いますが、、、

>天台の三諦説というのは、龍樹の『中論』で説かれている理論を天台なりに解釈して展開したものでしょう(笑)。「即空即仮即中」が『摩訶止観』で展開されている理論だということは押さえられていますか?

全然知りませんでした、御教示有難う御座いますm(_ _)m
宗祖の御書を把握した暁には、天台を、更には竜樹をも勉強させて頂きます。
現在のところは、同じ大聖人門下として、御書の上から書かせて頂きます。

>惣流さんにとっては、『法華経』に説かれる《空》も「但空」になってしまうのでしょうか。

法華経には、空を強調する部分はありませんよね。
法華経は『諸法実相』を説いているのであって、その思想は中道でしょう。
法華経迹門に説かれる空とは、三諦説の空であり、強調されていません。
空法は方便と、経文内で示されています。
しかも、本門(後半十四品)に至っては唯の一度も出てきません。
故に宗祖は、一貫して『空思想』を批判しているのであると思います。

>意図的なのかどうなのかわかりませんが、私のことを無理やりあるイメージ(小乗教徒?)に閉じ込めようとされているという印象をうけます。

そのようなつもりはありません、それは私がLibraさんに懐いているイメージの一端(竜樹門下等)ではありますが、意図的に決定しようなどとは思っておりません。
私の文章表現の拙さのせいであり、お詫び致しますm(_ _)m
私的には、大聖人門下と名乗りながら、妙法(中道)を強調せず、大聖人が批判する『空』を強調しようとするLibraさんに、疑問を懐いているだけなのです。




即空即仮即中 ( No.29 )
日時: 2002/10/26 17:24
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>28

> Libraさんが実践する、具体的救済策を御聞かせ頂けないでしょうか。

 対話です。この掲示板もその具体的実践の一つです。

> 何にせよ、誤解を招く文章である事は間違いない

 いろんな人に当該資料を紹介しましたが、惣流さんのように解釈された方は
他にはおられませんでした。文脈から文意は明らかだろうと思います。惣流さ
んの誤解も晴れたようですし、この件についてはもうよろしいですね。

> 宗祖の御書を把握した暁には、天台を、更には竜樹をも勉強させて頂きます。

 結局、惣流さんは、「即空即仮即中」ということを理解されずに議論されて
いたということでしょうか。

> 空法は方便と、経文内で示されています。
> しかも、本門(後半十四品)に至っては唯の一度も出てきません。
> 故に宗祖は、一貫して『空思想』を批判しているのであると思います。

 ということは、惣流さんは、《究極的真実は中諦にのみあると見るべきであ
って、空諦も仮諦も究極的真実を示すものではない》とおっしゃりたいわけで
しょうか? 私は「三諦説でいっても、空から離れて中があるわけではありま
せん」(>>25)といっているわけですが、それを惣流さんは否定されるという
ことでよろしいのでしょうか。

> 私的には、大聖人門下と名乗りながら、妙法(中道)を強調せず、大聖人が
> 批判する『空』を強調しようとするLibraさんに、疑問を懐いているだけな
> のです。

 大聖人が批判されているのは「但空」でしょう。



Re: 掲示板を再開 ( No.30 )
日時: 2002/10/26 17:58
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>


>対話です。この掲示板もその具体的実践の一つです。

web上の対話で、現実に人を救う事が出来るのでしょうか?

>いろんな人に当該資料を紹介しましたが、惣流さんのように解釈された方は他にはおられませんでした。

ポパー哲学が誤解されやすい旨書かれていませんでしたでしょうか。

>結局、惣流さんは、「即空即仮即中」ということを理解されずに

上記解釈は、宗祖の御書を研鑽すれば身に付きます。

>惣流さんは、《究極的真実は中諦にのみあると見るべきであって、空諦も仮諦も究極的真実を示すものではない》とおっしゃりたいわけでしょうか? 

ん、そんな事は一言も言っておりませんよ。
私の指摘とは、三諦説では空仮中は皆真実であり、空・仮を強調する説ではなく、強調されるのであれば空ではなく中道(妙法)ではないかという事です。
Libraさんが言う空が中道であるのならば、中道を強調されればとの指摘です。
《縁起・空・無我》ではなく、『縁起・中道』を強調されるべきではないでしょうか。

>大聖人が批判されているのは「但空」でしょう。

大聖人が批判されているのは、小乗・大乗に関らず、三諦説以外の空です。

『大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は折空・或は体空・或は但空或は不但空・或は但中・不但中の理をばさとれどもいまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず、その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり、彼の経経の仏・菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず何に況や題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや(曾谷入道殿御返事1057)』

『大般若経に云く(中略)大日経第一に云く(中略)「所謂空性は根境を離れ無相にして境界無く諸の戯論に越えて虚空に等同なり乃至極無自性」(中略)此等の経文を法華経の已今当・六難・九易に相対すれば月に星をならべ九山に須弥を合せたるににたり、しかれども華厳宗の澄観・法相・三論・真言等の慈恩・嘉祥・弘法等の仏眼のごとくなる人・猶此の文にまどへり、何に況や盲眼のごとくなる当世の学者等・勝劣を弁うべしや、黒白のごとく・あきらかに須弥・芥子のごとくなる勝劣なを・まどへり・いはんや虚空のごとくなる理に迷わざるべしや(開目抄下221〜222)』



円融三諦 ( No.31 )
日時: 2002/10/26 19:12
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>30

> web上の対話で、現実に人を救う事が出来るのでしょうか?

 出きると思います。言葉に力がありさえすれば。逆に、言葉に力がない場合
には、たとえ対面での対話であっても「人を救う事」などできないでしょう。

> ポパー哲学が誤解されやすい旨書かれていませんでしたでしょうか。

 ポパー哲学はたしかに誤解されやすいと思いますが(例えば、小河原誠編
『批判と挑戦──ポパー哲学の継承と発展にむけて』〔未來社、2000年〕を参
照)、その場合の誤解というのは、惣流さんの今回の誤解とは中身が異なりま
す。

> 私の指摘とは、三諦説では空仮中は皆真実であり、空・仮を強調する説では
> なく、強調されるのであれば空ではなく中道(妙法)ではないかという事で
> す。

 思想を表現する際にどういう言葉を選択するかというのは本質的な問題では
ないでしょう。大切なのは、それによって表現されるところの思想の中身だと
思います。
 天台大師は、『中論』の「衆の因縁生の法は我即ち是れ無なりと説く。亦是
れ仮名と名づく。亦是れ中道義なり」の文を根拠にして三諦説を作ったわけで
す。私がいうところの《空》の説明として引用した文がまさにそれです。この
点は理解されましたか。惣流さんは、ご自分では、「即空即仮即中」を理解し
ているといわれていますが、天台大師自身が「即空即仮即中」と解釈した文を
見て、惣流さんは「似て非なるもの」だといわれているわけです(>>26)。こ
うなってくると、正直言って、惣流さんは「即空即仮即中」(円融三諦説)の
中身を本当に理解されているのだろうかと疑問に思わざるを得ません。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と
  説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすな
  わち、中道そのものである。

  (『根本中論偈』第二十四章第十八偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグ
    ルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   18衆因縁生法 我れ即ち是れ無[1]と説く
    亦た是れ仮名と為す 亦た是れ中道の義なり

  (漢訳『中論』第二十四章第十八偈、同上、p. 650)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  (1) この「無」はサンスクリットに s'u ̄nyata ̄ とあり「空(性)」
    とあるべきもの。つぎの長行冒頭には「空」、また燈論偈(漢訳)も
    「空」となっている。中観論疏(吉蔵)をはじめ、中国仏教者はみな
    「空」と読む。そのうえ、この第18偈は「空仮中」の三諦偈と呼ばれ
    て、中論のなかで最も名高い。

  (三枝充悳による註、同上、p. 651)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  故中論云。因縁所生法即空即假即中。

  (『摩訶止觀』巻第三上、大正蔵第46巻、p. 25b)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 《縁起・空・無我》ではなく、『縁起・中道』を強調されるべきではないで
> しょうか。

 内容的には全く同じです。

> 大聖人が批判されているのは、小乗・大乗に関らず、三諦説以外の空です。

 大聖人が批判されているのは「但空」のことでしょう。むしろ、惣流さんが
このように必死になって空を否定しようとされているのを見ていると、惣流さ
んがいわれているところの「中道」というのは、実は「但中」なのではないか
という印象すら持ちます。

  ─────────────────────────────────
  別教の三諦は、但空・但仮・但中として互いに隔たりがあり、融和するこ
  とがない。また修行において、初めに空を観じて見思惑を破し、次に仮を
  観じて塵沙惑を破し、更に中道を観じて無明惑を破すという段階的な方法
  を取り、順に歴ていくことが求められる。それ故、隔歴の三諦という。こ
  れに対し、円教の三諦は三諦のそれぞれが他の二諦を踏まえたものであり、
  三諦は常に「即空・即仮・即中」の関係にある。究極的真実を中諦にのみ
  見るのではなく、空諦も仮諦も究極的真実を示すものである。したがって、
  一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融三諦という。

  (『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 593)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  隔歴三諦とは、空・仮・中が相互に隔別した別箇の原理として区別される
  場合をいう。中の原理に達するためには、空仮の原理を経過しなければな
  らないが、ひとたび中の原理に達してしまえば、空仮の原理は捨遣さるべ
  きものとされる。しかるに円融三諦説では、これら三諦がそれぞれ自己の
  中に、他の二諦を本具すると考えるので、三諦はつねに即空即仮即中であ
  り、その本質において一体であるというのである。

  (安藤俊雄『天台学 根本思想とその展開』、平楽寺書店、1968年、
    pp. 116-117)
  ─────────────────────────────────



Re: 掲示板を再開 ( No.32 )
日時: 2002/10/30 19:37
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>

>出きると思います。言葉に力がありさえすれば。

釈尊・宗祖の現場主義とは少々外れるように思いますが、、、
新たな分野の開拓ですね、頑張って挑戦して下さい。
数年後を楽しみにしておきます。

>惣流さんの今回の誤解とは中身が異なります。

そうですか、確か、、、『消極的ではないかとの誤解』等の旨が書かれていたように思いましたが、私の勘違いだったのかも知れませんね。
この件も、終了ですね。

>天台大師自身が「即空即仮即中」と解釈した文を見て、惣流さんは「似て非なるもの」だといわれているわけです。

ん?前々回Libraさん御自身が言っていた事に矛盾しませんか?
―――――――――――――――――――――――――――――
 あれは中観派の《空》(=《縁起》)を説明するために引用したものです。
三諦説ではありません。文脈からあきらかだと思いますが(苦笑)。
―――――――――――――――――――――――――――――

>こうなってくると、正直言って、惣流さんは「即空即仮即中」(円融三諦説)の中身を本当に理解されているのだろうかと疑問に思わざるを得ません。

これは御指摘の通りかも知れませんね^_^;)
語句を見て、恐らく『三諦即一』の事であろうと理解していました。
前々回指摘の際の、もう一方の御提示の説ですね。
間違っていれば、御指摘下さいm(_ _)m

>内容的には全く同じです。

私の文章を読まれていますか?
簡単に言えば、法華経を依経とするのであれば、般若経典から導き出される『縁起・空・無我』を表に出さずに、『妙法・諸法実相』を謳うべきではとの提言なのです。

>大聖人が批判されているのは「但空」のことでしょう。

これは、私の誤解かも知れませんので、誤りであれば御指摘下さい。
私が二度に渡り提示した御書には、、、
『大日経・方等・般若経』『大般若経に云く(中略)大日経第一に云く(中略)』
とあるように、般若経が明確に挙げられています。
この中には、般若経典の一部である般若心経が含まれる事も理解出来ます。
その般若心経とは、竜樹の中論を訳したものではないのでしょうか?
であれば、大聖人が批判する『空』とは、『但空』に留まらず、『中観派の空』をも一括りに批判されているものとは考えられないでしょうか?

私は、釈迦仏教に関しては大変疎く、特に竜樹については殆ど一切の智識がありませんので、私の不理解が原因であれば、御指摘下さいm(_ _)m



Re: 掲示板を再開 ( No.33 )
日時: 2002/10/30 22:03
名前: さかなこ@みっふぃー本仏論者


横レス失礼しまーす♪♪

惣流さんこんにちは!!はじめまして。学会3世のさかなこと申します。よろしくおねがいしまーす♪♪

>web上の対話で、現実に人を救う事が出来るのでしょうか?

ということですが。。私は実際Libra師匠に救われました(笑)
Libraさんとネット上でお会いしたのは一年以上前の話に
なりますが。。あ、2年まえかも。。(笑)
そのときの印象ですが「捜し求めてきた師匠を見つけた!!」って感じで本当に感動したものです。
それ以来ずーっとストーカーを続けてます(笑)
Libraさんが教えてくれた「縁起」という考え方。
「呪縛からの開放」という言葉は本当に私の人生そのものを変えてくれたのです。

おかげで鬱も治りましたし、宿命のように悪かった(笑)男運もよくなったようです。。(?)
今は本当に楽しくて落ち着いた日々を過ごしてます。

でもネットって本当にあなどれないと思いますよ。Libra師匠に限らず私はネット上で救いになるような人に沢山会って実際会いに行った事もありますし、いじめや同じ悩み苦しみなどを抱える掲示板などで自殺を思いとどまったような人だって沢山いるのではないでしょうか?

あまりにもお手軽なため軽視されやすいですがネットって今一番、人間を救ってるツールのような気がします。使い方を間違えればその逆になってしまう場合も沢山ありますから注意は必要ですけどね。



惣流さんへ(質問) ( No.35 )
日時: 2002/10/30 23:23
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>32

> 語句を見て、恐らく『三諦即一』の事であろうと理解していました。
> 前々回指摘の際の、もう一方の御提示の説ですね。

 この部分は意味が分かりませんでした。「もう一方の御提示の説」とはどの説
のことでしょうか。



惣流さんへ ( No.36 )
日時: 2002/10/30 23:34
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/

>>32 

> > 天台大師自身が「即空即仮即中」と解釈した文を見て、惣流さんは「似て
> > 非なるもの」だといわれているわけです。
>
> ん?前々回Libraさん御自身が言っていた事に矛盾しませんか?
> ―――――――――――――――――――――――――――――
>  あれは中観派の《空》(=《縁起》)を説明するために引用したものです。
> 三諦説ではありません。文脈からあきらかだと思いますが(苦笑)。
> ―――――――――――――――――――――――――――――

 その直後に、
  
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   天台の三諦説というのは、龍樹の『中論』で説かれている理論を天台な
  りに解釈して展開したものでしょう(笑)。

  (>>27)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

といっておきましたが、この部分は読み飛ばされてしまったのでしょうね。そ
もそも、その前の投稿で、私は、

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   惣流さんがどのような意味で「三諦説の中道」ということをいわれてい
  るのかが不明ですが、私がいう《空》というのは、中観派でいわれる《空》
  です。三諦説でいえば、「即空即仮即中」ですね。

  (>>25)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

といっています。

 とにかく、天台自身は、私が引用した『中論』の偈を「即空即仮即中」と解
釈しているのです。それなのに、惣流さんは、同じ『中論』の偈を見て、「即
空即仮即中」とは「似て非なるもの」だといわれているわけです。ということ
は、結局、惣流さんは、天台の《円融三諦(即空即仮即中)》の中身を理解さ
れていないということでしょう。

> 簡単に言えば、法華経を依経とするのであれば、般若経典から導き出される
> 『縁起・空・無我』を表に出さずに、『妙法・諸法実相』を謳うべきではと
> の提言なのです。

 私は『法華経』の「諸法実相」の内実を《円融三諦》と理解しています。そ
して、私がいうところの《空》も同じ内容です。天台自身がいっているように、
《円融三諦(即空即仮即中)》は、内容的には『中論』の《空》と同じなので
すから。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  しかし、その「諸法の実相」の内実については、少なくとも『法華経』の
  表面には説かれていない。そこで、智■〔豈+頁〕は独自に「諸法の実相」
  の内実を考究し、それを、以下に述べる円融三諦や一念三千説として表現
  したのである。

  (菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、
    2001年、p. 147)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 また、前にも申し上げたとおり、『法華経』においても《空》は説かれてい
ます。あと、「諸法実相」という訳語は、『法華経』だけに使われているわけ
ではありません。

> その般若心経とは、竜樹の中論を訳したものではないのでしょうか?

 『般若心経』は『般若心経』です。



Re: 掲示板を再開 ( No.37 )
日時: 2002/10/31 01:44
名前: 真フィン



>web上の対話で、現実に人を救う事が出来るのでしょうか?

さかなこさんも書いていたけど、私自身も意見。
Libraの古くからの友人として、私もネット初心者のとき、同じ質問をしたことがあります(苦笑)。

そのときは、「ネットだけでなく、現実も見ろ」なんて言ってたんですけど、今は「ネットも一つのコミュニケーションツールであり、現実に向けて発信できる」という考え方。
確かに、「ネットは虚構」って考えもあるけれど、メールや掲示板などで真摯に考える人も多いです。ネットで人が救えないなら、「大聖人のお手紙」や「池田先生の同中」も直接の激励じゃないから、人を救えない、ということになります。

確かに、自分の地元で活動に励むことで、友人や同志の悩みを聞いたり、いっしょに題目をあげることも大切でしょう。しかし、今の時代、それだけが対話ではないと思います。

要は、道具が良いか悪いかではなく、それをどう使うかだと考えます。ネットにもできること、できないことはあるでしょうが、真剣に思索しながら対話できる道具として、その可能性を暗に否定するのもどうでしょうか。

ただし、ネットの論争は、現実よりも過激になる傾向はありますね。で、過激さが目立つのは、アンチ学会員ではなくて、より仏道修行をしているはずの学会員(自称活動家)だというのが困りもの。
ある意味、顔が見えないからこそ、なおさら相手に対する礼儀や自律的な態度が文章に直接、反映される場所がネットだとも考えられます。

最後に、私としては、ネットを過小評価も過大評価もすることなく、今の自分にできる形で利用できればなあ、と思ってます。

「人は自分にできることをするしかない。ただ、目標だけは少し高く持って、成長を志すべき」



Re: 掲示板を再開 ( No.38 )
日時: 2002/10/31 20:25
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>


「もう一方の御提示の説」とは、、、
「即空即仮即中」の語を含む「中国天台における因果の思想」の事です。
Libraさん御自身が『三諦説ではありません。』と言われた説ではなく、もう一方との意です。
解り辛い表現で、申し訳ありませんm(_ _)m

>といっておきましたが、この部分は読み飛ばされてしまったのでしょうね。

私の指摘と何か関係があるのでしょうか?
先ず私が両説を読んだ感想が、「似て非なるもの」であった訳です。
上記私の感想を受けて、Libraさん御自身が、、、
―――――――――――――――――――――――――――――
あれは中観派の《空》(=《縁起》)を説明するために引用したものです。
三諦説ではありません。文脈からあきらかだと思いますが(苦笑)。
―――――――――――――――――――――――――――――
と、嘲笑とも取れる文章を書き残されているのです。

そのLibraさんが、今度は、、、
―――――――――――――――――――――――――――――
惣流さんは、同じ『中論』の偈を見て、「即空即仮即中」とは
「似て非なるもの」だといわれているわけです。
―――――――――――――――――――――――――――――
と、切り返されている事に論理矛盾を指摘しているのです。

明らかに私より詳しいLibraさん御自身が『三諦説ではありません。』と言われた文章を読み、三諦説と「似て非なるもの」と解釈した私に、『それはおかしい』と投げかける論理矛盾に対してです。
この点の釈明に於いて問題となるのは、『三諦説ではありません。』との言でしょう。
この言が正当化されない限り、如何なる釈明も意味を持たないと思うのです。

しかし、何より当該議論で不審に思う事は、、、
失礼ではありますが、可謬主義を訴えるLibraさん御自身が、可謬主義に立たれているのかという疑問です。

>結局、惣流さんは、天台の《円融三諦(即空即仮即中)》の中身を理解されていないということでしょう。

この点については、既に前回弁明及び先立っての謝罪を表明しているのですが、、、また、当該箇所に於いてLibraさんが私に質問をされているにも関らず、しかも此方の返答前に再度主張される事は、非礼ではないのでしょうか、、、可謬主義とは、礼儀は弁えないものなのでしょうか。

>私は『法華経』の「諸法実相」の内実を《円融三諦》と理解しています。

宗祖は、『諸法実相』に於ける天台解釈の中では『一念三千』は採用されても『円融三諦』は採用されていませんが、この点については如何御考えでしょうか。

>前にも申し上げたとおり、『法華経』においても《空》は説かれています。
>「諸法実相」という訳語は、『法華経』だけに使われているわけではありません。

私の提言に対する御返答としては、聊か曖昧さを感じます。
もう少し強調して提言致します。
『縁起・空・無我』という一連の語句は、般若経典を依経とする宗派に多く見られます。
大聖人門下として、般若経典より法華経の方が優れているとの御心が少しでもおありならば、『妙法・諸法実相』を謳うべきではないのでしょうか。
法華経(宗祖)<般若経典(竜樹)と御考えであれば、最早何も言いません。

>『般若心経』は『般若心経』です。

これは失礼しました、御指摘有難う御座いますm(_ _)m
改めて質問致します。
般若経典の空と中観派の空には如何なる違いがあるのでしょうか。
どうか御教示下さいm(_ _)m



Re: 掲示板を再開 ( No.39 )
日時: 2002/10/31 20:26
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>



さかなこさん、真フィンさん、初めましてm(_ _)m

さかなこさん、貴重な御話を有難う御座いましたm(_ _)m

ネット対話が有意義である事は、理解しています。
何を隠そう私自身が、数人と有意義な対話を継続しています。
唯、Libraさんの折伏姿勢を御聞きしたかっただけなのです^_^;)
ネットの重要性の証明は、私の課題でもあるのですよ♪

唯、やはり、ネットを中心に活動するにしても、先ず身近な人達に手を差し伸べてからではないかとの懸念はあります。
この辺りの事も、お聞きしたかったのです。

お二人の貴重な提言を、有難く頂戴致しますm(_ _)m
以後も、どうか宜しく御願い致しますm(_ _)m



惣流さんへ ( No.40 )
日時: 2002/10/31 22:08
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>38

 私が「三諦説ではありません」といったことが、結果的に、惣流さんに誤解
を与えてしまったようですね。その点は申し訳なく思います。ですが、私は、
一貫して、天台の円融三諦説と、私が引用した龍樹の偈を同じ内容のものだと
主張してきました。そのことは、前回「読み飛ばされてしまった」として示し
た、前後の文脈から明らかだと思います。いずれにせよ、この部分の誤解はす
でに晴れたと思いますので、本題についての議論を進めましょう。

> 「もう一方の御提示の説」とは、、、
> 「即空即仮即中」の語を含む「中国天台における因果の思想」の事です。

 要するに、天台の円融三諦説のことですね。私が引用した龍樹の偈とその天
台の円融三諦説というのは、「似て非なるもの」などではなく、内容的には同
じであるということは理解されましたでしょうか。それを理解されていないの
であれば、天台の円融三諦説を理解しているとはいえないと思います。つまり、
惣流さんが「三諦説の中道」(>>24)といわれるところの「三諦説」というの
は、天台の円融三諦説とは別の何かだということになります。

> 宗祖は、『諸法実相』に於ける天台解釈の中では『一念三千』は採用されて
> も『円融三諦』は採用されていませんが、この点については如何御考えでし
> ょうか。
 
 《円融三諦》と《一念三千》というのは、それぞれ別の原理なのではありま
せん。「諸法の真実の様相」は《即空即仮即中(円融三諦)》です。しかし、
「諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身
の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたもの」
が「一念三千」です。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の
  下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から
  自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明ら
  かにしたものである。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 『縁起・空・無我』という一連の語句は、般若経典を依経とする宗派に多く
> 見られます。

 ですから、何度も申し上げていますように、『法華経』にも《空》は説かれ
ているのです。《空》をいうからといって、ただちに「般若経典を依経とする
宗派」ということにはならないのです。それは惣流さんの思い込みにすぎない
のです。

> 大聖人門下として、般若経典より法華経の方が優れているとの御心が少しで
> もおありならば、『妙法・諸法実相』を謳うべきではないのでしょうか。

 ですから、「諸法実相」という訳語は、『法華経』以外にも使われているの
です。般若経にもあるのです。《諸法実相》をいうからといって、ただちに
「法華経を依経とする宗派」ということにはならないのです。

> 法華経(宗祖)<般若経典(竜樹)と御考えであれば、最早何も言いません。

 般若経には法開会だけがあって人開会がないので「行布を存するが故に」権
大乗ですね。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せ
  ず

  (「一代聖教大意」、全集、p. 396)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きか
  くさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍
  お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故
  に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代
  の綱骨・一切経の心髄なり

  (「開目抄上」、全集、p. 197)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 般若経典の空と中観派の空には如何なる違いがあるのでしょうか。

 私がいうところの《空》というのは、龍樹がいう《空》です。そして、同じ
内容を天台は円融三諦説として展開しています。今は、そのことさえ押さえて
いただければよろしいのではないでしょうか。どうしても気になるといわれる
のであれば、ご自分で般若経を研究されてみてはいかがでしょうか。宗祖も、
「法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり」と
いわれていますので(「一代聖教大意」、全集、p. 397)。



Re: 掲示板を再開 ( No.41 )
日時: 2002/10/31 22:24
名前: さかなこ@みっふぃー本仏論者


惣流さま>

>唯、Libraさんの折伏姿勢を御聞きしたかっただけなのです^_^;)

なるほど。誤解しました。すまんにょですm(__)m

>唯、やはり、ネットを中心に活動するにしても、先ず身近な人達に手を差し伸べてからではないかとの懸念はあります。

それは同意です。ネット上だけでいくら良い事を言っても実生活での態度がそれに沿っていなければ仕方ないですものね。
身近な人達を大事にすることも平行してなければ中身がないも同然ですしね。

>ネットの重要性の証明は、私の課題でもあるのですよ♪

そうですね〜。私もそう思います。ネットってまだまだ新しいツールなのにすごく便利だからつい使いこなしてる気になっちゃいますが実はネットに使われてるだけなのかもしれませんしねー(笑)



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