法師品─『法華経』の経巻を生きている仏陀≠サのものと見なす考え方(松本史朗)


 では、「法師品」に、「方便品」第一三八偈第四句で述べられていた仏陀への供養≠フことは、どのように説かれているのであろうか。この点で、次に示す経文が極めて重要であると思われる。

〔414〕  ya ito dharmaparyAyAd antaZa ekagAthAm api dhArayiSyanti vAcayiSyanti prakAZayiSyanti saMgrAhayiSyanti likhiSyanti likhitvA cAnusmariSyanti kAlena ca kAlaM vyavalokayiSyanti / tasmiMZ ca pustake tathAgatagauravam utpAdayiSyanti ZAstRgauraveNa satkariSyanti gurukariSyanti mAnayiSyanti pUjayiSyanti / taM ca pustakaM puSpadhUpagandhamAlyavilepanacUrNacIvaracchattradhvajapatAkAvAdyAdibhir namaskArAJjalikarmabhiZ ca pUjayiSyanti / ye kecid bhaiSajyarAja kulaputrA vA kuladuhitaro veto dharmaparyAyAd antaZa ekagAthAm api dhArayiSyanty anumodayiSyanti vA sarvAMs tAn ahaM bhaiSajyarAja vyAkaromy anuttarAyAM samyaksaMbodhau // (K, 255,3-10)

〔415〕 従是経典、受持一頌、諷誦書写、載於竹帛、銘著心懐、念而不忘、若聴頌音、恭敬察之、方如如来、聖尊上句、若以華香上\幢幡、発意供養是経巻者、叉手向之稽首作礼、則当謂之世間自帰。又告薬王、若族姓子族姓女、仮使能持一頌、勧助歓喜、聞経巻名、若得聞名、則当覚是、将来世尊、展転相謂、族姓子族姓女、来世便為如来至真等正覚。(『正法華』一〇〇中二五 ─ 下四)

〔416〕 我亦与授阿耨多羅三藐三菩提記。若復有人、受持読誦解説書写妙法華経、乃至一偈、於此経巻、敬視如仏、種種供養華香瓔珞抹香塗香焼香所W幢幡衣服伎楽、乃至合掌恭敬、薬王当知、是諸人等、已曾供養十万億仏、於諸仏所、成就大願、愍衆生故、生此人間。薬王、若有人問、何等衆生、於未来世、当得作仏、応示是諸人等、於未来世、必得作仏。(『妙法華』三〇下八 ─ 一七)

〈248〉 誰であれ(ye)、〔私が入滅した後で〕この法門(dharma-paryAya) から、僅か一偈でも(antaZa eka-gAthAm api) 受持し(dhArayiSyanti)、読誦し(vAcayiSyanti)、説き明し(prakAZayiSyanti)、理解させ(saMgrAhayiSyanti)、書写するとしよう(likhiSyanti)。また、書写してから、思い出し(anusmariSyanti)、時々観るとしよう(vyavalokayiSyanti)。また、その経巻(pustaka)において、如来に対する尊重心(tathAgata-gaurava)を生じ、師に対する尊重心(ZAstR-gaurava)によって、恭敬し、尊重し(guru-kariSyanti)、尊敬し、供養するとしよう(pUjayiSyanti)。また、その経巻を、花・薫香・香・瓔珞・塗香・抹香・衣・傘・旗・幡・音楽(vAdya)等によって、また礼拝や合掌によって、供養するとしよう。薬王よ、誰であれ(ye kecid)、善男子たち、または善女人たちが、この法門から僅か一偈でも(antaZa eka-gAthAm api) 受持し、随喜するとすれば、彼等すべてを、私は、薬王よ、無上正覚(anuttara-samyaksaMbodhi)に授記する(vyAkaromi)。

 ここにも、仏滅後に、『法華経』から僅か一偈でも受持し、読誦し、説き明し、理解させ、書写し、また随喜するであろうものは、必ず成仏する≠ニいう趣旨が認められるが、ここで注意すべきことは、この一節に“tathAgata-gaurava”「如来に対する尊重心」という語が用いられていることである。この語が用いられている文脈を考えれば、ここでは『法華経』の経巻に対して、あたかも、如来に対するように尊重し、供養すべきである≠ニいう趣旨が述べられていると思われる。つまり、ここには所謂経巻供養∞経巻崇拝≠ェ説かれているのであるが、これが「法師品」の一貫した主張であることは、「法師品」に見られる次の有名な経文からも知ることができるであろう。

〔417〕 yasmin khalu punar bhaiSajyarAja pRthivIpradeZe 'yaM dharmaparyAyo bhASyeta vA deZyeta vA likhyeta vA likhito vA pustakagataH svAdhyAyAyeta vA saMgAyeta vA tasmin bhaiSajyarAja pRthivIpradeZe tathAgatacaityaM kArayitavyaM mahantaM ratnamayam uccaM pragRhItaM na ca tasminn avaZyaM tathAgataZarIrANi pratiSThApayitavyAni / tat kasya hetoH / ekaghanam eva tasmiMs tathAgataZarIram upanikSiptaM bhavati // (K, 231,7-11)

〔418〕 仏告薬王菩薩。若有能説斯経訓者、書写見者、則於其人、起仏神寺、以大宝立高広長大、不当復著仏舍利也。所以者何。【則為】全著如来舍利。 (『正法華』一〇一中一八 ─ 二一)

〔419〕 薬王、在在処処、若説若読若誦若書、若経巻所住処、皆応起七宝塔、極令高広厳飾、不須復安舍利。所以者何。此中已有如来全身。 (『妙法華』三一中二六 ─ 二九)

〈249〉 また、薬王よ、大地のある場所(pRthivI-pradeZa)で、この法門(dharma-paryAya)が語られたり、説示されたり、書写されたり、書写されて経巻(pustaka)となったものが、読まれたり、唱えられたりするとしよう。薬王よ、その場所に巨大で高く広い宝石でできた如来の塔廟(caitya)が作られるべきである。しかし、そこに必ずしも、如来の舎利(tathAgata-ZarIrANi)が安置される必要はない。何故かと言えば、そこには、一塊り(eka-ghana)の如来の肉体(tathAgata-ZarIram)が置かれたことになる(upanikSiptaM bhavati)からである。

 この経文について、平川彰博士は、「経巻供養をもって舎利供養にかえていることを示している(403)」と評されたが、ここには確かに『法華経』の経巻に対する供養を仏舎利に対する供養よりも高く位置づけようとする考え方が認められるであろう。というのも、〔417〕で用いられる“tathAgata-ZarIrANi”という複数形名詞は、如来の遺骨≠意味するであろうが、これに対して、“ekaghanam eva ... tathAgata-ZarIram”というのは、「見宝塔品」で、宝塔中の多宝如来の肉体が“AtmabhAvas ... ekaghanas(K, 240,11)一塊りの体」とか、“apariZuSkagAtro 'saMghaTTitakAyo(404)(K, 249,5)干からびていない四肢をもち、分散されていない身体をもつ」と言われたように、生身の肉体、つまり生きている仏陀≠意味すると思われるからである。遺骨≠供養するよりも、生きている仏陀≠供養する方が、功徳が大きいと考えられていることは、言うまでもないであろう。
 しかるに、ここで注意すべきことは、〔417〕に“upanikSiptaM bhavati” 「置かれたことになる」という表現がなされていることである。この表現は、一般には「安置されている(『松濤U』一五頁)などと訳されるのであるが、しかし、この表現は『法華経』の経巻が読誦される場所に作られる caitya」には、如来の生身の肉体が置かれている≠ニいうのではなくて、『法華経』の経巻が読誦される場所に caitya が作られるならば、そこには如来の生身の肉体が置かれている()()()()()≠ニいうことを言うものであろう。つまり、この表現は、『法華経』の経巻に対する供養が、生きている仏陀に対する供養になる≠ニいうことを述べていると考えられる。ということは、ここには、『法華経』の経巻を生きている仏陀≠サのものと見なす考え方が説かれていると見ることができるが、「法師品」〔414〕で、『法華経』の経巻に対して如来に対する尊重心を生じ、様々の花・香・衣・音楽等によって供養すべきである≠ニ説かれたのも、『法華経』の経巻を生きている仏陀≠サのものと見なす考え方にもとづいていると思われる。

(松本史朗『法華経思想論』、大蔵出版、2010年、pp. 477-480。原文のサンスクリットはKH方式によって引用し、原文の傍線による強調は【】による強調に代えて引用した。また、引用中の「〈248〉」や「〈249〉」という表現は、原文では、 数字を○で囲んだ文字である。)


(403) 『初期と法華』〔引用者註:『初期大乗仏教と法華思想』(平川彰著作集6)、春秋社、1989年五一〇頁一七行 ─ 五一一頁一行

(404) K本〔引用者註:saddharmapuNDarIka, Kern H. and Nanjio B. eds., Bibliotheca Buddhica 10, St. Petersburg, 1908-1912.の“pariZuSkagAtraH saMghaTitakAyo”という読みを、このように訂正することについては、苅谷定彦「法華経見宝塔品について」『印度学仏教学研究』一一 ─ 一、一九六三年、一三八 ─ 一三九頁戸田宏文「梵本法華経考」『仏教学』七、一九七九年、(四)─(五)頁拙論〈オ〉「法華経と日本文化に関する私見」二三〇頁参照。

(同上、pp. 711-712。引用中の「〈オ〉」という表現は、原文では、 カタカナの「オ」を○で囲んだ文字である。)


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