仏教とは何か

 
仏教とはなにか
日時: 2002/10/21 00:41
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


掲示板の「目的」によるスレッドを立てさせて頂きました。




Re: 仏教とはなにか ( No.1 )
日時: 2002/10/21 07:42
名前: 真フィン


仏教とは、「仏に成ることを目指す宗教」ですね。

 で、何で「仏に成るか」と言うと、「自分の幸せと周囲の幸せを考えられる人間になることで、世の中を良くしよう」と。

 でも、「幸せの一方的な押し付け」を称して「仏に成る修行」と言ってしまい、それを疑う発言を口にすると、「信心が足りない」などと言ってしまうのは、
 「幸せについて考える」という根本の目的を放棄しているか、と。

 「執着を断つ」とか「縁起」などの教義的な部分も大切ですが、真フィンとしては、「幸せについて考えていく、そして行動していく」ことが仏の要件だと思います。

 ただ、「幸せ」って「人によって異なる」から、それを無理に「一つの理想形にまとめ上げようとする」のが問題なのかなあ、と考えたり。




呪縛からの解放 ( No.2 )
日時: 2002/10/21 13:32
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>1 

>  ただ、「幸せ」って「人によって異なる」から、それを無理に「一つの理
> 想形にまとめ上げようとする」のが問題なのかなあ、と考えたり。

 「幸せについて考える」よりも「不幸について考える」ほうがよいのではな
いかと私は思います。「幸せ」ということを言い出すと、「絶対的幸福」など
という無内容な言葉によって議論が混乱してしまう危険性が高いと思います。

 「自他の《不幸の除去》について考えていく、そして行動していく」のが仏
教ではないでしょうか。

 さまざまな《呪縛》こそが《不幸》の根本だと私は思います。《呪縛》には
制度的なものもあれば個人的なものもあると思いますが、仏教とは、《縁起・
空・無我》の智慧によって、自他をさまざまな《呪縛》から解放していく運動
であると私は理解しています。以下の資料も参考になるかもしれません。

  呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/042.html

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html




Re: 呪縛からの解放 ( No.3 )
日時: 2002/10/21 18:44
名前: 今里 祐二 <imachan@hm5.aitai.ne.jp>
参照: http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html



>「自他の《不幸の除去》について考えていく、そして行動していく」のが
>仏教ではないでしょうか。

抜苦與楽ということですね。
楽を求めることではなく、苦からの開放に主眼がある…

また、楽(幸せ)を求めることに主眼を置くと
少欲知足といった考え方からも離れていくような気がします。

勉強になりました。

ちなみに僕的には、仏教とは「仏様の教え」だと考えています。
って・・・そのまんまやないか(笑)



Re: 仏教とはなにか ( No.4 )
日時: 2002/10/21 23:55
名前: さかなこ@部屋がみっふぃーだらけ


Libra師匠は仏教は縁起思想だって言ってましたよね〜。

法華経って縁起思想なのですか??空を理解してから読むとおもしろいそうなのですが。。いまいち物語っぽくてよくわからないのです(>_<)(>_<)
どの辺が縁起思想なのか教えてくださると嬉しいです〜。



Re: 仏教とはなにか ( No.5 )
日時: 2002/10/22 00:27
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



ちょっと目先をかえて、一般的な辞典を引いてみました。
大辞林より
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-top.cgi
結構仏教用語ものっているものですね。

ぶっきょう【仏教】
紀元前五世紀(一説に六世紀)に釈迦が開いた宗教。インドにおこり、ほぼアジア全域に広まった。この世を苦しみ・迷いの世界と見、苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ること、さらには迷いに沈む生きとし生けるものを救うことを目ざす。発展史的に原始仏教・部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教、伝来の相違により南伝(南方仏教)・北伝(北方仏教)などの区別が立てられるが、受容された地域の特殊性や社会変動によって多様な信仰に展開した。

しゃか 【釈迦】
仏教の開祖。世界四聖の一人。姓はゴータマ、名はシッタルタ。中部ネパールの釈迦族の中心地迦毘羅(かびら)城に浄飯王(じようぼんのう)の子として生まれる。母は摩耶夫人(まやぶにん)。二九歳で出家、三五歳で悟りを得た。のち鹿野園(ろくやおん)で五人の修行者を教化し(仏教教団の成立)、以後八〇歳で入滅(にゆうめつ)するまで教化の旅を続けた。教説は四諦(したい)・八正道(はつしようどう)・十二縁起などでまとめられる。生没年は紀元前463〜383年、同560〜480年など諸説ある。釈迦牟尼(しやかむに)。釈尊。釈迦如来。

えんぎ 【縁起】
因縁によってあらゆるものが生ずること。

いんねん 【因縁】
事物を生ぜしめる内的原因である因と外的原因である縁。事物・現象を生滅させる諸原因。また、そのように事物・現象が生滅すること。縁起

くう 【空】
万物はすべて因縁(いんねん)によって起こる仮の相で、実体がないということ。大乗仏教では、自我も存在も空であるとして、人法二空を説く。

むが 【無我】
あらゆる事物は現象として生成しているだけで、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないとする仏教の根本的な思想。

だいじょう-ぶっきょう【大乗仏教】
紀元前一世紀以後インドに発生し、中国・日本・チベットなどに伝わった仏教の流れの通称。竜樹の中観派、無着・世親の瑜伽(ゆが)(唯識)派によって確立され、以後多様に展開した。一般的傾向としては、菩薩の修行、他者救済の重視、在家信仰の承認、空思想の深化などがあげられる。大乗。大乗教。

ほけきょう 【法華経】
代表的な大乗仏教経典。漢訳六種(三種が現存)のうち、二八品より成る鳩摩羅什(くまらじゆう)訳の「妙法蓮華経」八巻が最も広く流布。三乗が一乗に帰すること、釈迦が永遠の仏であることなどを説く。天台宗・日蓮宗の所依の経典。ほっけきょう。

にちれん 【日蓮】
(1222-1282) 鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字(あざな)は蓮長。諡号(しごう)は立正大師。安房(あわ)小湊の人。一二歳で仏門に入り、諸宗を各地で学ぶ。「法華経」によってのみ末世の国家の平安もありうることを悟り、1253年に日蓮宗を開き、辻説法で他宗を激しく攻撃し、論破した。60年「立正安国論」を幕府に献じ国難を予言していれられず、伊豆に配流。赦免後も幕府・諸宗批判をやめなかったため竜口(たつのくち)で斬られかけたが、佐渡に流された。許されて、甲斐身延山に隠棲。武蔵国千束郡(東京都大田区池上)で、六老僧を定めて没した。著「開目鈔」「観心本尊鈔」など。

にちれん-しょうしゅう【日蓮正宗】
日蓮宗の一派。静岡県富士宮市の大石寺を本山とする。日興が派祖。

そうかがっかい【創価学会】
日蓮正宗の講社。1930年(昭和5)牧口常三郎の創立した教育研究団体「創価教育学会」が母体。51年、戸田城聖が会長になって以後、組織的な折伏(しやくぶく)活動を行なって発展した。



苦からの開放 ( No.6 )
日時: 2002/10/22 07:17
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>3 今里さん

 私の「苦からの開放」という発想は、仏教からだけではなくて、ポパーから
の影響も強いと思います。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  しかし、ポパーの倫理思想をつぶさに見ていくならば、見事なまでの首尾
  一貫性が浮かびあがってくる。彼の思想の核心にあるのは、不正との闘い
  であり、悪の排除である。彼は、高邁な倫理的価値をかかげて人びとの結
  集をはかり、熱狂的運動を引き起こし、善を実現しようなどとは露ほども
  考えていない。むしろ彼は、地獄への道は人びとの善意によって舗装され
  ているという歴史の現実をかたときも忘れない。善を為そうとして悪を為
  してしまう現実に対して彼は、善の追求ではなく悪の排除のみをおこなえ
  という、ある種の人びとには消極的とも思える倫理を説く。そしてこの立
  場が、誤りの排除をつうじて真理への接近を目指すポパーの科学哲学と平
  行関係にあることを見抜けない人は少ないことであろう。
  
  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』、講談社、1997年、p. 323)
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  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ポパーの念頭にある倫理は、基本的には、より高い価値を鼓吹するもので
  はなく、もろもろの悪に対して直接的な手段で緊急に闘うべきことを教え
  るものである。道に病で倒れた人がいるならば、ただちに治療にあたるよ
  きサマリア人の行動こそが彼の胸中にある倫理であろう。

  (同上、p. 329)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  さて幸福の追求が私事の領域に属するのだとすれば、公的課題となるのは
  避けることのできる苦しみ(suffering)の最小化である。ポパーはこれ
  を語るとき、人びとは何が善であるかについては容易に意見の一致をみる
  ことはないが、何が悪であるかについては比較的容易に意見の一致をみる
  という状況を念頭においている。たしかに、大災害のもとで苦しんでいる
  人たちをみれば、まず被害者の苦痛を取りのぞかねばならないという点で
  人びとは容易に一致するであろう。

  (同上、p. 332)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 仏教とポパー思想の親縁性については、別のところで少し述べたことがあり
ます。

  創価学会応援隊・会議室2での発言[ 1 ]
  http://fallibilism.web.fc2.com/kaigishitu2.html

  「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 2 ]
  http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html



『法華経』の空思想 ( No.7 )
日時: 2002/10/22 07:18
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>4 さかなこさん

> 法華経って縁起思想なのですか??空を理解してから読むとおもしろいそう
> なのですが。。

 このことについてはすでに論じたことがあるのですが、わかりにくかったの
でしょうね(笑)。

  「本尊論メモ」(libra)、「経題釈」との関係
  http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#kyoudaisyaku

> いまいち物語っぽくてよくわからないのです(>_<)(>_<)

 藤田宏達先生は、『法華経』が主張する「一乗が、無差別平等の思想を表明
したものであることは明らかである。このような思想は、理論的に言えば『般
若経』に示されるような空無差別の哲学にほかならぬが、『法華経』はそのよ
うな哲学的議論は避けて、これをもっぱら実践的関心に即して表現しようとし
た。」(藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、
1969年、p. 400)といわれています。『法華経』は空思想についての「哲学的
議論」を展開しているわけではなくて、空思想の実践を「物語っぽく」説いて
いるのだと思います。「空思想の実践」とは「菩薩行」ということです(以下
の小川一乗先生の資料も参照されて下さい)。そういう意味では、「どの辺が」
というよりも、『法華経』のどこを切っても空思想なのです(笑)。

  仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/069.html

> どの辺が縁起思想なのか教えてくださると嬉しいです〜。

 上に述べましたように、『法華経』は空思想についての「哲学的議論」を展
開しているわけではありませんが、全編にわたって空思想の実践を、「菩薩行」
という形で説いています。しかし、「空」について直接説いている箇所がない
というわけではありません。空に言及している箇所を羅什訳からひろってみま
すと、例えば、以下のような記述が挙げられます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   薬王よ、若し善男子、善女人ありて、如来の滅後に、四衆のために、こ
  の法華経を説かんと欲せば、云何んが、応に説くべきや。この善男子、善
  女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、しかしてす
  なわち、応に四衆のために広くこの経を説くべし。如来の室とは、一切衆
  生の中の大慈悲心、これなり。如来の衣とは、柔和忍辱の心、これなり。
  如来の座とは、一切法の空、これなり。この中に安住して、然して後に、
  懈怠ならざる心をもって、諸の菩薩及び四衆のために、広くこの法華経を
  説くべし。

  (「法師品」、坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(上)』、岩波文庫、
    p. 158)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   復次に、菩薩・摩訶薩は、一切法は、空なり、如実の相なり、顛倒なら
  ず、動ぜず、退せず、転せず、虚空の如くにして所有の性無く、一切の語
  言の道断え、生ぜず、出でず、起らず、名無く、相無く、実に所有無く、
  無量・無辺・無礙・無障なりと観ぜよ。但、因縁をもって有るのみ、顛倒
  より生ずるが故に常・楽と説くなり。かくの如きの法相を観ずる、これを
  菩薩・摩訶薩の第二の親近処と名づくるなり」と。

  (「安楽行品」、同上、p. 248)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 羅什訳に欠けている部分には以下のような記述もあります(梵本第五章から
の和訳)。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  盲目の人が眼を得るのと同じように、声聞の道を求める人々と独覚の道を
  求める人々はそのように見られるべきである。彼らは生死流転の煩悩の足
  かせを絶ち切る。煩悩の足かせから解脱を得たものは三界の六趣から解き
  放たれる。このことから、声聞の道を求めるものは次のように知り、この
  ように言うのである。「このうえ、さらに悟り得(証得し)なければなら
  ない法はない。私は涅槃を得たのである」と。そのとき、如来は彼に法を
  説かれる。「一切の法を悟り得ていないものに、どうして涅槃がありえよ
  うか」と。世尊は彼を菩提に至り着くよう教え導かれる。菩提心を起こし
  た彼は〔いまや〕生死流転のなかにあるのでもなく、涅槃を得〔てそれに
  満足し〕ているのでもないもの〔すなわち菩薩〕となる。彼〔菩薩〕は十
  方において、三界のものは空であると知り尽くし、世間は変化のごとくで
  あり、幻のごとくであり、夢、陽炎、反響のごときものと見るのである。
  彼は一切の存在(法)は生ずることもなく、滅することもなく、束縛され
  ているのでもなく、解き放たれているのでもなく、暗黒でもなく、光明で
  もないと見る。このようにはなはだ深遠なもろもろの法〔の実相〕を見る
  ほどのものは、〔この〕三界の一切のものが、人々のそれぞれに異なった
  考え方や志向で満ちあふれていることを、〔表相だけでは〕見ないという
  態度によって見るのである。

  (中村瑞隆『現代語訳 法華経 上』、春秋社、1995年、pp. 135-136)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    ※前掲『法華経(上)』(岩波文庫)では pp. 293-294。
     松濤誠廉他訳『法華経T』(中公文庫、2001年)では pp. 167-168。

 この部分についての藤田先生の解説も以下に引用しておきましょう。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   これによると、声聞・独覚の二乗、すなわち部派仏教の立場を批判して
  示される『法華経』の立場が「空」であることは明らかである。その空を
  説明して、「一切の諸法を生ぜず、滅せず云々」と説くのは、疑いもなく
  『般若経』の空の思想の影響を受けたものであり、また三界を化現・幻・
  夢・陽炎・響のように見るべきことを説く点も、『般若経』において熟し
  た表現に対応するものといってよい。だから、『法華経』の説く空観は
  『般若経』に示される空観を継承したものと見ることができるのである。

  (藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、
    1969年、p. 397)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「どの辺が縁起思想なのか教えて」ということでしたが、『法華経』全編の
最後の部分は、縁起思想そのものであるともいえる法身偈(「因縁法頌」とか
「縁起法頌」ともいわれます)によってしめくくられています。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、
  それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。

  (中村瑞隆『現代語訳 法華経 下』、春秋社、1998年、p. 221)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    松濤誠廉他訳『法華経U』(中公文庫、2002年)では p. 264。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   舎利弗が最初に仏教に出会うのは、『法身偈』という偈文によってなの
  です。舎利弗はあるとき、釈尊の弟子に出会うのです。その仏弟子はアッ
  サジというのですが、その姿にうたれた舎利弗は、「あなたの先生はどう
  いう教えをお説きになるのですか」と尋ねるのです。そうするとアッサジ
  は、

    諸々の存在は原因から生じる。如来はそれらの原因を説きたもうた。
    またそれらの止滅をも説かれた。大沙門はこのように説くおかたであ
    る。
    (山口益編『仏教聖典』一一三頁参照)

  このようにいわれるのです。これが有名な『法身偈』といわれているもの
  です。舎利弗は、このアッサジのことばに引かれて釈尊に会いに行き、そ
  して釈尊の弟子になるのです。

  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、p. 124)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 今回もまた分かりにくい説明になってしまったかもしれませんが、今日のと
ころはこれくらいで勘弁して下さい(苦笑)。



ポパー ( No.8 )
日時: 2002/10/22 20:08
名前: 今里 祐二 <imachan@hm5.aitai.ne.jp>
参照: http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html



>>Libra様

早速のレス、恐縮です。
僕はポパーについては全く知らなかったのですが、
確かに仏法に通じるところがあるように感じます。

>「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」

シブいですね。思わず「ニヤリ」としてしまいました。

ではでは




Re: 仏教とはなにか ( No.9 )
日時: 2002/10/23 00:40
名前: 真フィン



なるほど。
 押し付けがましく「幸せを求めること」よりも、「不幸を取り除くこと」を優先ってのは、発想の転換かもしれないですねえ。

 これなら、入信させたいあまり、「相手の不幸」を祈ることがおかしい、というのもあっさり納得できる。
 今、不幸でないなら、無理に入信させることもないよなあ。「求めてないのに押し付ける」よりも、「相手が困っている状況での良き相談相手に徹する」のがいいのかもしれない。その上で、生半可な方法で克服できない場合の最後の手段として、入信を勧めるとか。



Re: 呪縛からの解放 ( No.10 )
日時: 2002/10/23 14:55
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>2 

>  「自他の《不幸の除去》について考えていく、そして行動していく」のが
> 仏教ではないでしょうか。

 「過去世の宿業」というようなものを持ち出して《相手の不幸につけこむ》
ようなことがあってはならないということはいうまでもありません。

  ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/080.html



Re: 仏教とはなにか ( No.11 )
日時: 2002/10/23 23:41
名前: さかなこ@部屋がみっふぃーだらけ



Libra師匠レスありがとうございましたm(__)mm(__)m

出来の悪い弟子で申し訳ないです(>_<)(>_<)

私は活動してたとき人の不幸を祈ってるようで嫌になってやめてしまいました。
仏壇の前に書いてある折伏祈願に友達の名前を書くのが呪詛のようで(笑)嫌だったのでした。
だって信仰なんて何かよっぽどのきっかけないとしないし「お友達が信心ができるように祈っていけばかならずそうなってくる」とかってやっぱり呪詛に近いですよね。。(>_<)(>_<)




Re: 仏教とはなにか ( No.12 )
日時: 2002/10/23 23:47
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



> 藤田宏達先生は、『法華経』が主張する「一乗が、無差別平等の思想を表明
>したものであることは明らかである。このような思想は、理論的に言えば『般
>若経』に示されるような空無差別の哲学にほかならぬが、『法華経』はそのよ
>うな哲学的議論は避けて、これをもっぱら実践的関心に即して表現しようとし
>た。」(藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、
>1969年、p. 400)といわれています。

学会では二乗不作仏が強調されますが、法華経はこのように一乗無差別平等
思想ですね(一乗=三乗、乗作仏)。
また、仏教に通ずる面があるといわれる批判的合理主義によれば、学会指導で
懸念されているような「知的エリート主義(知的権威主義)」は否定されますね。
私は、二乗不作仏の強調は学会のある傾向性を示していると共に、
知的冒険(向上、挑戦、及び反省)にブレーキをかけるものとして懸念しています。

>「どの辺が縁起思想なのか教えて」ということでしたが、『法華経』全編の
>最後の部分は、縁起思想そのものであるともいえる法身偈(「因縁法頌」とか
>「縁起法頌」ともいわれます)によってしめくくられています。

『法華経』の縁起思想で思うところがあります。

「生命」≠「宇宙(にあまねく広がっているみえない)生命」、
      「(あらゆるものが生ずる)基体」
「生命」=「縁起(縁に依って起こるもの)」



Re: 仏教とはなにか ( No.13 )
日時: 2002/10/23 23:50
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



(一乗=三乗、乗作仏)→(一乗=三乗、二乗作仏)です。



一乗の問題──法開会と人開会── ( No.14 )
日時: 2002/10/24 15:09
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>12 

> 一乗=三乗

 一乗の問題というのは開会の問題ですね。開会には法開会と人開会があるといわれます。
  
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ところで開会には法開会と人開会があるといわれている。法開会は《教法》の統一
  であり、人開会は《人格》、ならびに人格の集合体としての《教団》の統一である。

  (勝呂信静「〔書評〕苅谷定彦著『法華経一仏乗の思想』──インド初期大乗仏教研
    究──」、『法華文化研究』第11号、1985年、p. 24)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 法開会については以下を参照して頂ければ幸いです。

  掲示板「創価学会をみんなで考えよう」、スレッド「仏教の源流から」、No. 406
  http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html#406

 人開会についての勝呂先生のお考えを以下に紹介しておきます(研究者によって解釈が
異なることがあります)。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  法華経の一乗は二乗作仏であるから、それは人開会であり、人格・教団の統一である。
  したがってこの統一には、人格の転換、すなわち廻心(廻小向大)ということが必須
  条件となるであろう。

  (同上、p. 24)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  法華経は、阿羅漢が廻小向大して菩薩に転じ修行して仏に達するということを前提に
  して教えを説いていることは明らかであるといわねばならぬ。

  (同上、p. 25)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

どんな人も「永久に変化しない固定的なあり方」で存在するわけではなく、それぞれ
「十分に成熟、教育された時には、彼らも最終的には」、《空思想を真に実践する者》と
しての《真の菩薩》として成仏することができると『法華経』は説いているのではないで
しょうか。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  この『法華経』においてはじめて、三乗が存在すると説くことは方便であったことが
  打ち明けられたのです。したがって、声聞乗、縁覚乗は一時的暫定的なかりの教えで
  あり、声聞、縁覚も永久に変化しない固定的なあり方ではなく、十分に成熟、教育さ
  れた時には、彼らも最終的には菩薩として成仏することができると説かれます。

  (菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 111)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  


Re: 仏教とはなにか ( No.15 )
日時: 2002/10/24 18:45
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>



>>Libraさん、今晩は、お邪魔致しますm(_ _)m

不定期となると思いますが、少しづつ投稿させて頂きたいと思います。
以後、どうか宜しく御願い致しますm(_ _)m


>>真フィンさん、初めまして♪ 宜しく御願い致しますm(_ _)m

>「幸せの一方的な押し付け」を称して「仏に成る修行」と…
>それを疑う発言を口にすると、「信心が足りない」などと言ってしまう

これには、折伏の捉え方の差異による双方の誤解があるように思います。
折伏にも摂受・折伏両面あり、現在はどちらが大事であるか等、また、何を基準に内外を立て分けるべきか等々、判断基準は様々であるにも関らず、型に嵌った折伏に固執する人…
仏道修行に自行化他行があり、化他行に摂受折伏があるという観点から言えば、折伏を称して仏道修行とするのは誤りではないでしょう。
しかし、『信心が足りない』等で締め括るのは創価に反しますね。
とは言え、激励第一の今の時代に上記指摘が為されているのでしょうか?
私は、長い間聞いた事が無いのですが、、、

>今、不幸でないなら、無理に入信させることもないよなあ。「求めてないのに押し付ける」よりも、「相手が困っている状況での良き相談相手に徹する」のがいいのかもしれない。その上で、生半可な方法で克服できない場合の最後の手段として、入信を勧めるとか。

これこそ、現在の学会精神ですよね♪
先生の指導を履き違える幹部の多さを物語っていますね。


>>今里さん、お久しぶりです♪ 宜しく御願い致しますm(_ _)m

>ちなみに僕的には、仏教とは「仏様の教え」だと考えています。

私としては、今里さんの意見が一番しっくりきます。


>>Leoさん、初めまして♪ 宜しく御願い致しますm(_ _)m

>学会では二乗不作仏が強調されますが…

組織で指摘される二乗不作仏とは、教学のみで行動が伴わない人等に対しての指摘であり、行学を両立させる為の指摘であると思います。
言わば、藤田氏の主張する『実践的関心に即して表現』に沿った指摘ではないでしょうか。

>「生命」=「縁起(縁に依って起こるもの)」

恐らくは、『生命とは因に依り、縁に随って起こるもの』等の意であると思いますが…
『生命=縁起』との表現は、如何なものかと思います。
縁起とは、あらゆる事象現象を指すものであると思います。
生命とは、一念・意志を具えたものであり、『生命=縁起』との表現は、これらの要素を持たないものまでをも生命と認識するものであり、且つ名詞と動詞を『=』で結ぶ事に矛盾・違和感を感じてしまうのですが^_^;)

いきなり御指摘ばかりで、申し訳ありませんm(_ _)m



Re: 仏教とはなにか ( No.16 )
日時: 2002/10/24 20:27
名前: 顕正居士



Libraさん。久しぶりで御座います。活発で内容のある掲示板に発達されること
を期待申し上げます。ところで。

Leoさん。はじめまして。サイトは拝見しております。質問が御座います。
「学会では二乗不作仏が強調されます」というのはいかなる意味でしょうか?
二乗作仏と久遠実成が法華経の2大要義であるのは万人の知るところです。
わたしの知る範囲では、創価学会も法華経が所依の経で、最近に維摩経等に
変更したと聞かない。この二乗作仏というのはLibraさんが勝呂信静師の文を
引いて説明しておられるが、わたしもたいがい同意します。但し注釈すれば。
初期の大乗経は釈尊を批判の目標にはしないが、代りに声聞(釈尊の直弟子)
を批判し、実際上は反-釈尊の思想であったのに対して、法華経は声聞も実は
作仏したのだという表現で、間接的に釈尊を大乗教の高祖と認めたのです。
そして法華経の原型ができた頃に龍樹があらわれ、釈尊の教説(アーガマ、
大乗経を含まない)と自分の説に矛盾がないことを述べ、反-仏教の大乗経
の思想とは異なる「大乗仏教」が出来た。「廻小向大」というのは、500年前
の釈尊と声聞(直弟子)の思想には時代的の限界があり、今日的には龍樹の
思想が釈尊や直弟子の言説の発達であると云う意味に解釈できます。では、
こういう手前勝手の理屈を釈尊教団が認めたのかというと、戒律の規定が教団
である(リナックスみたいの在り方)仏教は龍樹教徒の雑居を認め、彼らの
菩薩信仰等を禁止しなかったのかも知れない。インドに「大乗教団」が存在
しなかったことに注目した勝呂信静師のインド仏教史解釈には素晴らしいもの
があります。



顕正居士さんへ ( No.17 )
日時: 2002/10/24 21:46
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>16 顕正居士さん

 お久しぶりです。まさか顕正居士さんに来ていただけるとは思っていません
でしたので、とてもありがたいです。これで、私が間違ったことを書いても大
丈夫ですね。

> インドに「大乗教団」が存在しなかったことに注目した勝呂信静師のインド
> 仏教史解釈には素晴らしいものがあります。

 この部分の意味が分かりませんでした(インドにおいては大乗教団は伝統教
団に比べるとかなり劣勢だったという認識は私も持っているのですが)。あい
かわらずの理解力不足ですいません。



No.14に対して補足 ( No.18 )
日時: 2002/10/24 21:54
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



 >>14で引用した勝呂先生のご文章の中の《》による強調部分はLibraによる
ものです(原文では傍点が付されている部分)。
 
 ついでなので、勝呂先生のご文章をもうひとつ引用しておきます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   人開会は人格の統一であるが、これを《教団》(人格の集合体)の統一
  として解釈するとその意義が理解しやすい。『般若経』においては須菩提
  らは小乗教団に所属しながら般若波羅蜜の教えを宣布したのである。それ
  は小乗教団の独立的存在を否定するものでない。これに対し『法華経』の
  授記作仏は声聞たちが小乗教団を離脱して大乗に転ずることを求めている
  と解される。これは小乗教団の独立的存在性を否定視するものであり、大
  乗教団に従属すべきものとしてのみその存在意義を認める立場であると解
  することができるであろう。
 
  (勝呂信静「法華経の一乗思想」、『印度哲学仏教学』第10号、1995年、
    p. 145、《》はLibraによるもの〔原文では傍点〕)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



Re: 仏教とはなにか ( No.19 )
日時: 2002/10/25 00:25
名前: 顕正居士



勝呂信静師は『日蓮思想の根本問題』(評論社)で義浄の報告などを根拠に
当時、インドに大乗寺なく、大乗僧(菩薩僧)は釈尊教団に在籍する菩薩を
信仰するひと達であっただろう、と述べます。Libraさんの引かれた論文は
未読であるから、確実なことを云えないのであるが、インド仏教でいう
「教団」(サンガ)は戒律と同じことであり、法華経には「菩薩戒」の思想
はないから、法華経における教団の統一とは大乗教徒の指導者が具足戒を持ち
釈尊教団に在籍を認められることで、空思想の理解は個人の事柄であるから、
拒否されなかった可能性があると、わたしは勝呂師の記述を理解しました。
この論文の執筆はそれから10年経過しているから、勝呂師の思想が変化した
可能性もあるが、龍樹の「大乗仏教」が創始される以前に、大乗経中に仏教
に連絡を求める表現が法華経にはあると云えるが、龍樹思想が法華経を援用
するわけでないし、法華経の二乗作仏や一乗は反-仏教思想、前大乗思想の中
に収まる意味かも知れない。日蓮原理主義に戻られたのかも知れない。この
文章からは判別できない。こういうことは云いたくないのであるが、わが国
の(帝大系)インド学、仏教学の学徒は宗門大学の人々に比較すれば正直で
あるが、大半は身分が宗門僧侶で、勝呂師も日蓮宗僧侶であり、宗学と系わる
事柄の表現は高等にソフィストケートされます。



Re: 仏教とはなにか ( No.20 )
日時: 2002/10/25 00:49
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



顕正居士さん。はじめまして。

顕正居士さん曰く: >>16
>Leoさん。はじめまして。サイトは拝見しております。質問が御座います。
>「学会では二乗不作仏が強調されます」というのはいかなる意味でしょうか?

これは下記の惣流 城さんの発言にありますような「教学のみで行動が伴わない
人等に対しての指摘」のことです。「行動」が「菩薩行」であれば納得できるのですが、
「行動」が「折伏(学会のアピール、布教、勧誘)」になっているので疑問に思っております。

惣流 城さん曰く: >>15
>組織で指摘される二乗不作仏とは、教学のみで行動が伴わない人等に対しての指摘であり、
>行学を両立させる為の指摘であると思います。

顕正居士さん曰く: >>16
>「廻小向大」というのは、500年前
>の釈尊と声聞(直弟子)の思想には時代的の限界があり、今日的には龍樹の
>思想が釈尊や直弟子の言説の発達であると云う意味に解釈できます。では、
>こういう手前勝手の理屈を釈尊教団が認めたのかというと、戒律の規定が教団
>である(リナックスみたいの在り方)仏教は龍樹教徒の雑居を認め、彼らの
>菩薩信仰等を禁止しなかったのかも知れない。

教団のリナックスみたいな在り方はひとつの理想ではないでしょうか。ある教団では、
やれ、教団流に経典を読め、やれ、二乗だ、我見だ、反逆者だ、退転者だと言われるので
甚だ窮屈です。

「二乗不作仏の強調」以外に腑に落ちない点は「三世の生命」、「師弟不ニ」などがあります。



勝呂信静説 ( No.21 )
日時: 2002/10/25 02:00
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>19 顕正居士さんへ

 さっそくのご返事ありがとうございました。

> 勝呂信静師は『日蓮思想の根本問題』(評論社)で義浄の報告などを根拠に
> 当時、インドに大乗寺なく、大乗僧(菩薩僧)は釈尊教団に在籍する菩薩を
> 信仰するひと達であっただろう、と述べます。

 私が所持している『日蓮思想の根本問題』(教育新潮社、1965年)の215ペ
ージでも、義浄の報告を根拠として「しかし一般的にいえば、大乗教団は小乗
教団と離れて存在したのではないであろう。」といわれています。しかし、そ
の直前では、

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ともかく小乗には多くの部派があったのであるから、それぞれにおいて
  仏塔の独立性の程度もさまざまであり、それに関連して大乗教団の独立性
  の程度もさまざまであったと考えねばならない。

  (勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、p. 215)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

といわれ、具体的にその「大乗教団の独立性の程度」を分析している箇所では、
「般若経は小乗教団と割合親しい関係があるとせねばならない」(p. 216)と
か、法華経は「小乗教団に対してもっとも独立性の強い位置に立っていたわけ
で、おそらくもっとも急進的な大乗仏教運動を表現するものであったに違いな
い」(pp. 216-217)といわれています。そして、その後に、「代表的大乗教」
と題して、前掲「法華経の一乗思想」で述べられているのとほとんど同じこと
が述べられています。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  法華経は「ただ菩薩のみを教化す」(但教化菩薩)ということをたびたび
  説いている。つまり、法華経の認める教団は、菩薩の教団、すなわち大乗
  教団のみであるということをあらわしている。〔中略〕したがって小乗仏
  教徒は、大乗教団に包含され、それに従属せしめられることにおいてのみ
  存在意義が認められるのであって、独立の存在意義はない。既成教団たる
  小乗からみれば、大乗教団は小乗教団に従属する位置のものにすぎないか
  ら、法華経のこの主張は従前の考え方を逆転せしめたものであって、まさ
  に破天荒の主張であったに違いない。竜樹が「二乗作仏」の説を秘密の法
  というのも当然と考えられるのである。
   しかしながら法華経のかかげた理想にかかわらず、インドでは小乗教団
  の勢力は依然として強固であって、決して大乗に統一せしめられることは
  なかった。

  (勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、pp. 217-218)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

> 日蓮原理主義に戻られたのかも知れない。

 勝呂先生はずっと一貫して「日蓮原理主義」なのかもしれませんね(笑)。

 全然関係ありませんが、評論社版の『日蓮思想の根本問題』について調べよ
うとしていて、以下のような勝呂先生の御論文を偶然発見しました。

  勝呂信靜「御遺文の真偽問題−その問題点への私見−」
  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.html



Re: 仏教とはなにか ( No.22 )
日時: 2002/10/25 03:00
名前: 顕正居士



わたしの疑問は「二乗不作仏」という教義を今の創価学会が云ってるのか?
なんです。日蓮的に云うと「権経」に退転しているのかということです。

カルトが「蒙昧主義」を採用するのはみな同じです。エホバの証人は最近まで
高等教育を信者の子弟が受けることを禁止していました。そういうことでは
なく、「二乗不作仏」という教義が最近に出来たのか?です。「二乗」とは
仏教の出家者、大乗経の物語の中では釈尊の直弟子のことです。「教学のみで
行動が伴わない人」と、どう意味が重なります?それもどうでもよい、遺文は
もう創価学会では読まないのでしょうか?誰が二乗であれ、その方は真っ先に
作仏するはずでありますが。

わたしの知人には創価学会の(最)高等幹部の方が幾人かおりました。最近は
没交渉ですが、彼らも法華経をやめて維摩経などに変わったんであろうか?
う〜ん。さっぱりわからない。のであります。



Re: 仏教とはなにか ( No.23 )
日時: 2002/10/25 04:19
名前: 顕正居士



Libraさん。お応え有難う御座います。勝呂師の本は題は重いが、随筆で、
一読の記憶のみであるから、師のアイデアを肯定的に書き過ぎたか知れない。

インドにおいて「教団」とは「戒律」(教団規則)のことで、そのゆえに
法華経のような主張が、相手にされる、されないを別におこなわれたと思う、
銀行の合併と違う、しかし御引用の勝呂師の文を読むと分っていなく見える。
いや、わたしの「サンガ」についての見識が進歩し、そう見えるので、進歩
したのは勝呂師の幾つかの言葉からであって、もとのアイデアの方を理想化
したか知れない。ところで。

Libraさんの掲示板が活発になるために、提言します。

○2人しか所持していない書籍の内容を管理者は議論の対象としない。現代の
研究者の名を挙げない。理由は。

WEBには大蔵経もあるし。現代の研究者、知り合いみたいの人をあ〜こ〜いう
趣味はないので。



顕正居士さんのご提案 ( No.24 )
日時: 2002/10/25 06:02
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>23 

 おはようございます。

> インドにおいて「教団」とは「戒律」(教団規則)のことで、そのゆえに
> 法華経のような主張が、相手にされる、されないを別におこなわれたと思う、
> 銀行の合併と違う、しかし御引用の勝呂師の文を読むと分っていなく見える。

 顕正居士さんと勝呂先生とでは、「教団」という言葉をそれぞれ別の意味で
お使いだということなのでしょうね。
 顕正居士さんの場合には、「教法」についてはだいたいにおいて共通の地盤
(アーガマ)の上に立脚していて、「戒律」によって「教団」の区別があると
いうご認識でしょうか。部派の分裂の歴史的経過から考えるとそういうご認識
が妥当なのかもしれませんね。
 逆に、勝呂先生は、

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  インドの宗派は、わが国の宗派のように、派閥的な教団構成をもつもので
  はなかった。戒律の点からみれば、いかなる宗派も共通の地盤の上に立脚
  している。このように宗派によって統制せられざる共通の地盤があったか
  ら、反面、思想においては極度の自由が保障されて、大乗は独自の思想を
  主張し得たと思われるのである。

  (勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、pp. 215-216)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

などといわれます。勝呂先生の場合には、《思想を同じくするもののグループ》
という程の意味で「教団」という言葉を使われているということなのでしょう
か。たしかによく分からないところはありますね。

> Libraさんの掲示板が活発になるために、提言します。

 ありがとうございます。

> 2人しか所持していない書籍の内容を管理者は議論の対象としない。

 私としては、《あまり知られていないからこそ紹介したい》という気持ちも
あるのですが、いけませんでしょうか。

> 現代の研究者の名を挙げない。

 私の場合には、他人のご業績を奪わないためにどうしてもお名前を挙げざる
をえないのです。要するに、私の力不足ということです。ご容赦下さい。

> WEBには大蔵経もあるし。

 経典の引用については、たしかにWEBのを利用するのがいいのかもしれませ
んね。

> 現代の研究者、知り合いみたいの人をあ〜こ〜いう趣味はないので。

 そこはひとつ、《学説》と《それを生み出した者の人格》を区別して頂いて、
「あ〜こ〜」いって頂けるとありがたいのですがダメでしょうか。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  批判は、ふつう非難と混同され、敵意の現れとさえ見られることがある。
  そして、批判を受け入れることは、屈服を意味するとも考えられ、一種の
  屈辱ともみなされている。たしかにそういう侮辱的な批判もあるかもしれ
  ないが、しかしそれはたいてい相手を理解しないたんなる非難と同程度の
  ものであろう。本来、批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘するこ
  とにより、批判される対象と現実を直面させる試みである。そしてその目
  的は、その批判対象をよりよきものにすることにある。この意味では、批
  判はその対象に対する真剣な関心の現れである。それは批判の対象を改善
  するきっかけ、チャンスなのである。だから、批判や反駁を受け入れるこ
  とは改良への一ステップである。

  (蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から見た日本的組織の諸
    問題−」、http://www.law.keio.ac.jp/popper/v10n1kagefr.html)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と容易に
  むすびつけてしまう強い傾向がある。もっともこれは、日本的組織にだけ
  見られる傾向ではないが、こうした傾向が強いところでは、批判即人格攻
  撃と受け取られてしまうだろう。しかしそうであるからこそ、行動や、思
  想と人格を切り離し、たとえ理論が誤っていたとしても、「われわれの代
  わりに理論を死なせる」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されて
  くる。

  (同上)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 顕正居士さんのご提案については、他の方からもご意見をお伺いできれば幸
いです。



Re: 仏教とはなにか ( No.25 )
日時: 2002/10/25 18:09
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>


顕正居士さん、初めまして

横から失礼ですが、少々補足説明させて頂きたいと思います。

>「二乗不作仏」という教義が最近に出来たのか?です。「二乗」とは仏教の出家者、大乗経の物語の中では釈尊の直弟子のことです。「教学のみで行動が伴わない人」と、どう意味が重なります?それもどうでもよい、遺文はもう創価学会では読まないのでしょうか?

学会教学では、開目抄等を学ぶ際、『爾前・権経は「二乗作仏」を隠した上に二つの失あり』との御文から、二乗作仏を習う際に付随して二乗不作仏をも習います。
二乗不作仏の説明として、学のみにして行が伴わない、或いは信の無い人は成仏出来ないと教わる訳です。
因みに、行が伴わないとは、信が足りない事をも意味し、二乗とは十界の二乗です。

また、その際の衣文とは、以下の通りです。
『総じて成仏往生のなりがたき者・四人あり第一には決定性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・第四には謗法の者なり、此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云うなり(法華経題目抄944)』
『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし(諸法実相抄1361)』
『有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし(新池御書1443)』
『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。(日女御前御返事1243〜4)』
『一切の声聞 及び辟支仏は 此の経の中に於いて 力及ばざる所なり汝舎利弗すら 尚此の経に於いては 信を以って入ることを得たり 況や余の声聞をや(妙法蓮華経譬喩品第三)』



Re: 仏教とはなにか ( No.26 )
日時: 2002/10/25 21:45
名前: 顕正居士



>私としては、《あまり知られていないからこそ紹介したい》という気持ちも
>あるのですが、いけませんでしょうか。

サイトで紹介されるのは訪問者へのサービスですが、掲示板上の意見に係わる
なら、賛成するでも、反対するでも読んだ上でないと出来ない、一人か二人
しか読んでいない本をまず読めといったら、実際上、多数が参加できない。
意見の根拠としてWEBに存在する文章にリンクするなら無問題です。誰もすぐ
に見られるのですから。

>そこはひとつ、《学説》と《それを生み出した者の人格》を区別して、
>「あ〜こ〜」いって頂けるとありがたいのですがダメでしょうか。

『印度学仏教学研究』等が、WEBに全部あったりする状況なら、不可能では
ありませんし、意見を読んだ方も、資料をすぐに見、判断することが出来る。
《学説》と《人格》のことではなく、《学説》を紙の資料を捜して確認する
ことを云っております。しかし現代の研究者や著者の紙の資料は著作権が
存在するので、WEBに近い将来にアップされることも期待できない。

>他人のご業績を奪わないためにどうしてもお名前を挙げざるをえないのです

文献学の論文は、原資料を引用して本文を書き、副次的な資料の引用や参考
にした研究者の著作、論文は本文が終わったあとに注記します。文芸評論の
ように現代人の著書や雑誌原稿をおびだだしく引用し、あいつはこう書いて
おり、こいつはああ批判し、等の井戸端はしません。故に自分が思いついた
んでないことは、そうわかる程度でよく、むろん、サイトにさわりの引用が
あれば、訪問者へのサービスでありましょう。しかし援用資料に意見を言う
にはその本一冊くらいは読む必要があり、意見は本文に対していえば十分
という書き方が好ましいとおもうのです。

>勝呂先生の場合には、《思想を同じくするもののグループ》という程の
>意味で「教団」という言葉を使われているということなのでしょうか。

ナランダ寺という学院に唯識についての学説を異にするAのグループとBの
グループがあったとする。そのそれぞれを「教団」という人は普通いない。
戒律(教団規則)を異にする、すなわち別個の団体である場合、「教団」
あるいは「教団分派」というはずである。

「声聞たちが小乗教団を離脱して大乗に転ずることを求めている」という
表現からは、やはり別個の団体の意味で云っているようにおもう。しかし
それなら独立した大乗教団は存在しなっかたという表現とは矛盾する。
「小乗教団を離脱」するというのを、具足戒を捨てて単に還俗する意味に
解しても、菩薩戒を受ける意味に解しても、そのような表現は法華経に
存在しない。だいいち、法華経は在世に仮構してあるのだから、「教団を
離脱」などが表現されるはずがない。声聞授記を「廻小向大」であるとし、
それが一転、当代のことになり、不対等合併の呼びかけである意味にしか
とれない。それでは「二乗不作仏」(小乗教団の独立的存在性を否定)を
法華経はさらに強調している意味になってしまう。法華経は自己満足的の
カルト集団が作製したのであろうという方はいる。それと同じ理解をし、
かつそのことを肯定的に評価するとしたら、一般の法華教学とはぜんぜん
違う、そうも読めるので「原理主義」(トンデモ、タリバーン同様の意味)
と云ったのですが。法華経の創作意図が釈尊教団からの分離を強化する目的
にあったなら、説主を釈尊にする必要がないし、アーガマ仕掛けの工夫が
何の為かわからない。この辺の文意はやはり解釈が困難です。

*権威的の側が小規模で、新興勢力が大規模なら、高圧的不対等合併、いや
脱会が前提であるなどと言うことがあろう。現にあるから。



Re: 仏教とはなにか ( No.27 )
日時: 2002/10/25 23:08
名前: 顕正居士



惣流さん。はじめまして。

爾前・権経には素晴らしい内容があっても、「二乗不作仏」という大欠陥が
あった、法華経には細かな教義はないが、「二乗作仏」と「久遠実成」が
表現され、爾前・権経の欠陥がない、これが普通の法華経の理解ですね。
「二乗」が何であるかとりあえずおいて、「二乗」の方々も作仏するよと
いうなら、変でありません。「悪人正機」にたとえれば、「二乗正機」が
法華経であるともいえ、類似した表現は遺文にあるとおもいます。だから
「学のみにして行が伴わない」方々が「二乗」に似ているとしたら、その
方々は間違いなく作仏するんだよ、といわないと変であるとおもいます。

「二乗」というのは舎利弗とか阿難とか、釈尊の直弟子のことで、ひろく
いえば釈尊教団の出家者です。だから喩えをいうなら、「僧侶」とか、
「幹部」とかでないでしょうか?
大乗経の釈尊教団批判は「爾前・権経」の内容ですから、その妥当性は
おいて、「二乗」に似た在り方を探すと、「学のみにして行が伴わない」
方々は違うようにわたしにはおもえます。釈尊教団の出家者の方々は熱心
に修行されるが、学問が足らず、維摩居士に突っ込まれたりする、また
社会生活に疎いゆえ、その智慧に限界がある、こういう批判と思います。
だから、教学の学習はするが、一般の勉強をしない、勤行や活動はするが、
ビジネスに熱心でない、社会活動には興味がない、ゲームもしたことが
ない、こういう方々に当てはまるんでないでしょうか?この場合も、
「二乗正機」だから、それでも当分はよいんだよ、のはずです。教団の
教学や活動が「実大乗的」であるなら、消極的な方々も次第に感化される
だろうし、人生には内向きの時期も必要でありますから。

「学のみにして行が伴わない」のは「文字の法師」といい、「行のみにして
学が伴わない」のを「暗誦の禅師」といいます。ただし「行学相資」は
行学を並行しろの意味ではありません。ある時期は行だけ、ある時期は学
だけと分けたほうが効率がよく、比叡山の「篭山修行12年」は区分けが
されていた。何事にもあてはまるんでないでしょうか。たとえば囲碁で
漫然と棋書を読み、碁会所に通っても、棋力がアップしなくなる時期が来る、
その時は実戦を止め、棋書のみを読めと云います。筋をよくする必要が
あるから。中盤の「読み」が足らない場合には、棋書を読んでも効果がない、
実戦しかない。



顕正居士さんへ ( No.28 )
日時: 2002/10/26 00:06
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>26

> サイトで紹介されるのは訪問者へのサービスですが、掲示板上の意見に係わ
> るなら、賛成するでも、反対するでも読んだ上でないと出来ない、一人か二
> 人しか読んでいない本をまず読めといったら、実際上、多数が参加できない。

 《本全体を読まないと賛成も反対もできない》というようなケースはたしか
にあるでしょうね(逆に、引用だけでまにあうケースもあるとは思いますが)。

 学者どうしで議論するというのであれば(WEB上での議論であっても)、相手
に「紙の資料を捜して確認する」ことまで要求していいのかもしれませんが、
ここはそういう場所ではありませんね。顕正居士さんのおっしゃりたいことが
少し理解できたような気がします。とはいっても、私はこれからもいろいろと
引用するとは思いますが(汗)。でも、できるだけ、この掲示板が開かれた掲
示板になるように配慮していきたいと思います。

> ナランダ寺という学院に唯識についての学説を異にするAのグループとBの
> グループがあったとする。そのそれぞれを「教団」という人は普通いない。

 この場合はおっしゃるとおりでしょうね。ただ、法師(民衆に対する布教家)
が仏塔を中心に活動していたとして、そういうところで、特異な学説が発達し
ていったら一体どういうことになるんでしょうか。仏塔の意義をどの程度認め
るかは小乗教団によっていろんな形があったようですが、小乗教団の側からの
位置付けが低い場合には、やはり現場の信仰との間に温度差が生じますよね。
法華経を作った人たちのグループの場合には、折り合いがつかずに、最終的に
は追い出されるというところまでいっちゃったんじゃないでしょうか。で、そ
ういう体験などをもとにして法華経を作ったんじゃないでしょうか。「數數見
擯出。遠離於塔寺。」とかいってますし。そこまでいくと、もう「教団」とい
ってもいいと思います。でも、そういう「教団」がその後どういう運命をたど
ったのかはよくわかりませんね。

> 法華経の創作意図

 《自分たちを追い出した小乗教団も含めて、われわれは一切の衆生を救済す
る道を歩もう。それが釈尊の精神を生きるということだ。釈尊の精神を生きる
われわれこそが真の釈尊教団なのだ。あらゆる難にたえて釈尊の精神を体現し
ていこう。釈尊は常に


Re: 仏教とはなにか ( No.29 )
日時: 2002/10/26 01:52
名前: 顕正居士


>小乗教団
「小乗」という語を使用しないようにしたい。使用しないことはすでに日本の
社会の約束になっています。新聞等では「上座部」というが、今は上座部しか
ないからで、歴史を述べる際には「部派」などが使われます。しかし「部派」
は異部が議論していた時代のイメージが伴い過ぎる、わたしは「釈尊教団」と
端的にいうのが正直であると考えます。

>そういう「教団」がその後どういう運命をたどったのかはよくわかりませんね。
邪馬台国よりわからないことだから、何を云っても空想であるし、賛成も反対
もされないですね。賛成も反対もされないのは、反証不可能だからで、文芸や
漫画の材料にはなっても、意見にはなり得ないです。

「大乗仏教発生史」は今はLibraさんのほうが新しい本を読まれるように思う
から、わたしの整理に問題があるとお考えの場合、指摘なさってください。

わたしの整理は、仏塔や部派と大乗の関係は要するにわからない、しかし
龍樹出世の時には、初期大乗経典の原型が出来ていた。羅什の「龍樹菩薩伝」
には、その頃に「大乗仏教」や「大乗教団」があったと書いてない。有部で
出家した龍樹はやがて釈尊の教は不完全のものと判断し、自分が完成しようと
試み、大いなる考察に入った。しかし定を出た際には、根本的には誤りでない
と認識が変わっていた、とある。だから「大乗仏教」はやはり龍樹の創唱宗教
であり、その以前の段階は「前大乗仏教」というべきでないかとおもう。
「龍樹菩薩伝」では大乗経典は龍樹が竜宮などから将来したという。これは
大乗経典が流布したのは龍樹以後であり、かつその内容について龍樹は有益と
認めた、あるいは認めたはずである、という意味に解釈できる。即ち、
「大乗仏教」は「釈尊教」に対する「龍樹教」であり、「前大乗仏教」と直接
の関係はない、龍樹と大乗経典の関係は「大智度論」が羅什将来で、インドの
文献に一切引用が無く、羅什の発言を信用はできない、「竜宮」でもあるし。
龍樹以後、確立したインド大乗仏教、後継したチベット大乗仏教では無名者作
の大乗経典を学習の基本教材にしない、中国仏教と其所が全然違う。



Re: 仏教とはなにか ( No.30 )
日時: 2002/10/26 04:16
名前: 顕正居士



法華経の創作意図

Libraさん-《自分たちを追い出した小乗教団も含めて、われわれは一切の衆生
を救済する道を歩もう。それが釈尊の精神を生きるということだ。釈尊の精神
を生きるわれわれこそが真の釈尊教団なのだ。あらゆる難にたえて釈尊の精神
を体現していこう。釈尊は常にわれわれとともにある。》ということなんじゃ
ないでしょうか-

これはLibraさんが今の創価学会に期待する事柄の投影におもえます。
「自分たちを追い出した日蓮正宗も含めて」なんてなっていないでしょう。
「擯出」されたら、そんなことを思えない、大きな創価学会が小さな日蓮正宗
に「擯出」されても思えないのを、逆の関係で思えるでしょうか?
邪馬台国よりわからない事柄だから、意見でなく空想、文芸や漫画のシナリオ
として「より必然性のあるストーリー」の意味です。「二乗不作仏」をいい、
釈尊の直弟子を居士がやっつけたりする物語を作っていたグループのほうが
さっさと「擯出」されたはずです。「三車家」と「四車家」をご存知ですね。
法華経の「一乗」は「菩薩乗」をいうのか、「仏乗」をいうのかの議論です。
「四車家」(天台宗)が議論を制した。すなわち、菩薩、縁覚、声聞の三乗、
さらにいえば天、人を含めた五乗、これらは格別の様相であるままに「仏乗」
であるという解釈です。法華経では声聞を退治するどころか授記し、菩薩
(大乗パンテオンの高位の神格)をからかうことはある。砂で餅を作った童子
は転輪王になった。こういう闊達な思想の表現は背景に教団なんかないゆえと
想像します。法華経が原理(トンデモ)思想に類似しているとか、何らかの
ルサンチマンが表現の背景にあるという説はわたしには同感できません。
日本天台宗、日蓮宗諸派、新興宗教を投影した空想におもえます。ではなんで
そういう勢力の依経になったんだ?法華経の無罪を主張する顕正居士の弁護は
客観性を装う護教理論だ!と云われるか知れないが、では「新約聖書」を
製作した人たちには、何らかのルサンチマンが表現の背景にあり、ものみの塔
の活動に責任があるのか?ジグムント-フロイドは「ポストモダン」の跋扈に
責任があるのか?「相対性理論」、「不完全性定理」を材料にトンデモを云う
やつらが活動するのはアインシュタインやゲーデルの隠されたルサンチマンの
暴露か?と応えたい。わたしは法華経の原型を製作したグループには教団的の
背景がなかったと空想します。仏教が好きでも、仏教徒ですらないメンバーが
いたかも知れない。仏の称号に自生者(svayanbhu-)を堂々と付加する。密教
の最初の経典であるのだという解釈にもいわれはある、そうおもわれたから
呪文(雑密)を中心の章が追加されたんであろう。具体的に、創作が継続した
仕組はいま空想しないが、「2チャンネル」みたいに、面白ければ受け、時々
に編集された可能性もあるかとおもう。



No.29へのレス ( No.31 )
日時: 2002/10/26 08:02
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>29 顕正居士さんへ

> 「小乗」という語を使用しないようにしたい。使用しないことはすでに日本
> の社会の約束になっています。〔中略〕わたしは「釈尊教団」と端的にいう
> のが正直であると考えます。

 私も、「小乗」という語を蔑称として用いたわけではないのですが、やはり、
「部派」という語を使うべきだったと思います。「釈尊教団」という語につい
てですが、部派もたしかに「釈尊教団」にちがいないと思いますが、「大乗教
団」といえるものがもしあったとすれば、それも「釈尊教団」だろうと私は思
います。

> 仏塔や部派と大乗の関係は要するにわからない

 永遠に謎なのかもしれません。

> 龍樹と大乗経典の関係は「大智度論」が羅什将来で、インドの文献に一切引
> 用が無く、羅什の発言を信用はできない

 「大智度論」を龍樹作と認めるかどうかで、「大乗教団」についての見方は
かなり変わってくるだろうと思います(もちろん、「龍樹作と認める」といっ
ても、羅什の加筆がかなりあるということは認めざるをえないと思いますが)。
私はラモット先生や干潟先生の議論すら追跡していませんので、何もいうこと
ができません(涙)。勝呂先生は「大智度論」を龍樹作と認める立場で考えて
おられるわけですね。



法華経とルサンチマン ( No.32 )
日時: 2002/10/26 08:05
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>30 顕正居士さんへ

> 「擯出」されたら、そんなことを思えない、大きな創価学会が小さな日蓮正
> 宗に「擯出」されても思えないのを、逆の関係で思えるでしょうか?

 私は《ふつうなら思えないことを思った人たちがいた》と信じているわけで
す。そして、自分もそう思いたいと考えるわけです。あるいは、法華経を作っ
た人たちも、本当に心の底からはそう思えなかったのかもしれません。《現実》
ではなく、自分たちの《理想》を綴ったのかもしれません。

> 釈尊の直弟子を居士がやっつけたりする物語を作っていたグループのほうが
> さっさと「擯出」されたはずです。

 そういう物語は擯出された後に作られたのかもしれませんね。

> 「三車家」と「四車家」をご存知ですね。

 他の掲示板でも軽く触れたことがありますが、なかなか難しい問題だと思っ
ています。

  掲示板「創価学会をみんなで考えよう」、スレッド「仏教の源流から」、No. 406
  http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html#406

> すなわち、菩薩、縁覚、声聞の三乗、さらにいえば天、人を含めた五乗、こ
> れらは格別の様相であるままに「仏乗」であるという解釈です。

 「格別の様相であるままに」といっていいかどうかは解釈が分かれるところ
だろうと思います。法華経は《格別の様相である者も、みんな最終的には(真
の)菩薩となって必ず成仏する》ということをいうわけですが、《最終的に菩
薩となる》といういい方で、《人格の転換》のようなものを要請しているのか
もしれません。《最終的に菩薩になる》というのは、《もともとは菩薩であっ
たことに最終的に目覚める》というような巧妙ないいかたもされるわけですが。

> 法華経が原理(トンデモ)思想に類似しているとか、何らかのルサンチマン
> が表現の背景にあるという説はわたしには同感できません。

 法華経は「ルサンチマン」とは正反対の思想を表明しているというのが私の
印象なんです。創価学会は「自分たちを追い出した日蓮正宗も含めて」なんて
いっていませんので、これはもう「ルサンチマン」でしょう。しかし、法華経
は、今の創価学会とは違って、「自分たちを追い出した小乗教団も含めて」と
いっていると思うのです。

> わたしは法華経の原型を製作したグループには教団的の背景がなかったと空
> 想します。

 《仏教の伝統からいって、経典が創作されるためにはかならず「教団の承認」
というプロセスが必要だから、「教団」といえるようなものがあったにちがい
ない》という空想もありえるでしょうね。

 空想はこれくらいにしておいた方がよいのかもしれませんね。



Re: 仏教とはなにか ( No.33 )
日時: 2002/10/26 17:00
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>



顕正居士さん、今日は

私は、法華経にも『二乗不作仏』という思想があると思っています。
『一切の声聞 及び辟支仏は 此の経の中に於いて 力及ばざる所なり 汝舎利弗すら 尚此の経に於いては 信を以って入ることを得たり』
上記の文は、学のみでは作仏しないとの指摘であり、信がないとの条件に於いて『二乗不作仏』を説いているものであると思いますが如何でしょうか。

二乗作仏には、絶対条件として『信』が要求されるのでしょう。
しかし、信とは本人以外に計り知る事の出来ない要素であります。
とは言え、信が深まり自行が充足すれば、化他行へと向うのは道理です。
故に、『学のみにして行が足りない人』が的にされるのであろうと思います。

また、『二乗』とは、声聞・縁覚であり、現在の我々(今までに私に縁した学会員等)の認識では、声聞とは『勉学に励む探求者』、縁覚とは『発見者・研究者』との認識であり、即ち二乗を総称して学者と認識しています。
因みに、上記認識の下では、御書を継続的に勉強する私も二乗です(笑
もしかすると、殆どの学会員が当て嵌まるのかも知れませんね^_^;)

顕正居士さんの疑難とは、このあたりの認識に対してであると思います。
二乗の本来の言われを御聞きすると、確かに疑問ですね(^_^;

>教学の学習はするが、一般の勉強をしない…こういう方々に当てはまる

御聞きしたところでは、私も上記提言に賛成致します。
そもそも二乗と十界の認識形成に問題があるのでしょうね。

>ある時期は行だけ、ある時期は学だけと分けたほうが効率がよく…

これは、少々意味合が違うかも知れませんが、私も常々訴えている事なのです。
自行に専念する次期が必要であり、自行の充足なくして真の化他行はないと。
特に、学を含む自行は、集中期間無くしては、なかなかレベルアップ出来ません。
また、私自身もそのようにして、今日まで修行してきました。

囲碁の喩えは解り易いですね♪ 相当な実力ではないのですか?
将棋であれば、一手御指南頂きたいところなのですが♪
将棋でも同様に、対局ばかりではレベルアップ出来ません。
プロの対局を研鑽した後に、大局観が磨かれ、勝てなかった相手に勝つ事もあります。
何事も、行学を立て分ける時期・期間は必要であると思います。

私のような小僧への御教授、有難う御座いましたm(_ _)m



惣流さんへ  ( No.34 )
日時: 2002/10/26 21:39
名前: 今里 祐二



お久しぶりです。お元気そうですね。
僕の方は、以前惣流さんやお仲間の方たちとしていた議論の内容が
御宗門の方で問題視されて、現在は末寺にも出入り出来ない身分ですが、
元気です。
http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/400.htm
http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/200.html

横レスで申し訳ありませんが少しだけ・・・
>>33
>二乗作仏には、絶対条件として『信』が要求されるのでしょう。

わざわざ指摘するまでもないことですが、二乗に限らず六道の衆生においても
『信』が絶対条件でしょう。
(ちなみに菩薩については、僕には『信』の無い菩薩がいるとは考えられません。)

>しかし、信とは本人以外に計り知る事の出来ない要素であります。
>とは言え、信が深まり自行が充足すれば、化他行へと向うのは道理です。

『信』は成仏するための絶対の条件ですが、その『信』が正しいかどうかは
常に検証され、反省され続けるべきだと思います。

仮定の話ではありますが、
間違った『信』が深まり自行が充足した人が、化他行へと向かっていたら・・・

僕は、Libraさんから紹介していただいたポパーの言葉
「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」
を思い浮かべてしまいます。

それでは、これからもよろしくお願いします。




「地獄への道は善意で舗装されている」 ( No.35 )
日時: 2002/10/26 22:23
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>34 

> 僕は、Libraさんから紹介していただいたポパーの言葉
> 「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」
> を思い浮かべてしまいます。

 「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」というのはわりと有
名な言葉ですが、ポパーの言葉ではありません。私のせいで、誤解されたよう
で、今里さんには申し訳ないです。私が知る限り、最初に言ったのはマルクス
です。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  では、「地獄への道は善意で舗装されている」と言ったのは、いったい誰
  なのでしょうか。前出の倉田卓次氏が調べたところによると、ドナルド・
  アダムズ編『重要引用句集成』(1960)では初出・カール・マルクス著『資
  本論』(1867)と記されているとのことです。

  『資本論』では、10ポンドの撚糸の価値15シリングが、10ポンドの綿花の
  購入に要した費用10シリングに、消費された紡錘の価値2シリングと労働
  者への賃金3シリングを加えたもの(つまり前貸ししたもの)にすぎない、
  という資本家の言い分を揶揄して、「俗流経済学に通じている資本家はお
  そらく言うであろう。自分は自分の貨幣を、これでより多くの貨幣を作り
  出すつもりで、前貸ししたのだ、と。しかし、地獄への道は、種々の良き
  意図で舗装されているのであって、彼は同様に、(たとえば株式や先物へ
  の投資など)生産することなしに儲ける意図をももちえたのである。……
  しかし……生産物の価値は、投入された商品価値の総額に等しいだけであ
  る……。……彼はこのような長い繰り言で、われわれを愚弄したのである」
  (向坂逸郎訳(1969、岩波文庫)31頁以下。( )内は筆者)と述べたうえで、
  このような説明は意図的に労働力の交換価値のみを強調し、その使用価値
  を覆い隠すものだと批判する。

  (二羽和彦「あまりに悲劇的な逆説-東京裁判での最終弁論-」、
    http://www.takaoka.ac.jp/zatsugaku/011/niwa_3.htm)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



Re:「地獄への道は善意で舗装されている」 ( No.36 )
日時: 2002/10/26 22:51
名前: 今里 祐二



>>35 Libraさん

お手数をおかけして申し訳ありません。(高卒なんで…許して(笑)

そのような意味の言葉はどこかで聞いたような気はしたのですが、
てっきりポパーだと思い込んでしまいました。

それにしても最初はマルクスだったんですか……、
チョット複雑な気分ですね。
結果的にマルクスも舗装しちゃったからなぁ…

ではでは




Re:「地獄への道は善意で舗装されている」 ( No.37 )
日時: 2002/10/26 23:00
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>36 今里さんへ

> そのような意味の言葉はどこかで聞いたような気はしたのですが、
> てっきりポパーだと思い込んでしまいました。

 すいませんでした。すべて私の責任です。

> それにしても最初はマルクスだったんですか……、
> チョット複雑な気分ですね。
> 結果的にマルクスも舗装しちゃったからなぁ…

 まさに逆説的ですね(笑)。それだけ危険な罠だということだと思います。



Re: 仏教とはなにか ( No.38 )
日時: 2002/10/27 03:31
名前: 顕正居士



惣流さん。なるほど。

>私は、法華経にも『二乗不作仏』という思想があると思っています。
「二乗」のまま作仏するのでなく、菩薩になって作仏する意味でありますね。
「廻小向大」(廻心向大)といって、以信得入の経文はそういう意味に
解釈されています。
参考-『菩薩もどき』
http://www.sousei.gr.jp/sinbun/rita2.html
しかしこれは「三乗真実・一乗方便」の法相宗の考えでありまして、
三乗の中の菩薩乗(白牛車)と一乗(大白牛車)とは異なるのですから、
その一仏乗をまた菩薩乗ということがあっても、三乗の中の菩薩乗では
ないから、五乗(菩薩、縁覚、声聞、天、人)のままに一仏乗を目指す別の
意味である、曼荼羅の中の尊は十界の方々のままに、菩薩である、
と解釈しないと変であるとわたしは考えます。
「初め三車を以て諸子を誘引し、然して後に但だ大車を与ふ」(譬喩品)
参考-『本当の教えは一仏乗』
http://www5.ocn.ne.jp/~ono13/page32.html

>声聞とは『勉学に励む探求者』、縁覚とは『発見者・研究者』
戸田城聖氏が何かの本で人界の中の十界をそう説明していたように覚えて
います。「縁覚」は釈尊が大悟し、説法をされる前の自受法楽の期間をもとは
指し、「声聞」は釈尊の弟子で、釈尊の教え(声)を聞いて学習する人々を
いうから、この喩えも変ではない。しかし勉学に励む段階は「自行」であるが
研究者、教師の段階は社会活動であるから、「学者が二乗」は変ですね。
研究者もビジネスマンもプログラマーもみな「菩薩」でしょう。「給料泥棒」
以外は。税金やお布施が生計である職業にはいろいろあるでしょうが。



Re: 仏教とはなにか ( No.39 )
日時: 2002/10/27 07:24
名前: 顕正居士



南海寄歸内法傳

ところで勝呂師の著書にいう義浄の文章とは以下のことです。

北天南海之郡。純是小乘。神州赤縣之郷。意存大教。自餘諸處大小雜行。
考其致也。則律檢不殊。齊制五篇通修四諦。若禮菩薩讀大乘經。名之為大。
不行斯事號之為小。所云大乘無過二種。一則中觀。二乃瑜伽。

北天ト南海ノ郡ハ純(もっぱ)ラ是レ小乘。神州赤縣ノ郷ハ。意(こころ)
ニ大教ヲ存ス。自餘ノ諸處ニハ大小雜(まじ)リ行ハル。其ノ致(おもむ)キ
ヲ考フルニ。則チ律檢殊ナラズ。齊シク五篇ヲ制シ通ジテ四諦ヲ修ス。
若(も)シ菩薩ヲ禮シ大乘經ヲ讀マバ。之ヲ名ヅケテ大ト為ス。斯(こ)ノ
事行ハレザレバ之ヲ號シテ小ト為ス。所云(いわゆ)ル大乘トハ二種ニ
過ルコト無シ。一ハ則チ中觀。二ハ乃(すなわ)チ瑜伽ナリ。

註 
1 神州赤縣之郷-普通は中国を指す言葉である。今は中天竺の意味か?
2 律檢不殊-「檢」は原文は手偏。意味は同じで、「律の規定」だろう。

大乗小乗はただ菩薩を礼拝し大乗経を読むか否かの相違に過ぎないと云う。
又、行われている戒律は有部律と他に3種、合計4種であるとこの文章の前
にいうが、今は「律檢不殊」というから、ローカル・ルールの差であると
みなしたのだろう。

『南海寄歸内法傳卷第一』
http://cbeta.budaedu.org/result/app/T54/2125_001.htm



長者窮子の譬話 ( No.40 )
日時: 2002/10/27 08:02
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>32 

 顕正居士さんには相手にして頂けなかったようなので自己レスです(涙)。

>  「格別の様相であるままに」といっていいかどうかは解釈が分かれるところ
> だろうと思います。法華経は《格別の様相である者も、みんな最終的には(真
> の)菩薩となって必ず成仏する》ということをいうわけですが、《最終的に菩
> 薩となる》といういい方で、《人格の転換》のようなものを要請しているのか
> もしれません。《最終的に菩薩になる》というのは、《もともとは菩薩であっ
> たことに最終的に目覚める》というような巧妙ないいかたもされるわけですが。

 長者窮子の譬話などをみると、やはり、法華経は《人格の転換》のようなも
のを声聞に求めているように思います。《真の声聞として目覚めよ》という感
じでしょうか。

 法華経が声聞授記という形でかたろうとしたのは、《現在の声聞(部派教団)
は、真の声聞(原始釈尊教団?)のありかたからは逸脱してしまっているので、
本来のありかたを取り戻してほしい》ということだったのかもしれません。そ
れを、《釈尊の直弟子ですら、実は本来のあり方から逸脱していたのだが、法
華経を聞いて本来のあり方を取り戻して成仏した》という形で、釈尊在世の話
としてシフトさせて説いたのではないかと。そう考えると、「二乗作仏」と
「久遠実成」が《原点復帰》ということでつながってくるように思います。



Re: 仏教とはなにか ( No.41 )
日時: 2002/10/27 12:46
名前: 顕正居士



回心向大

「小乗」という語は不適切であるから、宇井伯寿は「自利教」と言換えたの
ですが、かえって誤解を増やしたかも知れません。南方仏教が「自利」だけ
で「化他」をしないなら、そういう宗教が存続するわけがないのですから。
「自利教」は教祖釈尊のように、まず自らが悟達し、しかるのちに人々を
教導する教えの意味でありましょう。教導の意味ではまことにそうあるべき
で、「地獄への舗装」に貢献する結果になっては、仕方がありません。
「回小向大」の教義を北伝仏教と南伝仏教に応用するのは、どんな意味でも
正しくありません。小成に安んぜず、さらに向上を目指せよ、との個人への
教訓と理解する分にはかまわないでしょう。

三乗の意味

ひろく解すれば、菩薩とは菩提心を発し、四つの願いを誓った者をいう。
声聞とは具足戒を受けたものである。ハルシャ-バルダナの時代においてすら、
戒律に幾分のローカル・ルールがあるのみで、一大教団であったのならば、
大乗経中の声聞、菩薩の対立を大小両教徒の対立の投影とみなす解釈は
誤った空想である。三乗の意味をしかくひろく解せず、経文の通りに解せば、
声聞は実在の聖人、菩薩は架空の神格であるから、菩薩信仰を有するか否か
の違いであり、架空の事柄について幾ら空想的のことを云っても、直ぐには
争いにならぬであろう。菩薩を信仰する在家信者が少数でないなら、方便と
して黙視することがあろう。誘導する啓蒙に、有部、中観、唯識の3種あり、
議論は活発でも、対人的の争いは無かったと、義浄は述べている。

欧州の宗教戦争の歴史を応用し、インド宗教の教義も教団抗争の投影である
に違いないという作業仮説が、根本的の誤りであるんではなかろうか?



Re: 仏教とはなにか ( No.42 )
日時: 2002/10/27 14:50
名前: 今里 祐二 <imachan@hm5.aitai.ne.jp>
参照: http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html



このスレッドのテーマである「仏教とはなにか」ということについて、
簡潔に説明した文があるので紹介します。(僕のお気に入り)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
仏教とは如何なる事であるか。喧しい内部の詮索を抜きにすればこれ程自明の事は無いであろう。つまり・抜苦の為に、悟った仏陀が仏の方から迷っている衆生の方へ<悟りへの道筋を教え示す>という事だからである。

 結果は與楽(よらく)となる。三世の諸仏は皆そうなのだが、この為に仏陀は悟ったその刹那から衆生の方へ面(おもて)を向け変えている。その仏陀に取っては(初めに中道在りき)である。これを果位の立場と言う。

 これに引替えて衆生の方はどうか。衆生の面(おもて)は人により時により・あちらへ向きこちらへ向いて一向に定まらない。<初めに迷妄在りき>という態(てい)である。こうした衆生の手中には<虚仮(仮有)>しか無い。だが発心するや否や仏道修行の仕始めから仏陀へ面を向け変えている。これを因位の立場と言う。

 こうして仏陀と衆生との<対坐>が成立する。仏は衆生の方へ慈悲と無上無分別智慧つまり般若の光を投掛けて、道を照らし衆生を励ます。衆生はその光に導かれて仏の方へ真直ぐに視線を向けて進み出す。因から果へ……これが衆生の取るべき・取得る・唯一の道となる。

(石田次男・本橋雅史「現代諸学と仏法」)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


現実の部派教団との緊張関係 ( No.43 )
日時: 2002/10/27 17:43
名前: Libra



>>41

> 欧州の宗教戦争の歴史を応用し、インド宗教の教義も教団抗争の投影である
> に違いないという作業仮説が、根本的の誤りであるんではなかろうか?

 義浄が報告している七世紀頃の状態についてはおいておくとして、法華経そ
のものの記述によって考えてみると、法華経を作った人たちのグループに対し
て、部派教団側からの迫害のようなものがあったと考えるのは自然だろうと私
は思います(「勧持品」「常不軽菩薩品」)。ただし、法華経では、そういう
迫害に対しての《対抗》というようなものは否定されています。むしろ、自分
たちを迫害してくるような人も含めて、すべての人が成仏するということを本
気で目指しているように思います。こういう部分が法華経の真骨頂だろうと私
は思っています。

 また、法華経は、《現在(法華経成立当時)の阿羅漢》と《仏在世の阿羅漢》
を異質なものとして対立させて説いているように思います。仏の口から法華経
を直接聞く阿羅漢は必ず信じるが、仏滅後の阿羅漢(すなわち現在の部派教団
の人たち)はそうではないと(「方便品」)。こういう部分にも、現実の部派
教団との緊張関係があらわれているように思います。



「現代諸学と仏法」 ( No.44 )
日時: 2002/10/27 17:56
名前: Libra



>>42

 今里さんのお気に入りの一節をご紹介下さいましてありがとうございました。

 私も「現代諸学と仏法」をずっと読みたいと思っているのですが、まだ出会
えません(涙)。


Re: 仏教とはなにか ( No.45 )
日時: 2002/10/27 18:51
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>43
>ただし、法華経では、そういう迫害に対しての《対抗》というようなものは
>否定されています。むしろ、自分たちを迫害してくるような人も含めて、
>すべての人が成仏するということを本気で目指しているように思います。
>こういう部分が法華経の真骨頂だろうと私は思っています。

これが本当の法華経の智慧ではないかと思いました。
それに対してある教団では下記を仏敵(迫害者)攻撃の依文としています。

「涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば
当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ
我が弟子真の声聞なり」云云」
(「阿仏房尼御前御返事」、全集、p.1307)

この件ではLibraさんの下記の指摘があります。

折伏は慈悲が根本 
http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html
「すなわち、折伏とは「相手をやっつけよう」と思ってやるものでは絶対にない
のであって、あくまでも“慈悲”が根本なのである。」

私も多分にその部類ですが「法華経読みの法華経知らず」ということがあるのでしょうね。



Re: 仏教とはなにか ( No.46 )
日時: 2002/10/27 19:31
名前: 顕正居士



>この掲示板の主たる目的は、
>《創価学会をより良いものに変えていくにはどうすればよいか》

ではないのですか?わが国で最多の信者を有するであろう宗派の創価学会が
より良くなることは、国民に福利であります。だからわたしはLibraさんを
含め、創価学会員さんの意見に興味があり、参加しています。創価学会は
仏教を自称しているのだから、「仏教とはなにか」という話題は避けること
ができないでしょう。しかし、「仏教とはなにか」という話題自体は直接に
創価学会と関係がありません。創価学会が法華教学や日蓮教学と無関係の
カルトであるか否か、「二乗不作仏」、「三車説」なんかができたのか、に
興味が生じましたし、「十界互具」や、「折伏・摂受」、「自行・化他」等、
創価学会で日常に使用されている言葉の、創価学会員さんの理解に関心が
あります。Libraさんには空想や戯論(けろん)を控え、地(創価学会をより
良いものに変えていく)に足が着いた投稿を期待します。大乗経の製作の
背景に何らかの史実を推理し、大乗仏教発生史を構想するのは、もと研究者
から出たアイデアであるが、例せば、仏塔信仰をおこなうひと達が、教団に
排除されたというストーリーを裏付ける資料は何も出ない、空想は自由だが、
反証不可能の内容に賛否をいうことは出来ない。推理不可能の事柄は推理
不可能、法華経また釈尊金口の説と仮定した智者大師は賢いゆえ「以信得入」
された。Libraさんは学習に熱心であるが、学習中に生じた思いつきを他人に
煩わしく述べるのは「妄語」である、まして「化他」などでないことを弁え
られたい。



おっしゃる通りだと思いました ( No.47 )
日時: 2002/10/27 19:52
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


>>46 顕正居士さん

> Libraさんには空想や戯論(けろん)を控え、地(創価学会をより良いものに
> 変えていく)に足が着いた投稿を期待します。
>
> Libraさんは学習に熱心であるが、学習中に生じた思いつきを他人に煩わしく
> 述べるのは「妄語」である、まして「化他」などでないことを弁えられたい。

 ご指摘ありがとうございました。全くおっしゃる通りだと思いました(汗)。
「創価学会をより良いものに変えていく」というテーマとは無関係な「学習中
に生じた思いつき」を少し書きすぎたように思います。これからは気をつけた
いと思います。

 しかし、管理人がこれでは先が思いやられますね(汗)。顕正居士さんには、
これからも、このように厳しくご指導頂ければと思います。



Re: 仏教とはなにか ( No.48 )
日時: 2002/10/30 19:37
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>



今里さん、今日は♪遅くなりましたm(_ _)m

大変そうですね、、、お元気でなによりです。
今里さんは今里さんで、使命をまっとうされているようですね。
御理解頂けているとは思いますが、、、
私の本音は、以前の議論の中終盤にあります。

フィールドは異なりますが、お互い頑張りましょう♪
因みに私は、逆に末寺に足を運びそうです(謎

>二乗に限らず六道の衆生においても『信』が絶対条件でしょう。

ごもっともですm(_ _)m

>その『信』が正しいかどうかは常に検証され、反省され続けるべきだと思います。

常に動執生疑する姿勢は大事であると思います。

>「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」

これに関しては、ネガティブシンキングの最たるものと感じています。
上記思考を規範にしては、多くの人を導く事は出来ないと思います。
現代社会に於いて、本当に困っ(悩みの域を超え)ている人は、他人からの救済を求めず、自身で最終的判断を下す可能性が高いと思います。
事実、私の知る限り、自殺等の思考に及ぶ地獄の境涯から人生を再生させたという内の体験には、殆どと言っていいほど、少々強引に関った学会員の姿がありました。

確かに、中途半端に関って、中途半端に折伏し、中途半端に信心を教える人であれば、関られない方が良かったという結果が待っていても、当然であると思います。
その上では、上記の言葉が当て嵌まる例も少なくないと思います。
要は、関る姿勢と覚悟の問題であると思うのです。

因みに、私が現代社会を見て思う事は、、、
『地獄への道は自他の無関心によって舗装されている』



Re: 仏教とはなにか ( No.49 )
日時: 2002/10/30 19:38
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>



顕正居士さん、今日は、遅くなりましたm(_ _)m

この度も、御教示頂きまして有難う御座いますm(_ _)m

『三車家と四車家』の意味は解っていても、云われを知りませんでした。
非常に勉強になります、以後も何卒宜しく御願い致しますm(_ _)m

>研究者・教師の段階は社会活動であるから「学者が二乗」は変ですね

これは性分で分ける方が妥当であると思うのですが、、、
個人に於ける学・職の概念が問題であると思います。
・学が第一義で、職は付加との認識……二乗
・職が第一義で、学は付加との認識……菩薩

唯、上記識別であれ、研究者・教師も二乗・菩薩に分かれます。
どちらにせよ、『二乗=学者』説は再考が必要のようですね。



Re: 仏教とはなにか ( No.50 )
日時: 2002/10/31 03:21
名前: 今里 祐二



>>48

>因みに私は、逆に末寺に足を運びそうです(謎

そうですか、理由はともかく寺院に参詣するのは良いことです。
「願主・池田大作」の文字を削除された本物の御本尊様に御題目を唱え
功徳をいただいてきてください。

※「願主・池田大作」の文字があった時も本物の御本尊様です。
 御宗門に対する皮肉のつもりなので誤解されないように(笑)

>>「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」

>これに関しては、ネガティブシンキングの最たるものと感じています。
>上記思考を規範にしては、多くの人を導く事は出来ないと思います。

惣流さんってホント……楽しい人ですね(笑)
「成仏への道も人びとの善意によって舗装されている」のです。
地獄への道のように広くなだらかではなく、細く険しいでしょうが……、

>因みに、私が現代社会を見て思う事は、、、
>『地獄への道は自他の無関心によって舗装されている』

「無関心」からは、道路を舗装しよう・などというバイタリティーは生まれてこないでしょう。
誤った思想・信条を持った人の「あの人を幸せにしてあげたい」という善意が
地獄への道を舗装していくのだと思います。



Re: 仏教とはなにか ( No.51 )
日時: 2002/10/31 10:04
名前: さかなこ@みっふぃーを本仏にする会会長



>「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」

こういうシニカル(?)だけど現実を客観視させるような言葉って凄く好きです〜♪♪
悪魔の辞典みたいですね〜(笑)ネタに使えそう。。(笑)

知り合いが以前に「〇〇のためにという価値観が諸悪の根源である」とか
言ってましたがそのときもなるほどーとか思っちゃいました(笑)

そういえば11月の御書学に行きます。

上野殿御消息がテーマです(全集1526)

この御書について学会的解釈以外のお話があったら何かおせーてください
m(__)mm (__)m



Re: 仏教とはなにか ( No.52 )
日時: 2002/10/31 20:27
名前: 惣流 城 <souryu222@hotmail.com>



今里さん、今晩は♪

>そうですか、理由はともかく寺院に参詣するのは良いことです。

いや、実は、『全国宗門破折会会長?』と共に住職を破折に行くのです^_^;)
大体は敬遠されるようですが、今回は、相手の住職が結構自信家との事。
未だ予定に過ぎませんが、恐らくは実現しそうに思います。

>惣流さんってホント……楽しい人ですね(笑)

有難う御座いますm(_ _)m

>「成仏への道も人びとの善意によって舗装されている」のです。

流石は今里さん♪ それですね♪
善意ではなく『無関心』を強調したいが為に、思慮が足りませんでした。
改めて、、、
『地獄への道は自他の無関心によって広がり闇夜の星が輝いている』


Re: 仏教とはなにか ( No.53 )
日時: 2002/11/01 02:43
名前: 今里 祐二


>>52 惣流さんへ

>いや、実は、『全国宗門破折会会長?』と共に住職を破折に行くのです^_^;)
>大体は敬遠されるようですが、今回は、相手の住職が結構自信家との事。
>未だ予定に過ぎませんが、恐らくは実現しそうに思います。

そうですか。正宗僧侶といえども、在家にコテンパンにやり込められれば、
少しは反省するかもしれませんね。
がんばってきてください♪



顕正居士さんへ ( No.54 )
日時: 2002/11/09 13:31
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



顕正居士さん発言集より
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/8451/taiwa/kensyou.html
>>顕正さんはどんな立場(宗派?)の方なんですか?
>  大乗仏教です。根本教理は「人法二無我」です。霊魂とか物自体は存在しないと云う立場です。

たとえ従来宗教が霊や宇宙生命の存在を意識していたとしても、私は上記の大乗仏教の
中心思想を重要と思っています。

>龍樹−月称−宗喀巴と継承する中観帰謬論証派が最高の理解であると考えます。
>ローカル(日本仏教的)には日蓮主義です。何故かと云うと浄土教は絶対者、密教は有我、
>禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
>  中で日蓮は実践的には唯色論的だからです。

御書(遺文)を拝読するとそのことが見てとれますね。

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだ
ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」
(「開目抄上」、全集、p.189)

「又仏になる道は華厳の唯心法界三論の八不法相の唯識真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、
但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」
(「開目抄下」、全集、p.234)

「像法の中末に観音薬王南岳天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して
百界千如一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の
本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」
(「観心本尊抄」、全集、p.253)

「一念三千の観法に二つあり一には理二には事なり天台伝教等の御時には理なり今は事なり
観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千此れは本門の一念三千なり天地はるかに
殊なりことなりと御臨終の御時は御心へ有るべく候」
(「治病大小権実違目」、全集、p.998)

日蓮はすべての仏教経典を釈尊の金口の説法と信じておられましたし、霊魂の存在も否定して
いないですが、それは鎌倉時代という時代の制約として止むを得ないと思います。

>縁起(釈尊)や空性(龍樹)の説は霊魂や物自体の否定で唯心論ではないが大勢はそういう
>方向が盛んになった。
>日蓮的唯色論も自然科学、社会科学的発想を促すのでなく、呪物崇拝、呪文信仰に転落して来た。
>唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想は十分現代でも信仰に価すると云う立場かな。」

「創価学会をより良いものに変えていく」ためには、「唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、
法華思想」が重要になってくると思います。この掲示板でもそのような方向でやってみては
どうかと考えておりますが、いかがでしょうか。



Re: 仏教とはなにか ( No.55 )
日時: 2002/11/09 15:50
名前: 顕正居士



>たとえ従来宗教が霊や宇宙生命の存在を意識していたとしても、私は上記の
>大乗仏教の中心思想を重要と思っています。

宗教は釈尊やイエスの「教え」でもあるが、個人的には「体験」でもある。
『予が見神の実験』
http://www.tok2.com/home/gengi/bungaku/tunashima.html
時に人はAHマズローのいう「至高体験」に遭います。新興宗教の出発は開祖の
体験であることが多い。「体験」と「教え」のごっちゃから「宇宙生命論」が
出るのでしょう。「体験」は「心理」で、「物理」でありませんから。
「至高体験」はしようと努力してできるものではないようです。
『宇宙のゴミ』
http://plan-c.fargaia.com/html/nichiren/res.cgi/000013/1-6/i

>「創価学会をより良いものに変えていく」ためには、「唯心論と迷信を払拭
>したあとに残る大乗思想、法華思想」が重要になってくると思います。
創価学会自体にそういう志向があったと考えます。しかし日蓮正宗原理信仰の
(世代的の)「縛り」のゆえか、教義、典礼、組織の改革に良案を出す幹部の
専従者は少ない(いない?)。それが創価2、3世会員の悩みでありましょう。



Re: 仏教とはなにか ( No.56 )
日時: 2002/11/09 19:03
名前: 顕正居士



要するに

『現実版・創価学会会則前文』
>釈尊に始まる仏教の慈悲と平和の精神は、大乗仏教の真髄である法華経に
>集約され、一切衆生を救う教えとして明示された。日蓮大聖人は、法華経の
>根本を三大秘法として顕され、未来永遠にわたる人類救済の道を確立された。
が、
『理想版・創価学会会則前文』
釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法華経は
万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華経の万人平等
(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国に伝え、智者大師が
両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達した法華思想を、日蓮は世界
に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこの訓えを信じるがゆえに、空性の
教義と一乗の精神とを世界に伝えたいとおもう。

ていどになれば好いんでないでしょうか?



顕正居士さんへ ( No.57 )
日時: 2002/11/09 19:48
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>法華経の根本を三大秘法として顕され、未来永遠にわたる人類救済の道を確立された。

>空性の教義と一乗の精神とを世界に伝えたいとおもう。

現在の学会の教義では「事の一念三千」=「南無妙法蓮華経」が中心思想と思います。
(この「事の一念三千」についての学会指導にも腑に落ちない点があるのですが別の
書き込みに回したいと思います)

今回は「縁起説と外道云云について」 についてご意見伺いたいのですが、いかがでしょうか。
http://www.ginpa.com/column/20001217.html
「 さらに、それが動的にダイナミックに捉えられたのが「一念三千」の法ではないでしょうか。
繰り返しになりますが、縁起説はこの一念三千の部分観にすぎません。
ですから縁起説でもって一念三千を説明することはできないと思います。
 南無妙法蓮華経を縁起説で説明しきることはできないでしょう。
縁起説で説明がつかないことは外道説なのでしょうか。」

これは妥当と言えるでしょうか。

(余談です)
「とまれ、問題は外道であるかどうかではないと思います。仏の本意はどちらにあるかでは
ないでしょうか。こういう場合の、私の判断基準は「大衆の側に立っているのはどちらか」ですね」

「大衆の側に立っているのはどちらか」という判断基準は妥当なものでしょうか。
ヒトラーも(当時のドイツの)「大衆の側に立って」いたと思います。



Re: 仏教とはなにか ( No.58 )
日時: 2002/11/09 20:20
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>『宇宙のゴミ』
>http://plan-c.fargaia.com/html/nichiren/res.cgi/000013/1-6/i
この方は「宇宙生命」から出発して無我を悟ったのでしょうか。

>宗教は釈尊やイエスの「教え」でもあるが、個人的には「体験」でもある。
学会では神秘的な宗教体験は少ないようです。
指導者の実像
http://fallibilism.web.fc2.com/note007.html



『理想版・創価学会会則前文』 ( No.59 )
日時: 2002/11/09 21:10
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>56 顕正居士さん

> 『理想版・創価学会会則前文』
> 釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法華経は
> 万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華経の万人平等
> (一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国に伝え、智者大師が
> 両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達した法華思想を、日蓮は世界
> に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこの訓えを信じるがゆえに、空性の
> 教義と一乗の精神とを世界に伝えたいとおもう。

 本当にすばらしい「理想版」だと思いました(涙)。



Re: 仏教とはなにか ( No.60 )
日時: 2002/11/09 22:30
名前: 顕正居士



>縁起説はこの一念三千の部分観にすぎません。

四明学においては、一念三千は縁起(仏説)とも空性(龍樹説)とも矛盾は
しません。日蓮のような「約部奪釈」は別教、すなわち一元流出論に近づき、
その一念三千は縁起や空性の説と矛盾し得ます。

>「大衆の側に立っているのはどちらか」という判断基準は妥当なもので
>しょうか。

「真偽」は意見の内容や証拠で決まり、人数の多寡では決まらないのです。
「大衆の側」が正しいのなら、創価学会は解散するべきでしょう。



顕正居士さんへ ( No.61 )
日時: 2002/11/10 00:31
名前: Leo <leo020503@yahoo.co.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



>>60
>>縁起説はこの一念三千の部分観にすぎません。
>
>四明学においては、一念三千は縁起(仏説)とも空性(龍樹説)とも矛盾は
>しません。日蓮のような「約部奪釈」は別教、すなわち一元流出論に近づき、
>その一念三千は縁起や空性の説と矛盾し得ます。

ご回答ありがとうございます。
「四明学」をhttp://www.google.co.jp/の「日本語のページを検索」で
検索したところたまたま下記の記録だけが出てきました。
(一応、学会の『仏教哲学大辞典』でも四明知礼は【知礼】の項目に出て
きますし、http://www.google.co.jp/で「四明知礼」をキーワードと
して検索するといくつか出てきます)

Beat Me ! 過去ログ[001-100]
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_001_100.html
>投稿者:顕正居士 00/04/08 Sat 17:44:43
(中略)
>シナでは四明知礼が山家・山外論争を収束し、江戸時代には四明学が日本にも
>輸入されて天台・日蓮両法華宗は四明しかけになります。日蓮は大日経七重の
>劣(唐判と全同)を主張したから、山家的ですが、「超八法華」も唱えるので
>これは山外的。日蓮自身に矛盾があったように思う。
>
>*超八法華〜法華経は八教を超越するという湛然の説。「部教混乱」(証真)。
>凝然真如的。天台学破壊的。日蓮は真蹟遺文でいつもこの説を援用する。
>
>シナ〜四明、日本〜日蓮が法華学を復興したと云えるが、日蓮の説には矛盾が
>あり、江戸時代以降四明しかけで日蓮学を補強した(堅樹寛師等)が山外的は
>未だ大衆的に受けるようだ。創価学会は梵我一如(「宇宙即我」)と云うよう
>に仏教の外側に飛翔してますが、理論的用意は国柱会です。

学会の教学は色々な時代の教義の矛盾や問題点をそのまま(未だに)抱え込ん
でいるという印象を持ちます。これでは「最高の真理」や「全体観」と言えない
と思います。



Re: 仏教とはなにか ( No.62 )
日時: 2002/11/10 11:35
名前: 顕正居士


李世杰『天台哲学の原理』華岡仏学学報第4期 から

169頁
第八に爾前所説の円教と法華所説の円教と同じでないこと。すなわち華厳円教
と法華円教と同じでないこと。此の事は「約教別与」と「約部通奪」の二種の
術語によって説明される。「約教別与」とは一切諸法円融無碍の円教の教体
からみれば、爾前所説の円教と法華円教と完全に同一で些かの区別もない。
但し「約部通奪」からみると、爾前の円教は大小権実の諸教みな一仏乗の円教
であると開会することができない。すなわち、爾前の円教は大小乗権実が対立
する相待の円教である。しかし法華円教は大小権実を開会しみな一仏乗の円教
とする。ゆえに絶待の円教であり、純円独妙の教であるから、あるいはこれを
「超八醍醐の教」とも云う。譬えていえば、「拳」とは五指の集まりであり、
五指を離れた拳の体は無い。この意味では、法華の教体は八教(八宗)以外に
無い。ただし「体」はそうであるが、我々が「拳」の一つの形態をさし「拳」
というとき、「拳」そのものと「五指」そのものとには区別がある。すなわち
この「拳」とは一本一本の指を超越した特別のはたらきである。この特別の
はたらきのゆえに、法華は八教を超越するともいうのである。

http://www.chinesebuddhism.com/putuyiye/jjdd/HGXB1/4_7.HTM

約部奪釈のみ知って約教与釈の「今円昔円円体無殊」を忘れると「超八醍醐」
と称しかえって別教に転落し、「根源の一法」にまで至り得る、とおもう。


Re: 仏教とはなにか ( No.63 )
日時: 2002/11/10 12:14
名前: 顕正居士



(偽)遺文の中の真如縁起説

「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、
因果倶時不思議の一法之れ有り。之を名けて妙法蓮華と為す」

『当体義抄』
http://nakanihon.net/nb/gosyo/toutaigisyou.htm

『当体義抄』の作者は

「衆因縁生法 我説即是無 亦為是假名 亦是中道義
 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者」

「未曾有一法 不從因縁生」

「未曾有の一法あり 因縁より生ぜず」
と読んでいたのであろうか?



超八法華と一元流出論 ( No.64 )
日時: 2002/11/10 14:54
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



 たしかに、湛然には、華厳的であやしい部分(一元流出論)があると思いま
す。といっても、完全に一元流出論的だったというわけではないようですが[1]。
しかし、そういうあやしい部分と「超八法華(約部奪釈)」は論理的に直接結
びつくものではないように思います。つまり、日蓮が湛然の「超八法華」を援
用しているからといって、日蓮の「一念三千」理解が「一元流出論」的である
とは必ずしもいえないのではないかと思います。あと、「超八法華」が「天台
学破壊的」かどうかということについては、学者によって意見が分かれるとこ
ろだと思います。例えば、安藤俊雄先生は「超八法華」を「智ギ〔豈+頁〕の
真意を明確に指示した功績」とされています[2]。

[1]田村芳朗「天台本覚思想概説」『天台本覚論』(日本思想大系新装版)、
  岩波書店、1995年(旧版1973年)、pp. 495-496。安藤俊雄『天台学 根
  本思想とその展開』、平楽寺書店、1968年、pp. 312-319。

[2]安藤前掲書、p. 307。

> 約部奪釈のみ知って約教与釈の「今円昔円円体無殊」を忘れると「超八醍醐」
> と称しかえって別教に転落し、「根源の一法」にまで至り得る、とおもう。
(>>62)

 約部奪釈は以下のような権実判として理解し、約教与釈も忘れないようにす
ればよいのではないでしょうか。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きか
  くさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍
  お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故
  に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代
  の綱骨・一切経の心髄なり

  (「開目抄上」、全集、p. 197)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり
  
  (「一代聖教大意」、全集、p. 397)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



《一念三千》と《縁起・空・中道》 ( No.65 )
日時: 2002/11/15 21:54
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/



 《一念三千》に関する参考資料として以下のようなものを作ってみました。

  一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/121.html

  一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html



一念三千説は宇宙生命論を拒否するものである ( No.66 )
日時: 2002/11/19 15:32
名前: Libra(管理人) <librus2002@mail.goo.ne.jp>
参照: http://fallibilism.web.fc2.com/


 1.「宇宙生命」は万物を生み出す根源的基盤として想定されている。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   名誉会長 〔中略〕本来、仏教は、生きとし生けるものを、ひとつの黄
  金の大生命の個々の現れと観る。それが釈尊の悟りです。

  (池田大作他『法華経の智慧』第3巻、聖教新聞社、p. 129)
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   須田 「黄金の母胎」とは、最古のバラモン経典『リグ・ヴェーダ』に
  出てくる万物の根源ですね。万物を胎児として内に具え、生み出すもので
  す。

  (池田大作他『法華経の智慧』第3巻、聖教新聞社、p. 295)
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   名誉会長 「蓮華」から万物が出生するという思想は、華厳経の「蓮華
  蔵世界」などでも展開されていますが、くわしくは略したい。
   日蓮大聖人は、「蓮」の一字について、「万法の根源、一心三観・一念
  三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮源蓮の一字より起る者なり」
  (御書一三六四n)とされている。
   また「一切の法門は蓮華の二字より起れり」(御書八〇九n)とも仰せ
  です。万物を生む蓮華といっても、その究極は南無妙法蓮華経以外にない。

  (池田大作他『法華経の智慧』第3巻、聖教新聞社、pp. 297-298)
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   ※引用されている御書は「十八円満抄」と「御講聞書」であり偽書。

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   名誉会長 〔中略〕自身の根源を堀り下げていく時、そこに万人に共通
  する生命の基盤が現れてきた。それが永遠の宇宙生命です。

  (池田大作他『法華経の智慧』第3巻、聖教新聞社、p. 328)
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 2.一念三千説はそのような発生論的世界観を拒否するものである。

  一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/121.html




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