《対話主義と可謬主義》

 
《対話主義と可謬主義》
日時: 2002/10/30 22:45
名前: Leo   <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



学会では「対話」が重視されます。対話にあたって問題となりそうな正当化主義、
対話を成立させる上で重要と思われる可謬主義などについて意見交換をお願いします。
 


Re: 《対話主義と可謬主義》 ( No.1 )
日時: 2002/10/31 21:40
名前: 顕正居士



正当化 justification は根拠を示して意見を主張することです。
可謬性 fallibility はいかなる知識も誤まっている可能性があることです。

真偽を決定できない言明は意味を有さない。命令文や情緒文には真偽はないが
陳述文には真偽を決定できる可能性がなければならない。では正当化の可能性
の有無とこれを言い換えられるだろうか?

「銀色のカラスが存在する」
という言明は正当化可能です。一羽でも見つければよいから。しかし、

「あらゆるカラスは黒い」
という言明は正当化不可能です。黒くないカラスが見つかる可能性はいつまで
もあるから。

詭弁には意味があり、知識には意味がないということになる。反対に、
正当化可能性ではなく、反駁可能性が陳述文の要件であることにすれば、
「銀色のカラスが存在する」は反駁可能でないから無意味、
「あらゆるカラスは黒い」は反駁可能だから有意味となる。

可謬性 fallibility は経験的帰納法に係わる概念であり、我かならずしも
賢にあらず、彼必ずしも愚にあらず、という倫理的いましめではありません。
 

Re: 《対話主義と可謬主義》 ( No.2 )
日時: 2002/10/31 23:18
名前: 顕正居士



行為の正邪を何らかの信念体系に照合して決定することも正当化という。
信念体系は言明の真偽を決定しない。この体系は命令文の集まりである。
諸科学は言明の真偽を決定する際に照合される陳述文の集まりであるから、
行為の正邪を決定しない。倫理、法律など命令文の体系も、ある命令文から
別の命令文を導く方法に関する部分は陳述文の集まりであるから倫理学、
法学という科学である。文芸や宗教は情緒文の体系であるが、鑑賞、製作、
修道のための学問は美学、神学という科学である。科学の体系の中で
自然科学のそれは扱う対象に地域差がないので、最も普遍的な体系である。
イスラーム諸国の物理学の教科書がわれわれと異なることはないのである。

ゆえに言明の真偽の決定に関する議論は万人の間で可能である。命令文から
命令文を導く、情緒文から情緒文を導く作業そのものは真偽の決定だから。
アメリカの著作権法の運用に関する議論に日本人が参加することはできる。
聖母信仰に関するキリスト教徒の議論に仏教徒が参加することはできる。
これらは他の参加者と同等以上の知識があればみな可能である。

「対話」は「諸宗教間の対話」、「日米政府間の対話」のようにつかわれる。
したがって対話 dialogue とは議論 discussion がまだ可能でない間柄で、
やがては議論 discussion が可能になるほどに、親しくなる為の知識の交換
であるとも定義できる。互いに知識を共有した暁には議論は可能であるから。
 

 正当化の問題&ポパーの立場(非正当化主義) ( No.3 )
日時: 2002/10/31 23:48
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>1 顕正居士さん

 掲示板の趣旨からズレてしまうかもしれないので少し怖いのですが、コメン
トしてみます。

> 正当化 justification は根拠を示して意見を主張することです。

 正当化の問題およびポパーの立場(非正当化主義)については、以下を参照
していただければ幸いです。

  ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/109.html

  ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
  http://fallibilism.web.fc2.com/114.html

> 「銀色のカラスが存在する」という言明は正当化可能です。一羽でも見つけ
> ればよいから。

 その場合でも、観察言明それ自体は正当化されないと思います。「観察の理
論負荷性」もあります。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  今日の科学哲学者のほとんどすべては、いわゆる観察の理論負荷性のテー
  ゼを信じている。つまり、観察は、背後になんらかの理論──観察者がど
  の程度自覚的であるか否かはどうでもよい──を背負っており、したがっ
  ていかなる理論からも解き放たれた「中立的な」観察などありえないとい
  うテーゼである。(中略)このテーゼは簡単に言えば、証拠というものは、
  すでに解釈されたものであるということである。

  (小河原誠「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」、
    ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、
      未來社、2001年、p. 20)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 正当化可能性ではなく、反駁可能性が陳述文の要件であることにすれば、
> 「銀色のカラスが存在する」は反駁可能でないから無意味、
> 「あらゆるカラスは黒い」は反駁可能だから有意味となる。

 ポパーの反証可能性の理論は、「意味の基準ではなく、科学とその類似物と
を区別する方法」を提示するものだと思います。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 
    ポパーはウィーン学団のメンバーでは決してなかったのではあるが、
    緊密なコンタクトは保っていたのであり、そして彼の「論駁可能性の
    テーゼ」は、しばしば──たとえば、カルナップによって──検証主
    義的な意味の理論の修正版として解釈されてきた。彼は、「ちがう。
    原理上の検証可能性ではなく、原理上の論駁可能性が有意味性のテス
    トである」と言っているものとして読まれていたわけである。しかし
    ながら、実際には、ポパーは「意味の問題」は真の重要性をもつこと
    はないのであって、「有意味性の規準(criterion of significance)」
    を見つけようとする実証主義者の試みは、なんら肯定的な成果を産み
    出さないばかりか、まったく恣意的な規約の制定に到るだけだと考え
    ていたのである。彼の念頭にあった論駁可能性は、意味の規準ではな
    く、科学とその類似物を区別する方法なのである[2]。

   パスモアからの引用文は、「有意味性の規準」にかんする問題と「境界
  設定の基準」にかんする問題が英語圏にあっても六〇年代のころまで混同
  されていたことを証拠立てている[3]。しかしながら、日本においては、
  こうした「混同」や「境界設定の規準」そのものにかんする誤解は長く尾
  をひいたように思われる。

  (小河原誠「ポパー受容史に見られる歪みについて」、
    小河原誠編『批判と挑戦──ポパー哲学の継承と発展にむけて』、
    未來社、2000年、pp. 18-19)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  (2)John Passmore, A Hundred Years of Philosophy, Penguin Books,
  second edition, 1966, p. 406f. 第一版は一九五七年。「第二版への序」
  を見ると、第二版ではポパーについて相当の加筆があったようである。す
  ると、第一版との相違点が関心をひくが、筆者は、第一版は未見。
  (3)反証可能性の規準を有意味性の規準と見なした場合と、境界設定規
  準と見なした場合の相違点については、ポパー自身がコメントをつけてい
  る。『科学的発見の論理』第二一節注*1を参照されたい。

  (同上、p. 71)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 可謬性 fallibility は経験的帰納法に係わる概念であり、我かならずしも
> 賢にあらず、彼必ずしも愚にあらず、という倫理的いましめではありません。

 可謬主義というのはたしかに認識論に係わる概念といえるでしょうが、ポパ
ーの場合には倫理と一体になっています。

  ポパーの倫理思想(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

 私はポパーの考えに共感をおぼえ、以下のようなものを書きました。

  対話主義と可謬主義
  http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html



 Re: 《対話主義と可謬主義》 ( No.4 )
日時: 2002/11/01 01:42
名前: 顕正居士



>掲示板の趣旨からズレてしまうかもしれない
ズレています。創価学会と関係がありません。

>その場合でも、観察言明それ自体は正当化されないと思います。
???????。わたしは正当化可能性でなく、反駁可能性が陳述文の意味である
というKarl Popperの意見に賛成を云うためにこれを書いたのであるが。

>可謬主義というのはたしかに認識論に係わる概念といえるでしょうが、
>ポパーの場合には倫理と一体になっています。
陳述文から命令文を導くことはできない。

○わたしは誰が何を云って、あ〜だこ〜だには関心がありません。認識論から
実践論を導出することはできない。Popperがもし云ったなら、ただの間違い。
 

 顕正居士さんへ ( No.5 )
日時: 2002/11/01 01:52
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>4 顕正居士さん

> >掲示板の趣旨からズレてしまうかもしれない
> ズレています。創価学会と関係がありません。

 そうですね(笑)。

> Karl Popperの意見に賛成を云うためにこれを書いたのであるが。

 顕正居士さんがポパーの意見に賛成の立場から書かれたというのは、いくら
私でも分かりました(汗)。

 あとは読者の方々に判断をおまかせします。
 

 Re: 《対話主義と可謬主義》 ( No.6 )
日時: 2002/11/02 01:55
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



創価学会と批判的合理主義は元来なんら関係がないと思います。しかし、創価学会の
問題点を捉え、それをよくしていくには、批判的合理主義の考え方は有効な武器
のひとつとなるのではないでしょうか。(創価学会の運動は正当化主義の
ひとつのケースである)
また、Libraさんは批判的合理主義と仏教が矛盾しないような方向性を示していると
思います。
 

 Re: 《対話主義と可謬主義》 ( No.7 )
日時: 2002/11/02 05:35
名前: 顕正居士



1.It(=Cartesianism) teaches that philosophy must begin with universal
doubt; whereas scholasticism had never questioned fundamentals.
2. It teaches that the ultimate test of certainty is to be found in
the individual consciousness; whereas scholasticism had rested on the
testimony of sages and of the Catholic Church.

"Some Consequences of Four Incapacities" by Charles S.Pierce
http://www.peirce.org/writings/p27.html

Karl Popperの批判的合理主義の先駆者とされるC.S.PierceはCartesianismと
Scholasticismを上のように対比しています。JustificationismとAnti-
Justificationismという用語の由来であるとすら云い得る。しかし科学は
建設者たちの古典を信仰しているのではなく、日々書き改められる体系で
ある。ゆえにPierceは下に
"Philosophy ought to imitate the successful sciences in its methods"
という。科学において"Justification"は中心的の要素である。科学の体系に
中立な、はだかの観察や実験が存在し得ないからである。反正当化主義は
「進歩を妨げない唯一の原理は、なんでもかまわない」(Feyerabend)へ
発展し、科学とトンデモの境界をぼやかし、元来の趣旨の反対に転化し得る。
『ケーススタディ・リサーチの現状と課題』
http://www.s-shibuya.com/papers/houhouron/casestudy.html
宗教には今日でも中世的思惟方法が残存し、カルトと呼ばれる教団には顕著
であると考えるひともいよう。わたしはそれらに顕著なのは恣意性であり、
無秩序であり、中世的思惟方法とも似ていないと考える。しかし反証可能性
の基準は宗教の言明にいっそうの光りをあてる。"God do not exist."を
証明できぬゆえ、これは陳述文でないという人がいる。反証可能性を基準に
すれば、"God do not exist."を反証する現象は容易に想像できるゆえ、この
文は陳述文である。
 

 Re: 《対話主義と可謬主義》 ( No.8 )
日時: 2002/11/02 11:31
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>7 顕正居士さん

> 反正当化主義は「進歩を妨げない唯一の原理は、なんでもかまわない」(Feyerabend)
> へ発展し、科学とトンデモの境界をぼやかし、元来の趣旨の反対に転化し得る。

 とても重要なご指摘だと思いました。ポパーの《非正当化主義》は《反証主義》とセッ
トで主張されていますので、《われわれは正当化も反証もなにもなしえないので、なんで
もかまわない》というのとは違うわけですが、気をつけて説明しないとそのように誤解さ
れてしまう可能性があると思います。私も気をつけたいと思います。

> 宗教には今日でも中世的思惟方法が残存し、カルトと呼ばれる教団には顕著であると考
> えるひともいよう。わたしはそれらに顕著なのは恣意性であり、無秩序であり、中世的
> 思惟方法とも似ていないと考える。

 ポパーは「現代の非合理主義の主要構成要素のひとつ」であるとして《相対主義》を批
判していますが、これは顕正居士さんの上のお考えに通じるものであると私は理解してい
ます。相対主義の問題については、小河原先生のお考えも参考になると思いますので紹介
させていただきます(関心がない方には申し訳ないのですが)。

  相対主義批判(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/039.html
 

 Re: 《対話主義と可謬主義》 ( No.9 )
日時: 2002/11/02 11:55
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>7

 私は、澁谷覚『ケーススタディ・リサーチの現状と課題』の「批判的合理主義」理解は
正確ではないと思います。よくある誤解だと思います。ですが、それを議論しだすとこの
掲示板の趣旨から完全にズレてしまいますのでここではやりません。「よくある誤解」に
ついて関心をもたれた方には、小河原誠編『批判と挑戦──ポパー哲学の継承と発展にむ
けて』(未來社、2000年)を読まれることをお勧めしておきます。



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