素朴な疑問コーナー

 
素朴な疑問コーナー
日時: 2002/11/13 23:51
名前: Leo   <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



こちらは素朴な疑問についてのスレッドです。


Re: 素朴な疑問コーナー ( No.1 )
日時: 2002/11/20 01:03
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



顕正居士さん曰く:
>>日蓮正宗の教義は、極めて特異な教義である。特異であるが故に、正法正義
>>なのか、それとも普遍性を有しない田舎宗教なのか。
>ローカルな宗教に違いありませんが、室町時代以後の日本文化の基調に流れる
>「中古天台本覚法門」を冷凍保存したような教義(今日、正しく解釈されては
>いないが)に意義があり、希少種のマイナー宗教といえます。

・日蓮正宗の教義は、室町時代以後の日本文化の基調に流れる「中古天台本覚法門」
 を冷凍保存したような教義

(資料)図示 日蓮宗全般の時代変遷に伴う教学変化
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/jidaihensen.html
日蓮正宗系は中国天台心酔時代に移行せず、中古天台心酔時代にとどまった
のだろうか。

顕正居士さん曰く:
>シナ〜四明、日本〜日蓮が法華学を復興したと云えるが、日蓮の説には矛盾が
>あり、江戸時代以降四明しかけで日蓮学を補強した(堅樹寛師等)が山外的は
>未だ大衆的に受けるようだ。創価学会は梵我一如(「宇宙即我」)と云うよう
>に仏教の外側に飛翔してますが、理論的用意は国柱会です。

・創価学会の梵我一如(宇宙即我)の理論的用意は国柱会

学会の教学は色々な時代の教義の矛盾や問題点をそのまま抱え込ん
でいるようである。大衆受けのために教義の時代的なディレイが生じて
いるのだろうか。
 



Re: 素朴な疑問コーナー ( No.2 )
日時: 2002/11/20 10:34
名前: 顕正居士



堅樹日寛における「不思議の一法」

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫におわて御坐せし時、我が身は地水火風空
なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。
-『総勘文抄』

一には妙法蓮華経とは、即ちこれ本有の五大なり。謂く、今日迹中の五百由旬
の宝塔は密に本地自受用身の本有の五大を表するなり。自受用身の本有の五大
とは即ちこれ妙法蓮華経なり。
-日寛『観心本尊抄文段』

至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之
れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足
して闕滅無し。
-『当体義抄』

「因果倶時・不思議の一法」とは、即ちこれ自受用身の一念の心法なり。故に
「一法」という。故に「一法」という。因果倶時の故に「蓮華」と名づく。
不思議の一法の故に「妙法」と名づくるなり。この妙法蓮華の一念の心法に
「十界三千の諸法」を具足す。豈に自受用の妙心妙智は、一念三千の南無妙法
蓮華経に非ずや。
-日寛『観心本尊抄文段』

以上、日寛における「不思議の一法」とは、わが身が地水火風空の本有の五大
であると知る「自受用身の一念の心法」、すなわち本有の識大の意味である。

六大は無礙にして常に瑜伽なり
四種の曼荼は各々離れず
三密加持すれば速疾に顕る
重々帝網なるを即身と名づく
-空海『即身成仏義』

参考-『真言密教とは』
http://www.ermjp.com/bukyou/manda/oshie/oshie2.html
 


Re: 素朴な疑問コーナー ( No.3 )
日時: 2002/11/20 20:08
名前: 顕正居士



中国天台と日本天台

中国天台では湛然の「総在一念 別分色心」の解釈をめぐって山家山外の論争
が起った。山外派は『大乗起信論』の「真如縁起」により、一念は心法、三千
は色法とした。四明知礼は「理事両重の総別」をいい、一念三千も一色三千も
成り立つとし、唯心論を斥けた。日本天台はこの論争以前に開創されたので、
「真如縁起」的であったが、密教の摂取により、「色心不二」へと変化した。

『註本覚讃』
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/chuhongaku.gif
は唯心縁起であるが、真如(さとり)の縁起ではなく、如来蔵(まよいの中の
さとり)の縁起である。『註本覚讃』は鎌倉時代に成立し、日蓮の思想の基礎
とほぼ同一であるとおもう。

やがて室町時代には本迹の関係が逆転し、色本心末、神(凡夫)本仏迹、王法
為本の思想にいたり、日本仏教は遂に発展的に縮小して、合理主義(儒教)に
中心思想の立場を譲り、体験と呪術と葬儀の教えとして特化し、今日に至る。


Re: 素朴な疑問コーナー ( No.4 )
日時: 2002/11/23 01:03
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



顕正居士さん、ご説明ありがとうございます。

>以上、日寛における「不思議の一法」とは、わが身が地水火風空の本有の五大
>であると知る「自受用身の一念の心法」、すなわち本有の識大の意味である。

日寛における「不思議の一法」は、爛熟期天台本覚法門の五大思想の
継承と捉えることができるのですね。
(私は、爛熟期天台本覚法門を批判的に捉えていたので意外でした)

>六大は無礙にして常に瑜伽なり
>四種の曼荼は各々離れず
>三密加持すれば速疾に顕る
>重々帝網なるを即身と名づく
>-空海『即身成仏義』

空海の六大思想と五大思想はほぼ同じと考えてよいでしょうか。

>中国天台では湛然の「総在一念 別分色心」の解釈をめぐって山家山外の論争
>が起った。山外派は『大乗起信論』の「真如縁起」により、一念は心法、三千
>は色法とした。四明知礼は「理事両重の総別」をいい、一念三千も一色三千も
>成り立つとし、唯心論を斥けた。日本天台はこの論争以前に開創されたので、
>「真如縁起」的であったが、密教の摂取により、「色心不二」へと変化した。

四明学と爛熟期天台本覚法門は出自は別ですが「色心等分」、「色心常住」を唱え、
唯心思想に反対するのは一緒であり、明確な抵抗がなく、両法華宗とも四明教学に
統一されたということですね。
(顕正居士さんは他の掲示板でこのように仰っておられたと思います)

倶舎論にすでに四大思想があり、《空海の六大思想》《爛熟期天台本覚法門
の五大思想》《倶舎論の四大思想》の異同や、《縁起・空・中道の思想》との論理
的関係などに興味が出てきました。
 


Re: 素朴な疑問コーナー ( No.5 )
日時: 2002/11/23 20:02
名前: 顕正居士



>空海の六大思想と五大思想はほぼ同じと考えてよいでしょうか。

「六大思想」と別の「五大思想」がある訳ではなく、「五大」は物質の原理、
「識大」は「意識」で、「六大」とも「五大」ともいうに過ぎないでしょう。

>両法華宗とも四明教学に統一されたということですね。

信長公によって破却され、後に再建された比叡山は四明学に依り、「中古の
邪義」を払拭し、日蓮宗諸派も倣いました。しかし目的とする戒律の復興に
成功しなかった。中古の教義は「教相」、すなわちテキスト・クリティーク
を離れた自由発明、体験の法門ではあるが、「邪義」であったわけではない。

>倶舎論にすでに四大思想があり、

地水火風の四大説はギリシャではエンペドクレスが唱えた。彼は四大を結合、
離散させる「愛」、「憎」の原理も唱えた。わたしたちは今、6つのクォーク
と4つの力により宇宙を説明します。

○実相論、縁起論、日蓮

天台学は中観派の認識論を継承し、「実相論」(三諦説)と称する。しかし
「一念三千」は縁起論(存在論)へ入った教義である。日蓮は「二乗作仏」
と「久遠実成」が法華経のみにあり、「入我我入」の教理そのものは密教に
ないと述べる。また本仏(ビルシャナ仏)がかつては「凡夫」であったとも
いう。阿弥陀仏の因位は法蔵菩薩であるが。「交替三神」の中の「釈尊」に
こだわるが、歴史の釈尊は無視し、馬鳴が大乗経典の作者であるとも云う。
経典製作の歴史を考えれば、純密経典は仏滅千年で、法華経が前提である。
日蓮には日本に両つの政府が存在することは危険であるという認識があった。
日蓮は、そのために制限された時間の中で日本の思想統一をはかった。日蓮
は実践家であって、思想家ではない。与えていえば、日蓮には近世的思惟の
萌芽があった。奪っていえば、哲学(客観)と宗教(主観)を分離できずに
「祈祷」の効果を信じた。



Re: 素朴な疑問コーナー ( No.6 )
日時: 2002/11/24 18:43
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


顕正居士さん、ご説明ありがとうございます。

>「六大思想」と別の「五大思想」がある訳ではなく、「五大」は物質の原理、
>「識大」は「意識」で、「六大」とも「五大」ともいうに過ぎないでしょう。

確かに「六大」は物質の原理+精神の原理ですね。
しかし、たとえば真言密教で「六大」を大日如来の象徴としているのは
どのように捉えるべきでしょうか。(これは「人法二無我」に反するよう
に思えます。)

>信長公によって破却され、後に再建された比叡山は四明学に依り、「中古の
>邪義」を払拭し、日蓮宗諸派も倣いました。しかし目的とする戒律の復興に
>成功しなかった。中古の教義は「教相」、すなわちテキスト・クリティーク
>を離れた自由発明、体験の法門ではあるが、「邪義」であったわけではない。

「中古の教義」については評価が難しいですね。それらをひとつひとつ吟味
して、「人法二無我」に反するかどうか検討する必要がありそうです。

>地水火風の四大説はギリシャではエンペドクレスが唱えた。彼は四大を結合、
>離散させる「愛」、「憎」の原理も唱えた。わたしたちは今、6つのクォーク
>と4つの力により宇宙を説明します。

確かに、素粒子と自然界の4つの力は「人法二無我」に反するものではないと
思います。

>天台学は中観派の認識論を継承し、「実相論」(三諦説)と称する。しかし
>「一念三千」は縁起論(存在論)へ入った教義である。日蓮は「二乗作仏」
>と「久遠実成」が法華経のみにあり、「入我我入」の教理そのものは密教に
>ないと述べる。また本仏(ビルシャナ仏)がかつては「凡夫」であったとも
>いう。阿弥陀仏の因位は法蔵菩薩であるが。「交替三神」の中の「釈尊」に
>こだわるが、歴史の釈尊は無視し、馬鳴が大乗経典の作者であるとも云う。

遺文(御書)には真撰や偽撰があると思いますので、もしよろしければ該当の
部分を引用いただきたいのですが、いかがでしょうか。

>経典製作の歴史を考えれば、純密経典は仏滅千年で、法華経が前提である。
>日蓮には日本に両つの政府が存在することは危険であるという認識があった。
>日蓮は、そのために制限された時間の中で日本の思想統一をはかった。日蓮
>は実践家であって、思想家ではない。与えていえば、日蓮には近世的思惟の
>萌芽があった。奪っていえば、哲学(客観)と宗教(主観)を分離できずに
>「祈祷」の効果を信じた。

現代において「祈祷」の効果を信じるのはトンデモだということですね。
ちなみに、天台大師も祈祷を否定していたのでしたね。
(参考)
病を癒す・唱題行のプロセス
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_02.htm
 「ところで、中国の隋代六世紀に天台智者大師(五三八年〜五九七年)によって撰述
  された、仏教の歴史の上で最も具体的に整理された修行の指導書に、悟りの内容に詳
  しい『摩訶止観』と、修行プロセスの内容に詳しい『天台小止観』という有名な二冊
  *3がありますが、このいずれの指導書にも「仏道の修行者は祈祷やマジナイなどを
  行うべきではない」*4と指示されております。
   そこで「それはいったい何故なのだろうか?」と調べてみますと、どうやら天台大
  師は、祈祷やマジナイによって「病などが癒える効果(験)」を一種のプラシーボ効
  果であると考え、その救い(験)が一時的な効果であって本質的なものではないと否
  定なされているようなのです*5。」
 


Re: 素朴な疑問コーナー ( No.7 )
日時: 2002/11/25 00:03
名前: 顕正居士


>真言密教で「六大」を大日如来の象徴としているのは

「汎神論」ですが、ビルシャナ仏を宇宙大の仏とするのは天台も一緒です。
インド大乗仏教はシヴァ神やヴィシュヌ神の存在を否定するが、なんら差が
なく見える報身仏は存在するとした。報身仏は人が三阿僧祇に菩薩の行を
積んで成ったというのが理由でしょう。そして報(法)身仏はすでにおられる
のだから、この宇宙大の仏(大日如来、阿弥陀仏、久成釈尊)と一体になれば
即身成仏、一生成仏というのが中国、日本の仏教です。中国人、日本人には
元来、輪廻転生の思想がないからですが、即身成仏、一生成仏が成り立つため
には報身仏が実在する必要があり、報身仏がGODと違うというのなら、転生を
認めなければならない。だから堅樹日寛は偽書を引いて端的に真言密教に還元
する。輪廻転生を信じないなら、GODと同じ法身仏のほうがよい。「種脱相対」
というのも、『五輪九字明秘密釋』を借用した思想でありましょう。しかし
真言密教に還元するのは後世の日蓮解釈であるとはいえない。日蓮は山門天台
の僧であり、密教家である。密教の哲学的原理は一念三千であるというだけで
ある。日蓮は久成釈尊の人格的実在を信じたが、同時に「己心の釈尊」といい
如来蔵(心性蓮華)と同一視し、『本尊問答抄』ではこちらを強調する。
*『本尊問答抄』-真翰はないが、富士日興と実相寺日源の写本がある。
*顕教と密教
http://www.infosakyu.ne.jp/~yssimizu/sub2.htm

>素粒子と自然界の4つの力は「人法二無我」に反するものではないと思います

標準理論は多元論(原子論)であり、弦理論は一元論です。中観派は無元論(
反原子論、反一元論)ですから、究極の実体は存在せず、関係程式だけが存在
するブーツストラップ仮説にしか、この古代の哲学は合わないでしょう。
*ブーツストラップ
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/Booth.htm

>該当の部分

「出でさせ給いて諸大乗経をかんがへ出し〜」-常楽我浄御書
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso1301.htm
この書は(真蹟)断簡ですが、日蓮が馬鳴を大乗教の開祖と考えていたことは
報恩抄に詳しい。
http://home.raidway.ne.jp/~ben/data/ibun/g-223.html

>現代において「祈祷」の効果を信じるのはトンデモだということですね。

「蒙古調伏」の祈祷などは、テレビがない時代の大パフォーマンスであったと
おもう。だから「祈祷」の効果はあった。この場合、人民が信仰している祈祷
に効果があるはずである。しかし日蓮は真言(東寺・三井)の祈祷には効果が
ないと云った。ほんとうにそう考えのたか、方便であったのかはわからない。
「蒙古調伏」を日蓮が主宰したら、効果は倍増したかもと、日蓮のファンで
なくともおもう人はいるだろう。いづれにせよ、日蓮が主宰しないのに蒙古は
真言の祈祷で調伏されてしまった。
 


Re: 素朴な疑問コーナー ( No.8 )
日時: 2002/11/25 01:22
名前: 顕正居士



モルモン教の不思議

>報身仏は人が三阿僧祇に菩薩の行を積んで成ったというのが理由でしょう。

ところで。「人が神に成る」、「神はもと人であった」。モルモン教の神観が
これと同じである。

「神ご自身が、かつてはわれわれ人間のようであり、今は昇栄・昇格した人で
あり、かなたの天の王座に座しておられるのである・・・神がどのようにして
神になったのか、教えてあげよう。神は永遠の始めから神であったとわれわれ
は考えるかもしれない。しかし、この考えは誤りである・・・神は、われわれ
のようにかつては人間であったのだ。肯り。我々すべての者の父である神ご自
身が、この地上に住み、イエス・キリストがなさったのと同じことをなさった
のである」-『予言者ジョセフ・スミスの教え』

モルモン教の教理と神学
http://seitonomichi.maxs.jp/sinjitu/sugao/015kyori.htm
MORMON CLASSICS LIBRARY
http://sidneyrigdon.com/Classics1.htm

モルモン教は今も合衆国ユタ州の事実上の国教であり、ユタ州モルモン教国は
合衆国民に対するテロによって築かれ、合衆国軍に征伐されることで、次第に
社会に適応したオーム真理教の十数倍兇悪な宗教である。モルモン教になぜ、
仏教と同じ教義があるのか、わたしの疑問である。ジョセフ・スミスが開教
した頃、仏教はすでに欧米世界に知られていたし、モルモン教は顕教と密教に
わかれ、密教は西洋オカルティズムであるが神智学協会とのつながりもない。
神に成るのに輪廻転生は要らない、今世にモルモンの教えに従えば十分、彼
(彼女)は一個の宇宙のエホバに成れる。地上の宗教でこれだけ誇大の功徳
を保障する例を知らない。
 


顕正居士さんへ ( No.9 )
日時: 2002/11/26 01:25
名前: Leo  <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


私は(Libraさんの解説によるところ大でありますが)仏教の中心思想は縁起説と
捉えています。

「ただ縁起説というまったく未曾有の、信じられないほど革命的で深刻な教えだけが、
仏教≠非仏教≠ゥら区別できるのである。」
(仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)http://fallibilism.web.fc2.com/note001.html)

また法華経の久遠の釈尊とは「生き続ける形のない釈尊」だと思っております。

「しかし、そのあとも、弟子たちにも、信徒たちにも、釈尊はそのまま生き続けた。
ただ姿はなく、形はない。その肉身は消滅しても、教えは「法 (ダンマ、ダルマ)」
として、ますます尊く、いよいよ高く、深い。」」
(生き続ける 「形のない釈尊」(三枝充悳)http://fallibilism.web.fc2.com/020.html)

「ある人間の思想・精神が“死後も生き続ける”ということは、その人間の“霊魂”が
不滅であるということとは異なる。
 人間は自分の「思想・精神」を“言葉”や“行動(ふるまい)”を通じて表現する
生き物である。そのように表現された「思想・精神」こそがその人物の「人格
(キャラクター)」である。」
(仏身論メモ http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html)

しかし仏教の密教化は問題と考えております。

「さきに申しましたように、インドにおける仏教の消滅ということにつきましては、
社会状況としてはイスラム教徒の侵入によって仏教が壊滅状態になったということが
ありますけれども、密教化という仏教自体の変化の中で、仏教はヒンズー教の中に
埋没してゆくのです。」
(中村元、三枝充悳 『バウッダ 佛教』 http://fallibilism.web.fc2.com/note003.html)

そして唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想を捉えたいと考えております。

「「根本教理は「人法二無我」です。霊魂とか物自体は存在しないと云う立場です。
龍樹−月称−宗喀巴と継承する中観帰謬論証派が最高の理解であると考えます。
ローカル(日本仏教的)には日蓮主義です。何故かと云うと浄土教は絶対者、
密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
  中で日蓮は実践的には唯色論的だからです。
縁起(釈尊)や空性(龍樹)の説は霊魂や物自体の否定で唯心論ではないが
大勢はそういう方向が盛んになった。
日蓮的唯色論も自然科学、社会科学的発想を促すのでなく、呪物崇拝、呪文信仰に
転落して来た。唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想は
十分現代でも信仰に価すると云う立場かな。」
(顕正居士さん発言集 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/8451/taiwa/kensyou.html)



Re: 素朴な疑問コーナー ( No.10 )
日時: 2002/11/28 05:09
名前: 顕正居士


>仏教の中心思想は縁起説と捉えています。

釈尊の大悟の内容が縁起であったことに異論はないこととおもいます。それが
十二支の程式か、彼あれば此あり彼無ければ此無し、かには議論があります。
龍樹の空性の説(人法無我の説)は釈尊の縁起説の認識論的発展であり、縁起
の論と実相の論は対立しないという理解は近代仏教学の成果であります。

>仏教の密教化は問題と考えております。

中村元氏は釈尊を無神論者、合理主義者として描きました。密教でも超越神を
認めず、ビルシャナ仏を宇宙自体とする汎神論ですから、釈尊、龍樹の伝統を
継承します。インド教には超越神の概念があるのですから、仏教がインド教化
したという批評は正しいでしょうか?

○わたしの仮説-仏教はインド教を摂取して生存をはかったが、汎神論の域に
止まり、有神論に抵抗できなかった。哲学、科学の発達には有神論が有効で
あった。部分を有さない原子はいかにして他の原子と結合するか?神力による
とすれば、先へ進める。アイザック・ニュートンは遠隔作用を神力とした。
○日本の密教は自然崇拝であるが、インドの密教には擬似科学の方面がある。
○インド仏教、チベット仏教は哲学的には中観唯識で宗教的には密教である。
日本のように対立するものではなかったことを理解する必要がある。
 


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