《日蓮本仏論》再考

 
《日蓮本仏論》再考
日時: 2002/10/28 23:38
名前: Libra(管理人)   <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



 このスレッドでは、創価学会が主張している《日蓮本仏論》の問題点につい
て考えていきたいと思います。
 
 まず、「本仏」という語の意味をどのように理解すべきかということがまさ
に問題になるだろうと思います。問題なく日蓮の真作であると考えてよい御書
(真蹟が現存する御書・真蹟の曽存が確認されている御書・直弟子などの手に
よる古い写本が現存する御書)の中に「本仏」という語が見られるのであれば、
そこでつかわれている通りの意味で理解すればよいわけですが、私が知る限り
では、そういう御書の中では「本仏」という語は一度もつかわれていません。

 以下では、《日蓮が「本仏」という語をつかったかどうか、仮につかったと
して、どういう意味でつかったのか》ということを考えるのではなくて、《創
価学会が「日蓮が本仏である」と主張する際に、どういう意味で「本仏」とい
う語をつかっているのか、日蓮自身の思想から見て、そのようにいうことが果
して可能なのか》ということを問題にしていきたいと思います。

 創価学会が「日蓮が本仏である」と主張する際につかっている「本仏」とい
う語は、おそらく、《事実として最初に存在した仏、師弟関係の連鎖の中の原
点に位置付けられる仏》という意味でつかわれているのだと思います。また、
これとは別の意味で「本仏」という語がつかわれることがありますので注意が
必要だと思います。例えば、松戸行雄先生は《凡夫本仏論》を主張されていま
すが、そこでは「本仏」という語が《事実として存在できる本物の仏》という
意味でつかわれています。

  本仏と真仏(libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z022.html

 さて、創価学会は「日蓮大聖人の仏法においては、日蓮大聖人が」「三世十
方の権迹の仏を出生する根本の仏」であり、「五百塵点劫成道の仏も迹仏」で
あると主張しているわけですが、私にはこのような主張が成り立つとはとても
思えません。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ほんぶつ【本仏】 三世十方の権迹の仏を出生する根本の仏のこと。迹仏
   に対する語。法華経の文上の立場では、寿量品に明かされた五百塵点劫
   本果第一番成道の仏が本仏である。日蓮大聖人の仏法においては、日蓮
   大聖人が本仏であり、これに対すると、五百塵点劫成道の仏も迹仏とな
   る。

  (『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 1568)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

 創価学会では偽書とされていない「三大秘法抄」によれば、日蓮は「地涌千
界の上首」ということになります。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大
  覚世尊より口決相承せしなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「三大秘法抄」は偽書であると主張する学者も多いわけですが、保田妙本寺
に真蹟が所蔵されている文永十一年十二月図顕の大曼荼羅(通称「万年救護御
本尊」)には、「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三ヶ国
之間未有此大本尊 或知不弘之或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後
五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」という日蓮自筆の讃文があり(『山中
喜八著作選集T 日蓮聖人真蹟の世界 上』、雄山閣出版、1992年、pp. 58-
59)、そこでは「後ノ五百歳ノ時、上行菩薩、世ニ出現シテ、始メテ之ヲ弘宣
シタマフ」といわれているわけですから、日蓮には上行菩薩の自覚があったと
考えるのが自然だと思います。また、日興の写本が現存している「頼基陳状」
にも以下のような記述があります。

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  日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・上行菩薩の
  垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人

  (「頼基陳状」、全集、p. 1157)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 富士門流においても、一貫して、「日蓮聖人は上行菩薩の再誕」と主張され
てきました(前掲拙文「初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかっ
た」を参照)。

 創価学会の牧口初代会長も「日蓮聖人は上行菩薩の再誕」といわれています
し、現在の創価学会でも、日蓮には上行菩薩の自覚があったとされています。

  上行菩薩即日蓮聖人(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/065.html

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  [斉藤] その御自覚のなかには、地涌の菩薩の棟梁・上行菩薩の使命を担
  っていくということも含まれているのではないでしょうか。
  [名誉会長] そのことは御書には示されてはいませんが、立宗の時に「日
  蓮」と名乗られたこと自体が、それを強く示唆しています。
   日蓮とは、「日月」と「蓮華」です。法華経では、上行菩薩は衆生の闇
  を照らす日月であると説かれています。また地涌の菩薩は、泥沼に清らか
  な花を開く蓮華に譬えられます。

  (池田大作他「御書の世界──人間主義の宗教を語る」〔第2回〕、
    『大白蓮華』、第621号、2002年2月、p. 19)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ということは、日蓮は「教主釈尊の初発心の弟子」ということになります。
「日蓮が本仏である」などということには決してなりえません。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり

  (「観心本尊抄」、全集、p. 253)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 また、日蓮には「釈尊御領観」と呼ばれる思想がありますが、これは「日蓮
が本仏である」というような考えとは両立しえません。日蓮自身には「日蓮が
本仏である」などというような考えはありえなかったということです。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  天台教学において明らかにされた、下種益・熟益・脱益(衆生と結縁する
  こと、成熟させること、解脱させることという三種の宗教的利益)という、
  釈尊と衆生との密接な人格的関係の重視は、日蓮においては、天台教学の
  比ではないほど強調されています。
   そこから生まれた思想として、日蓮の釈尊御領観と呼ばれるものがあり
  ます。つまり、第一章で引用した譬喩品の「今、此の三界は皆な是れ我が
  有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而して今、此の処は諸も
  ろの患難多し。唯だ我れ一人のみ能く救護を為す」に基づいて、娑婆世界
  は釈尊の領土であり、裟婆世界の衆生と釈尊とは有縁の関係、つまり宗教
  的に深い絆で結ばれているとするものです。この思想に基づいて、日蓮は
  浄土教を批判し、西方極楽浄土の阿弥陀如来と娑婆世界の衆生とは宗教的
  に無関係であるから、阿弥陀如来に対する信仰は的外れであり、本師釈尊
  との関係をないがしろにするものであると批判しています。

  (菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、
    pp. 83-84)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  日蓮大聖人の「釈尊御領観」(佐藤弘夫)
  http://fallibilism.web.fc2.com/108.html

 上に述べたような理由から、創価学会が主張している《日蓮本仏論》は、
《日蓮自身の思想に反するもの》であると私は考えます。創価学会は、このよ
うな《日蓮自身の思想に反するもの》から脱却していかなければならないと思
います。以下の投稿(スレッド「創価学会に関する批判的考察」、No.4)も参
照して頂ければ幸いです。

  「ファンダメンタルな日蓮正宗の教義」からの脱却
  http://fallibilism.web.fc2.com/cgi-bin/patio/patio.cgi?mode=view2&f=5&no=4
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.1 )
日時: 2002/10/29 00:55
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



> このスレッドでは、創価学会が主張している《日蓮本仏論》の問題点につい
>て考えていきたいと思います。

下記は《日蓮本仏論》をよくあらわしている資料ではないでしょうか。
宗祖(日蓮)と同様に、法華経の思想をよりどころとするのではなく、
宗祖(日蓮)自体を信仰化してしまっているということに問題があると思います。

御本尊の仏、菩薩、諸天善神、十界の衆生、眷属等の説明
http://members.tripod.com/sgiusasf/Japanese/butsubosatsu.htm

仏法の流れと釈尊の一生の図
http://members.tripod.com/sgiusasf/Japanese/lifeofshaka.htm
 

Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.2 )
日時: 2002/10/29 02:41
名前: 今里 祐二  <imachan@hm5.aitai.ne.jp>
参照: http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html



> このスレッドでは、創価学会が主張している《日蓮本仏論》の問題点につい
>て考えていきたいと思います。

創価学会が主張している《日蓮本仏論》は、日寛教学を拠り所にしていると考えています。
「創価学会が主張している」と冠をつけてしまうと、肝心の《日蓮本仏論》は是か非かという
論点がボケてしまうように感じます。

この掲示板の主たる目的である、
《創価学会をより良いものに変えていくにはどうすればよいか》ということを考えても、
ここは「創価学会が主張している」との冠をはずした方が、
より有意義な議論になると思いますが、いかがでしょうか?

 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.3 )
日時: 2002/10/29 06:28
名前: 顕正居士



>創価学会が主張している《日蓮本仏論》の問題点

Libraさんが列挙された日蓮本仏論の諸内容の中には日蓮正宗の教義と異なる
ものはありませんね。本仏は迹仏に対していい、始成正覚の仏に対する久遠
実成の仏のことです。この仏がまた元初仏、下種仏、此土有縁仏であります。
創価学会員の松戸行雄さんが、
http://www.sommerkurse-weimar.de/2000-nachlese/matsudo.html
日蓮正宗の僧侶の方と行なった議論をまとめた本を出版し、日蓮本仏論という
言葉を否定的に使っていますが、この方の意見は釈尊本仏論を主張するのでは
なく、理即成仏論から日蓮正宗教団の管長や僧侶の権威化を批判するもので、
議論の枠組は日蓮本仏論教学の範囲です。僧侶との議論だから、当然ですが。

日蓮正宗から継承した日蓮本仏論以外に創価学会に特有の解釈というものが
あるのでしょうか?
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.4 )
日時: 2002/10/29 07:54
名前: 顕正居士


日蓮本仏論の基本的な理解

にLeoさんが引かれたサイトの「仏法の流れと釈尊の一生の図」が有益です。
釈尊と日蓮とは異なる方ではなく、釈尊が菩提心を発された最初を仏教神話の
はじまりとします。釈尊がいつ菩提心を発されたかに複数の物語があります。
下記はそのひとつです。
http://www.kokonor.com/mmba/buddha/
それより(たとえば)三阿僧祇劫を経、限りのない知力と救済力と寿命とを
備え、遂に仏陀となられた。それは今日から五百塵点劫の遠い過去である。
しかし以後も釈尊は常に菩薩として生まれ、幾度も正覚を成じる姿を現わし、
蔵・通・別・円の四教を説法し、下種結縁の人たちすべてが不退転の位を
得るまで、すなわちインドに出世される時まで続いた。不退転位に達しない
人たちがまだいくらかいたが、その後の二千年に彼らも不退転位に達した。
こうして釈尊の久遠発心以来の化導は終了し、以後の人びとはまた下種結縁
から開始することになる。この時、釈尊は久遠発心の際と同じに、名字即位
の菩薩として現わる。それが日蓮である。

日蓮本仏論は釈尊本仏論と矛盾する神話ではない。釈尊の久遠発心の時、
名字即位の菩薩であったままを本因の仏といい、それが日蓮であるという
ので、久遠成道の釈尊と別に本果の仏があるというのではないからである。
もちろん正当には本因妙とは釈迦菩薩が初住を得た時をいい、久遠発心の時
をいわない。ゆえに堅樹日寛は口伝を引いている。

三重秘伝抄-師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を
秘沈し給えり云云。(この師が誰かを指すかは判らない)
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.5 )
日時: 2002/10/29 09:42
名前: 顕正居士



日蓮本仏論は負の教義遺産か?

>宗祖(日蓮)自体を信仰化してしまっているということに問題がある

というLeoさんの御意見について考えます。「仏法の流れと釈尊の一生の図」
をいっぱんの人にみせたら無言でしょう。「デムパとは口をきかない」に
限るので。しかしこの図が天台宗や日蓮宗と違うのは、本因妙を久遠発心に
おくか、久遠発心と五百塵点の中間におくか、天台宗では日蓮は出てこない、
だけです。天台宗や日蓮宗は釈尊を本仏とするが、それは五百塵劫点成道の
釈尊であって、ソクラテスと同時代にインドで活動した賢者のことではない。
釈尊本仏論と日蓮本仏論には五十歩と百歩どころか、九十九歩と百歩の違い
しかない。室町時代の口伝法門はこういう神話を解体しようという試みでも
あり、日蓮本仏論も三十二相、八十種好という最少の応身仏の資格すら備え
ない日蓮を仏と呼ぶことでそれを行なっている、あの図は図そのものを破壊
する図でもあるのです。松戸行雄さんが管長や僧侶の権威化を批判する土台
である理即成仏論と不分離なのです。

理即成仏論-凡夫が仏であり、応身仏や報身仏は凡夫(人間)が生み出した
空想であるという考え。
 


今里さんへ ( No.6 )
日時: 2002/10/29 18:29
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>2

> 創価学会が主張している《日蓮本仏論》は、日寛教学を拠り所にしていると
> 考えています。

 《創価学会は、日蓮本仏論の根拠として、日寛教学を使っている》というの
は正しいと思いますが、創価学会がどれくらい正確に日寛教学を理解した上で
そうしているといえるのか、正直いって、浅学の私にはよく分からないところ
があります。

> 「創価学会が主張している」と冠をつけてしまうと、肝心の《日蓮本仏論》
> は是か非かという論点がボケてしまうように感じます。

 私は、「創価学会が主張している」という言葉によって、《創価学会だけが
主張している》とか、《創価学会が独自に主張している》とか、そういうこと
をいいたかったわけではありません。《今現在、創価学会が主張しているもの
の一つに日蓮本仏論というものがありますが、私はそれをずっとオカシイと思
ってきましたので、もう一度ここでも考えてみたいと思います》という程の意
味で、あのように書きました。

> この掲示板の主たる目的である、
> 《創価学会をより良いものに変えていくにはどうすればよいか》ということ
> を考えても、ここは「創価学会が主張している」との冠をはずした方が、
> より有意義な議論になると思いますが、いかがでしょうか?

 この部分は意味がよくわかりませんでした。もう少し説明して頂ければ幸い
です。お手数をおかけして申し訳ありません。

 これからも、どんどん問題点を指摘して頂ければ助かります。
 


顕正居士さんへ ( No.7 )
日時: 2002/10/29 19:00
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



 ご意見ありがとうございました。

> 創価学会員の松戸行雄さんが、〔中略〕日蓮正宗の僧侶の方と行なった議論
> をまとめた本を出版し、日蓮本仏論という言葉を否定的に使っていますが、
> この方の意見は釈尊本仏論を主張するのではなく、理即成仏論から日蓮正宗
> 教団の管長や僧侶の権威化を批判するもので、議論の枠組は日蓮本仏論教学
> の範囲です。(>>3)

 おそらく、私は、松戸先生のご議論をまだ正確には理解していないのだろう
と思います。松戸先生は、まず、

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   次に、日蓮久遠本仏論を批判しても、大聖人の立場は末法の凡夫即本仏
  として、また「本因妙の教主」として変化しないのである。いわゆる教主
  としての「本仏」は日蓮大聖人だけである。

  (松戸行雄『日蓮思想の革新──凡夫本仏論をめぐって』、論創社、
    1994年、p. 44)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

といわれます。この部分はたしかに「日蓮本仏論教学の範囲」といえそうです。
しかし、その後では、以下のようにいわれています。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   「本仏」の意味については『人間主義』で整理したつもりであるが(一
  五〇頁参照)、今一度強調しておく。

  〇 一つには、大日如来や阿弥陀仏、また法華経文上の脱益の釈迦・多宝
   などを迹仏とする立場で、此土有縁の教主釈尊を本仏とすること。

  〇 二つには、その根拠ともなるが、事実の上で生身の凡夫(本物の人間)
   が仏身を現すという意味である。


  (同上、pp. 44-45)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   さて本題に戻り、確かに大聖人も、阿弥陀仏や大日如来などに対しては、
  私たち衆生の教主は「釈尊」であることを何度も強調している。それは歴
  史上の実在の釈迦であろうし、また「仏教」を説き続け、経典に現れた釈
  尊であろう。

  (同上、pp. 96-97)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  〇 大聖人は一代聖教の中では「法華経」を選び、したがってその教主と
   しての「釈尊」を選んでいる

  と理解できる。阿弥陀仏や大日如来、その他の仏や菩薩ではなく、仏教の
  創始者としての釈尊である。

  (同上、pp. 98-99)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 これら部分では「釈尊本仏論を主張」しておられるように私には見えます。
そして、ここで使われている「本仏」という語は、「凡夫本仏」といわれる場
合の「本仏」とは意味が異なると思います。このあたりのことについては、以
下の拙文で少し考えました。そこには松戸先生から頂いたコメントも引用して
あるのですが、私はまだよく理解できていないのだと思います。

  本仏と真仏(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z022.html

 あと、松戸先生のご議論は、「理即成仏論」というよりも、むしろ「名字即
成仏論」といっておいたほうがよいのではないかと思います。もちろん、顕正
居士さんもそのような意味でいわれているのだと思いますが。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  〇 理即の凡夫も名字即の凡夫もその理体は同じである。しかし、修行に
   よってその仏界は顕れる。妙法を信受するかしないかの相違である。妙
   法を信受する名字即の位で即身成仏するのである。

  (松戸前掲書、pp. 61-62)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 日蓮本仏論の基本的な理解
>
> 釈尊と日蓮とは異なる方ではなく、釈尊が菩提心を発された最初を仏教神話
> のはじまりとします。〔中略〕釈尊は久遠発心の際と同じに、名字即位の菩
> 薩として現わる。それが日蓮である。(>>4)

 日蓮においては、上行菩薩というのは、釈尊の久遠発心の時からの弟子だと
されているわけですから、《釈尊と上行菩薩とは異なる方ではない》という考
えはそもそも成り立ちようがないように私には思えるのですが、この点はどの
ように理解すればよろしいのでしょうか。

> 日蓮本仏論は負の教義遺産か?(>>5)

 松戸先生の名字即成仏論には賛成です。顕正居士さんの、《日蓮本仏論は、
日蓮本仏論(という神話)自身を解体しようと試みている》というお考えは面
白いと思いました。

> 天台宗や日蓮宗は釈尊を本仏とするが、それは五百塵劫点成道の釈尊であっ
> て、ソクラテスと同時代にインドで活動した賢者のことではない。(>>5)

 日蓮にとっては、「五百塵点劫成道の釈尊」と「インドで活動した賢者」と
は異なる方ではなかったのではないでしょうか。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.8 )
日時: 2002/10/29 20:46
名前: 顕正居士



>釈尊と上行菩薩
日蓮本仏論は釈尊本仏論を否定しないが、上行再誕論を否定します。経文の上
の教義としては認めるが浅義であり、文底の深義では釈尊二度の出世とする。
富士派でも最初は宗祖を上行再誕としたが、次に上行本仏論が出、その次に
大石寺日有が隆門の繰返し顕本論を摂取し発展させ、堅樹日寛が上行再誕論を
払拭し完成したと云えます。日蓮宗の釈尊本仏論の実内容は上行再誕論です。

>「理即成仏論」というよりも、むしろ「名字即成仏論」といっておいたほう
>がよいのではないかと思います。
名字即成論は日蓮自身の思想の一解釈であり、凡夫即仏論は理即成仏論です。
ゆえに御義口伝は名字即位を日蓮に限り、弟子檀那を理即におき両者の調和を
はかっています。

>日蓮にとっては、「五百塵点劫成道の釈尊」と「インドで活動した賢者」
>とは異なる方ではなかったのではないでしょうか。
天台宗、日蓮宗ではこの両箇の釈尊は異なる方ではないのであります。一般
には報身仏(毘留舎那如来=大日如来)の化身のひと方がインド出世の釈迦
であるが、両宗では報身仏を法華経の寿量品を根拠に、娑婆世界の或るお方
が阿僧祇劫に資糧を積んで毘留舎那如来になられたと解釈します。Libraさん
のお考えが、釈尊が蔵・通・別・円の四教をみな実際にお説きになったと、
日蓮が信じたゆえに両者に区別が無なかったであろう、の意味なら違います。
智者も日蓮も釈尊が蔵経しか説かれなかったことは知っています。経の説相
を見れば分ることで、智者や日蓮は愚者ではありません。釈尊が蔵経以外を
お説きになったというのは肉身の釈尊の意味でなく、チャネリングの意味で、
在世の声聞も後の大乗経の内容を神通力で聞いた意味なのです。漢訳の経論
が南伝、西蔵伝に比較し劣っていることはありません。比較すればより正確
な見識が得られるのみです。だから富永仲基は現代仏教学を何も知らずとも
経典製作史の大略を把握できたのです。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.9 )
日時: 2002/10/30 04:08
名前: 今里 祐二



>>6

>《創価学会は、日蓮本仏論の根拠として、日寛教学を使っている》というの
>は正しいと思いますが、創価学会がどれくらい正確に日寛教学を理解した上で
>そうしているといえるのか、正直いって、浅学の私にはよく分からないところ
>があります。

創価学会がどれくらい正確に日寛教学を理解しているのか僕には分かりません。
それよりもLibraさんの方こそ、どの程度日寛教学を理解した上で《日蓮本仏論》を
否定されているのでしょうか。
日寛上人が六巻抄で主張されていることの根幹は《日蓮本仏論》であり、それ以外の部分は枝葉です。
《日蓮本仏論》に対し「ノー」と言うのは、六巻抄の完全否定と同義だと考えますが、
Libraさんは自覚されていますか?

>> この掲示板の主たる目的である、
>> 《創価学会をより良いものに変えていくにはどうすればよいか》ということ
>> を考えても、ここは「創価学会が主張している」との冠をはずした方が、
>> より有意義な議論になると思いますが、いかがでしょうか?

 >この部分は意味がよくわかりませんでした。もう少し説明して頂ければ幸い
>です。お手数をおかけして申し訳ありません。

《日蓮本仏論》は創価学会が勝手に主張しているものではなく、
日蓮正宗の伝統教義であり、一切衆生の成仏への道しるべと考えています。
「創価学会が主張している」との言い訳めいた言葉で、枝葉の議論が展開されるようであれば、
何の意義も無いと感じたので、こう書きました。
 


内証深秘の相承によって払拭? ( No.10 )
日時: 2002/10/30 07:25
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>8 顕正居士さん

> 日蓮本仏論は釈尊本仏論を否定しないが、上行再誕論を否定します。

 明快なお答えありがとうございました。要するに、《日蓮本仏論と上行再誕
論は両立しない》ということですね。そうすると、

1.日蓮自身には上行再誕の自覚があったので、日蓮自身の思想の中には日蓮
  本仏論などはありえない。

2.日蓮自身の思想を離れて考えても、上行再誕論をいいながら、日蓮本仏論
  をいうのは矛盾である。

といえるわけですね。しかし、2.の《矛盾》は、「文底の深義では釈尊二度
の出世とする」ということでごまかされてよいものなのでしょうか。そのよう
な「文底の深義」は、日蓮自身はいっていないと思いますが。上行再誕論は日
蓮自身によっていわれていますので、それを「浅義」ということはとてもでき
ないと思います。

> 富士派でも最初は宗祖を上行再誕としたが、次に上行本仏論が出、その次に
> 大石寺日有が隆門の繰返し顕本論を摂取し発展させ、堅樹日寛が上行再誕論を
> 払拭し完成したと云えます。

 富士派でも、最初のころには、日蓮本仏論はなかったということですね。で、
最終的に日寛にいたって日蓮本仏論は完成されたと。日寛も、正徳五年(1715
年)の六月十五日の時点では、「蓮祖はこれ本化の菩薩の再誕」と書いていま
すね。この時点ではまだ「払拭」していなかったということでしょうか。
  
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   第一には、蓮祖はこれ本化の菩薩の再誕なるが故に。涌出品に本化の菩
  薩を説いて云く「此等は是れ我が子なり。是の世界に依止す」と文。妙楽
  云く「子、父の法を弘む。世界の益あり」云云。故に知んぬ、蓮祖は真実
  の釈子なることを。

  (「撰時抄上愚記」、創価学会教学部編『日寛上人文段集』、聖教新聞社、
    1980年、p. 219)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 しかし、その時点ですでに、「内証深秘の相承」ということをいって、「久
遠名字の釈尊」と日蓮とを同一視しようとしているようにも見えます。ですが、
そのような考えと上行再誕論との間の論理的な矛盾はそのまま放置されている
ようにしか見えません。《「内証深秘の相承」によって矛盾を無視する》とい
う形で「払拭」しているということなのでしょうか。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   第五には、蓮祖は即ちこれ本因妙の釈子なるが故に。これ内証深秘の相
  承なり。「釈」とは釈尊なり。「子」とは因の義なるが故に、釈尊の本因
  即ちこれ日蓮なり。故に「釈子日蓮」というなり。これ則ち久遠名字の釈
  尊の御身の修行を末法今時の蓮師の御身に移し、信行全く同じきが故なり
  云云。

  (同上、p. 221)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 凡夫即仏論は理即成仏論です。

 いわゆる「凡夫即仏論」という術語については、そのように整理すべきなの
かもしれませんが、松戸先生のご議論(《凡夫本仏論》)はそれとは別のもの
と考えるべきだと私は思います。内容からいって、松戸先生のご議論は、「名
字即成仏論」というべきだろうと私は思います。この件については、これ以上
ここで議論しても仕方がないと思いますので、興味をもたれた読者の方々には、
実際に松戸先生のご議論を参照していただいて、ご判断いただければと思いま
す(例えば、以下のものなどを参照されることをおすすめします)。

  『日蓮思想の革新──凡夫本仏論をめぐって』(論創社、1994年)

  「現代的課題としての凡夫本仏論」『福神』第8号(2002年5月)

> ゆえに御義口伝は名字即位を日蓮に限り、弟子檀那を理即におき両者の調和
> をはかっています。

 今の議論とは直接関係しませんが、顕正居士さんは、『御義口伝』をいつご
ろ成立した文献だとお考えでしょうか。日興が書いたものだとは思っておられ
ないのですよね。

> >日蓮にとっては、「五百塵点劫成道の釈尊」と「インドで活動した賢者」
> >とは異なる方ではなかったのではないでしょうか。
> 天台宗、日蓮宗ではこの両箇の釈尊は異なる方ではないのであります。

 ですよね(笑)。

> 智者も日蓮も釈尊が蔵経しか説かれなかったことは知っています。経の説相
> を見れば分ることで、智者や日蓮は愚者ではありません。〔後略〕

 この点についてはおいておきましょう。今の議論とは直接関係しませんので。
 


今里さんへ ( No.11 )
日時: 2002/10/30 07:57
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>9 今里さん

> それよりもLibraさんの方こそ、どの程度日寛教学を理解した上で《日蓮本仏
> 論》を否定されているのでしょうか。

 全く自信がありません(汗)。

> 《日蓮本仏論》に対し「ノー」と言うのは、六巻抄の完全否定と同義だと考
> えますが、Libraさんは自覚されていますか?

 私は、《六巻抄は絶対に正しい》などとは思っていないのです。もしも御書
と六巻抄が矛盾するのであれば、六巻抄を捨てて御書の方をとりたいと思いま
す。

> 「創価学会が主張している」との言い訳めいた言葉で、枝葉の議論が展開さ
> れるようであれば、何の意義も無いと感じたので、こう書きました。

 創価学会員のほとんどの人は六巻抄を読んでいないだろうと思います。しか
し、私のような考えに対しては、当然、六巻抄を根拠にした反論も予想されま
す(孫引きが多いだろうと想像しますが)。私は、そういう反論を受けつけな
いとはいっていません。その場合には、御書に照らして、六巻抄の根拠そのも
のを問題にしていくことになるでしょう。このようなスタンスでも「枝葉の議
論が展開される」ことになりますでしょうか。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.12 )
日時: 2002/10/30 13:19
名前: 顕正居士



>上行再誕論との間の論理的な矛盾はそのまま放置されている

上行再誕論から出発するが、最後は否定するのだから、矛盾はない。しかし
堅樹日寛の時代には日蓮本仏論は秘密相承に近い扱いであって、教義自体が
二重になっている。

>『御義口伝』をいつごろ成立した文献だとお考えでしょうか。

『御義口伝』は尊舜の『法華文句略大綱私見聞』(大日本仏教全書)を主に
下敷とし、日蓮的アレンジを施した文書であろうと推理します。したがって
15世紀半ばに執筆され、(おそらく)要法寺日辰が京都のいづこかで見出し、
15世紀終りに要法寺から出版された。著者は天台口伝法門に通じた無名氏で
ある以上のことは判らない。来歴不明の書であるが日蓮宗学の本覚的理解に
資すること大であり、出版されると日蓮宗の全派閥でこの書を重視した。

○日蓮の思想と後世の思想をごっちゃにしたらトンデモになってしまうから、
これらは区別されなければならない。しかし、思想の評価をその方の身分に
よって行なうなら、これもトンデモである。わたしは日寛の意見が日蓮より
すぐれていれば日寛を評価する(同義反復だ!)。『御義口伝』も同じこと
である。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.13 )
日時: 2002/10/30 15:12
名前: 今里 祐二  <imachan@hm5.aitai.ne.jp>
参照: http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html



>>11

>私は、《六巻抄は絶対に正しい》などとは思っていないのです。もしも御書
>と六巻抄が矛盾するのであれば、六巻抄を捨てて御書の方をとりたいと思いま
す。

> 六巻抄を根拠にした反論も予想されます(孫引きが多いだろうと想像しますが)。
>私は、そういう反論を受けつけないとはいっていません。
>その場合には、御書に照らして、六巻抄の根拠そのものを問題にしていくことになるでしょう。

なるほど。
創価学会員も含め日蓮正宗系の一般的な信徒は、
大聖人様を末法の御本仏と信じ、仏様の金口の説として御書を読みます。
故に御書の中に「自分は聖人ではない」等の表現があっても、文上そのままには受け取らず
「謙遜してそのように仰せになっているのだ」と受け止めます。
いわゆる「文底読み」です。

Libraさんがあくまで御書の文上に固執して、六巻抄を捨てられるのなら、それはそれで仕方がありませんが、
そのような読み方で宗祖の御真意に到達できるのか……、はなはだ疑問ではあります。


顕正居士さんへ ( No.14 )
日時: 2002/10/30 15:23
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>12 顕正居士さん

> 上行再誕論から出発するが、最後は否定するのだから、矛盾はない。

 なるほど(笑)。ということは、日寛は、日蓮自身の考えや、初期の富士派
の考えを否定したということになるわけですね。

> 『御義口伝』は尊舜の『法華文句略大綱私見聞』(大日本仏教全書)を主に
> 下敷とし、日蓮的アレンジを施した文書であろうと推理します。〔後略〕

 解説ありがとうございました。

> ○日蓮の思想と後世の思想をごっちゃにしたらトンデモになってしまうから、
> これらは区別されなければならない。しかし、思想の評価をその方の身分に
> よって行なうなら、これもトンデモである。

 全くそのとおりだと思います。

> わたしは日寛の意見が日蓮よりすぐれていれば日寛を評価する(同義反復だ!)。

 結局、客観的にみれば、日寛は、自らが本仏と信じた日蓮の考え(上行再誕
論)を否定してしまったということになると思いますが、そういうことをきち
んと理解した上で、日蓮よりも日寛の意見の方を選択するというのであれば、
それはそれで新しい一つの宗教なのかもしれませんね。

 議論はだいたい尽きてきたように思いますがいかがでしょうか。

 最後に、創価学会の以下のような説明に対して、コメントがありましたらお
願いいたします。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日蓮大聖人は、久遠元初の自受用身・本因妙の教主であり、釈尊は五百塵
  点劫成道の本果妙の教主である。故に日蓮大聖人は釈尊に勝れるのである

  (『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 1569)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 

今里さんへ ( No.15 )
日時: 2002/10/30 15:42
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>13 今里さん

> 創価学会員も含め日蓮正宗系の一般的な信徒は、大聖人様を末法の御本仏と
> 信じ、仏様の金口の説として御書を読みます。

 私は、《日蓮は「釈尊と斉等」であり「教主釈尊の御子」である》と思って
御書を読んでいます。

  ─────────────────────────────────
  経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申
  す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是
  を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師
  子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾
  子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かる
  べからず

  (「日妙聖人御書」、全集、p. 1216)
  ─────────────────────────────────

> Libraさんがあくまで御書の文上に固執して、六巻抄を捨てられるのなら、そ
> れはそれで仕方がありませんが、そのような読み方で宗祖の御真意に到達で
> きるのか……、はなはだ疑問ではあります。

 たしかに、私などよりも、今里さんの方が「宗祖の御真意に到達」されてい
るのかもしれません。誤りなどに気づかれましたら、具体的にご教示頂ければ
幸いです。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.16 )
日時: 2002/10/30 16:24
名前: 顕正居士


1-(間違い訂正)御義口伝-15世紀でなくて16世紀。1500年代。
  
2-「日蓮大聖人は、久遠元初の自受用身・本因妙の教主であり、釈尊は五百
塵点劫成道の本果妙の教主である。故に日蓮大聖人は釈尊に勝れるのである」

『勝れる』は間違いであろう。名字初心の菩薩が妙覚の仏に勝れる義理は全く
ないから。釈尊日蓮一体を理解していなくおもえる。堅樹日寛を読んだことの
ない人が書いた可能性がある。『仏教哲学大辞典』は『本化聖典大辞林』を
学生部員に引き写させたものと、編纂に参加した方から聞いた。したがって
引き写したのでない部分(富士派教義)には問題があるかも知れない。
いづれにしてもこんな信仰の肝要の事柄は、
「久遠名字の釈尊の御身の修行を末法今時の蓮師の御身に移し、信行全く同じ
と信ずる」とか書くべきだろう。
 


顕正居士さんへ ( No.17 )
日時: 2002/10/30 18:23
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>16

 さっそくのコメントありがとうございました。

> 2-「日蓮大聖人は、久遠元初の自受用身・本因妙の教主であり、釈尊は五百
> 塵点劫成道の本果妙の教主である。故に日蓮大聖人は釈尊に勝れるのである」
>
> 『勝れる』は間違いであろう。

 そうおっしゃるだろうと思いました(笑)。

> 釈尊日蓮一体を理解していなくおもえる。

 ほとんどの創価学会員は理解していないだろうと私は思っています。

 今回の議論はいろいろと勉強になりました。ありがとうございました。私の
ような浅学の者と議論するのは、顕正居士さんにとっては大変だったろうと思
いますが、これに懲りずに、またお付き合い頂ければ幸いです。
 


顕正居士さんへ ( No.18 )
日時: 2002/10/30 22:24
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>いづれにしてもこんな信仰の肝要の事柄は、
>「久遠名字の釈尊の御身の修行を末法今時の蓮師の御身に移し、信行全く同じ
>と信ずる」とか書くべきだろう。

>・・・故に日蓮大聖人は釈尊に勝れるのである」
>『勝れる』は間違いであろう。

今までの疑問のひとつが氷解しました。ありがとうございます。
 

Libra(管理人)さんへ ( No.19 )
日時: 2002/10/30 22:36
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>> 釈尊日蓮一体を理解していなくおもえる。
>
> ほとんどの創価学会員は理解していないだろうと私は思っています。

「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし
世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」
(「諸経と法華経と難易の事」、全集、p.992)

信仰の肝要についてのひとつの誤りについて理解でき有益でした。
ありがとうございます。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.20 )
日時: 2002/10/31 14:13
名前: 今里 祐二  <imachan@hm5.aitai.ne.jp>
参照: http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html



>>15 Libraさんへ

> 私は、《日蓮は「釈尊と斉等」であり「教主釈尊の御子」である》と思って
>御書を読んでいます。

僕はLibraさんが言われている意味での「教主釈尊」こそが、「大聖人様」であると思って
御書を読んでいます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
下種の法華経教主の本迹
自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益 寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。
下種の今此三界の主の本迹
久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり。
(百六箇抄)
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ところで、上記の御文って「偽書」なのでしょうか?
僕には、その方面の知識はまったくありません



上行菩薩と釈尊は別の方です ( No.21 )
日時: 2002/10/31 17:21
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>20 今里さん

> 僕はLibraさんが言われている意味での「教主釈尊」こそが、「大聖人様」で
> あると思って御書を読んでいます。

 日寛教学を信受される今里さんのお立場からすれば、当然そうなるだろうと
思います。しかし、顕正居士さんがおっしゃられたように、そのお立場だと、
必然的に上行再誕論(宗祖=上行)を否定することになります。宗祖ご本人に
上行の自覚があったことは明らかだと思いますが、宗祖のそのご自覚を寛師は
否定されているということになります。上行再誕論を肯定するならば、必ず、
宗祖と釈尊は別の方だということになります。上行と釈尊が別の方であり、前
者が後者の「初発心の弟子」であるということは動かすことができません。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり

  (「観心本尊抄」、全集、p. 253)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 上行再誕論というのは宗祖の思想の大事な部分だと私は思っています。です
から、その否定を含意するような寛師の主張には、私はとうてい賛成できませ
ん。宗祖は立像の釈迦仏を随身仏としてご所持されましたが、釈尊と宗祖を同
一視する立場から見ると、この事実はいったいどのように解釈されることにな
るのでしょうか。宗祖はご自身の立像を所持されていたということになるので
しょうか。

> ところで、上記の御文って「偽書」なのでしょうか?

 私は「百六箇抄」は偽書であると判断しています。宗祖ご自身のお立場(上
行自覚)とは完全に矛盾します。

 

Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.22 )
日時: 2002/11/01 04:17
名前: 今里 祐二



>>21 Libraさん

>日寛教学を信受される今里さんのお立場からすれば、当然そうなるだろうと
>思います。しかし、顕正居士さんがおっしゃられたように、そのお立場だと、
>必然的に上行再誕論(宗祖=上行)を否定することになります。

ここはちょっと、よく理解できませんでした。
外用と内証ということで「OK」のような気がしますが…
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  次ぎに人の本尊とは即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕、
末法下種の主師親、本因妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり。

問う、久遠元初の自受用身とは即ち是れ本因妙の教主釈尊なり、
而るに諸門流一同の義に曰わく、蓮祖は即ち是れ本化上行の再誕なりと云云。
其の義文理分明なり、処々に之れを示すが如し、
今何んぞ蓮祖を久遠元初の自受用身と称し奉るや。

答う、外用の浅近は実に所問の如し、今は内証の深秘なるが故に自受用報身の
再誕と云うなり。血脈抄に云わく、久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報
身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮等云云。

若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり、若し内証の深秘に拠れば本地自
受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は
日蓮なり。

(日寛上人「文底秘沈抄」)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

>私は「百六箇抄」は偽書であると判断しています。
>宗祖ご自身のお立場(上行自覚)とは完全に矛盾します。

そうですよね。記述内容の重大さからいっても、もしも御真筆が存在していたとしたら
それを消失させてしまうなんて、考えられませんよね(笑)

でも、このような考えは成り立たないでしょうか。
「大聖人様の仏法の教義も、釈尊の法華経と同じように成立していったのだ」と・・・。

法華経が釈尊の金口そのままではなく、後世の人によって編集されたものであること
は疑う余地はありませんが、それでも釈尊の金口と信じて功徳がありました。

学会版御書(全集)の凡例にはこのようにあります。
「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之れを取る」
 


今里さんへ ( No.23 )
日時: 2002/11/01 05:05
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>22 今里さん

> >日寛教学を信受される今里さんのお立場からすれば、当然そうなるだろうと
> >思います。しかし、顕正居士さんがおっしゃられたように、そのお立場だと、
> >必然的に上行再誕論(宗祖=上行)を否定することになります。
>
> ここはちょっと、よく理解できませんでした。

 上行菩薩と釈尊はどう考えても別の方です。ですから、《宗祖=上行菩薩》
であれば、必然的に、《宗祖と釈尊は別の方》だということになります。《宗
祖と釈尊を同じ方》だと考えるためには、《宗祖=上行菩薩》を否定しなけれ
ばなりません。

> 外用と内証ということで「OK」のような気がしますが…

 私はOKとは思わないのです。《宗祖=上行菩薩》というのは、宗祖の真蹟
および確実な御書から、たしかに宗祖ご自身のお考えであったということが確
認できます(スレッド提案の文章を参照されて下さい)。しかし、《宗祖=釈
尊》というのはそうではありません。しかも、上述したように、《宗祖=釈尊》
というのは、《宗祖=上行菩薩》とは論理的に両立しえません。《宗祖=釈尊》
というのは、《宗祖ご自身の思想に反するもの》であると考えるべきです。

 以上にのべた私の考えについては、顕正居士さんとのこれまでの議論を追い
かけていただければ理解して頂けると思います。

> でも、このような考えは成り立たないでしょうか。
> 「大聖人様の仏法の教義も、釈尊の法華経と同じように成立していったのだ」と・・・。

 釈尊の金口はそのままの形では残っていませんが、宗祖の場合には残って
います。その点で決定的に異なると思います。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.24 )
日時: 2002/11/01 21:05
名前: 今里 祐二



>>23 Libraさん

> 上行菩薩と釈尊はどう考えても別の方です。ですから、《宗祖=上行菩薩》
>であれば、必然的に、《宗祖と釈尊は別の方》だということになります。《宗
>祖と釈尊を同じ方》だと考えるためには、《宗祖=上行菩薩》を否定しなけれ
>ばなりません。

なるほど、なんとなくLibraさんの迷いの根源が見えたような気がします。
釈尊と言ってもインド生誕の釈尊のみを指すわけではないですから・・・。

《久遠元初の自受用身(教主釈尊)=上行菩薩=宗祖》・・・A
《久遠実成の釈尊=インド生誕の釈尊》・・・B

AとBは別の人物であり、そこには師弟関係があり
Aが師匠で、Bは弟子です。これが正解です。

まぁ、だまされたと思って上記理解の下でLibraさん自身の仏法理解を
再構築されてみてはいかがでしょうか?
今まで分からなかった事がスーッと分かるようになると思いますよ。

> 釈尊の金口はそのままの形では残っていませんが、宗祖の場合には残って
>います。その点で決定的に異なると思います。

これは日本の文化とか日本語表現の特性とかを考えた方がよいと思います。
大聖人様御自身に「久遠元初の自受用身(教主釈尊)」との御自覚があっても
そのままストレートに「俺が仏だ、俺を拝め!」とは言い辛かったはずです。
弟子の方で「察する」必要があると思います。
そして御相伝により、そのような教義となって日寛教学として完成したのだと思います。
(法体ではなく、あくまで教義ですので誤解なきよう)

Libraさんは「縁起・空・無我」といった非常に重要なことを訴えておいでです。
しかし、その一方で「宗祖は本仏ではない」との主張を行えば、
「あーぁ、やっぱ二乗は信心がねーや」といった印象しか与えません。
これでは自行にもならず化他にもならず世の中のためにもなりません。

返答は急ぎませんので、じっくり考えてみてください。
 


今里さんへ ( No.25 )
日時: 2002/11/01 21:51
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/
/


>>24 今里さん

> 《久遠元初の自受用身(教主釈尊)=上行菩薩=宗祖》・・・A
> 《久遠実成の釈尊=インド生誕の釈尊》・・・B
>
> AとBは別の人物であり、そこには師弟関係があり
> Aが師匠で、Bは弟子です。これが正解です。

 宗祖ご自身のお考えからすれば、それは正解ではありえません。《上行菩薩》
は「教主釈尊の初発心の弟子」なのですから。《教主釈尊》と《上行菩薩》は
別の人物であり、そこには師弟関係があり、《教主釈尊》が師匠で、《上行菩
薩》は弟子です。これが正解です。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり


  (「観心本尊抄」、全集、p. 253)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 それに、日蓮本仏論から見ても、今里さんの上の理解は正解とはいえないで
しょう。日蓮本仏論では、《久遠実成の釈尊》の名字即位が《久遠元初の自受
用身》ということになるのですから、その意味でも、「AとBは別の人物」とい
うことにはなりえないのです。顕正居士さんの「日蓮本仏論の基本的な理解」
(>>4)は読まれましたでしょうか。もし理解できないのであれば、顕正居士
さんに質問されてみてはいかがでしょうか。

> まぁ、だまされたと思って上記理解の下でLibraさん自身の仏法理解を
> 再構築されてみてはいかがでしょうか?

 だまされたと思って、顕正居士さんと私との間のこれまでの議論を読み返さ
れることをおすすめします。
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.26 )
日時: 2002/11/01 23:16
名前: 今里 祐二



>>25 Libraさん

>宗祖ご自身のお考えからすれば、それは正解ではありえません。《上行菩薩》
>は「教主釈尊の初発心の弟子」なのですから。《教主釈尊》と《上行菩薩》は
>別の人物であり、そこには師弟関係があり、《教主釈尊》が師匠で、《上行菩
>薩》は弟子です。これが正解です。

法華経文上の結要付嘱にこだわっておられる、ということですね。
ところで、Libraさんは、《事実として最初に存在した仏、師弟関係の連鎖の中の原
点に位置付けられる仏》とは、どなただとお考えですか?

 


今里さんへ ( No.27 )
日時: 2002/11/02 00:37
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>26 今里さん

 今里さんは、《日蓮本仏論は宗祖ご自身のお言葉と矛盾する》という事実を
指摘されても、それを《日蓮本仏論に対する反証》とはお認めにならないとい
うことですね。ということは、今里さんの理論は、《原理的に反証不可能な理
論》ということになります。となると、これ以上の議論は無益でしょうね。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   しかしながら、反証回避戦略のうちには極端な種類のものがある。すな
  わち、いっさいの反証をはなから受けつけない狂信的タイプの反証回避戦
  略といったものが存在する。ポパーは、そのような戦略をフロイトの精神
  分析やマルクス主義などの一部に認めた。

    精神分析学者はどんな反対意見に出会っても、その反対意見は批判者
    の抑圧のせいであると示して、いつでも反対意見を説明し去ることが
    できる。同様に、意味の哲学者もまた、彼らの敵対者の主張を無意味
    であると指摘しさえすればよい。そして、この指摘は、「無意味」と
    いう言葉の定義がこの言葉についての討論は無意味である、というよ
    うに定義されているのだから、いつでも真である。マルクス主義者も、
    同じ手管で敵対者の不同意をいつでもその敵対者の階級的偏見によっ
    て説明する……。

   このような反証回避戦略がとられると、反証ということが原理的に考え
  られなくなる。どんなまともな反論が述べられたところで、それは「抑圧
  があるからだ」とか「階級的偏見があるからだ」といって片づけられてし
  まう。これは、一見、その理論が無敵の理論であるかのような印象をあた
  えるが、よく考えてみるならば、どんなことでも説明できる──みずから
  に対する反対意見としての批判さえ説明し去ることができる──というこ
  とは、実はなにごとも排除していないから可能なのであり、理論としては
  空虚なのである。そして、(理論として)「空虚である」とは、経験とな
  んらのつながりをもたないということでもある。ことばを換えれば、その
  ような理論は、決して(経験的には)反証されえないのであり、無傷でい
  られるのである。

  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、
    講談社、1997年、pp. 25-27、
    http://fallibilism.web.fc2.com/057.html)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> ところで、Libraさんは、《事実として最初に存在した仏、師弟関係の連鎖
> の中の原点に位置付けられる仏》とは、どなただとお考えですか?

 宗祖ご自身のお考えからすれば、《久遠実成の釈尊=インド生誕の釈尊》で
しょう。まずこの点をきちんと押さえる必要があると思います。

 私は、《久遠実成の釈尊》と《インド生誕の釈尊》の関係については、現代
において入手可能な知識に照らして、以下のように考えています。

  拙文「犀角独歩さんとの対話」の註5
  http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html#5

 《久遠実成の釈尊》を合理的に解釈しなおすということです。といっても、
私のこのような考えは、宗祖ご自身のお考えからはやはりズレますので、他人
に押し付けようなどとはもちろん思っていません。宗祖の思想を現代に活かす
ための一つの試論に過ぎません。

 現代において入手可能な知識をすべて無視して、宗祖のお考えを全くそのま
まに信じるというのであれば、インド生誕の釈尊も「西紀前949年に、沙羅
双樹の間にて、入滅した」ということになってしまうのでしょうが、そこまで
いくと「狂人」だろうと私は思います。

  釈尊が「西紀前949年に入滅した」などということはありえない 
  http://fallibilism.web.fc2.com/z017.html
 


Re: 《日蓮本仏論》再考 ( No.28 )
日時: 2002/11/02 12:55
名前: 今里 祐二



>今里さんは、《日蓮本仏論は宗祖ご自身のお言葉と矛盾する》という事実を
>指摘されても、それを《日蓮本仏論に対する反証》とはお認めにならないとい
>うことですね。ということは、今里さんの理論は、《原理的に反証不可能な理
>論》ということになります。となると、これ以上の議論は無益でしょうね。

そのようですね。最終的には外用浅近・内証深秘というところで信解するしかない問題ですから。

この掲示板の主たる目的は、《創価学会をより良いものに変えていくにはどうすればよいか》ですね。
創価学会自体は日寛教学まで否定しているとは思いません。
創価学会が良くなっていかない原因の一つに《日蓮本仏論》があるのだとしたら、
Libraさんの目指す改革の道は果てしなく険しそうです。

これからのLibraさんの活動を静かに見守っていきたいと思います。
お付き合いくださいまして、ありがとうございました。



今里さんへ ( No.29 )
日時: 2002/11/02 14:30
名前: Libra(管理人)  <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>28 今里さん

 こちらこそ、お付き合いくださいましてありがとうございました。今里さん
とのやりとりを通じて、読者の方々にも、私の考えを伝えることができたと思
います。もちろん、私の考えに最終的に賛成して下さるかどうかというのは別
の問題ですが。



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