時間的縁起と論理的縁起(水野弘元)


 縁起の関係し合う現象間の関係の仕方については、原始仏教では、詳細な考察はなされていないが、後の仏教では、種々の角度から考察がなされている。何となれば、仏教の根本主張は、すべての時代の仏教を通じて、すべて広義の縁起説で一貫されているということが出来るからである(6)。然し後世の仏教では、縁起説を狭義にのみ理解して、縁起とは時間的先後の因果関係のみにおいて存在するものとせられた。そして時間に関係のない論理的な縁起関係は、これを縁起と呼ばないで、実相という名で呼んだ。従って後世の仏教では、縁起論は実相論と対立し、両者は別個の教学系統に属するとせられた。古来印度や中国の仏教をば、縁起論系、実相論系の二大学説に区別したのはそのためである。然し実相論も広義の縁起説に属するのであって、縁起説には、現象が時間的に継起する因果関係を見るものと、現象の一瞬間における相互依存の論理関係を考察するものとの二つがあるのである。前者は事実的・具体的の縁起であり、後者は論理的・形式的の縁起であるといえる。
 例えば、種子から芽を出し、葉や茎を出して成育し、花を開き実を結ぶというような一連の関係は、事実的因果的な縁起であり、2+2=4という算式における前項と後項との関係とか、全体と部分、一般と特殊、相対と絶対というような二つのものゝ関係とかは、そこに時間的因果関係があるのではなく、唯だ論理的な相互依存の関係があるのであって、このような関係をば、無時間的・論理的縁起という。
 部派仏教以後に、縁起として説かれる場合には、時間的な因果的縁起のみを問題として、論理的関係のものはこれを除外したけれども、実は論理関係としての実相論も縁起論に他ならないのであり、むしろ縁起の根本義は実相論にありとさへ云える。竜樹が中論で空の義によって諸法の論理関係を説いたのは、実は縁起説を明らかにせんがためであったのである。  部派仏教以後では、このように縁起論と実相論というように、縁起説をば時間的に見るのと論理的に見るのとの区別が立てられ、縁起説としては狭義の時間関係のものだけを取るという風であったが、原始仏教ではこのような明確な立場は現われていないし、その縁起説も、時間的・論理的の何れのものをも含んでいて、その何れにも解釈され得るような未分の状態にあったと云える。

(水野弘元『原始仏教〈サーラ叢書4〉』、平楽寺書店、1956年、pp. 136-138)


 E 椎尾弁匡「仏教経典概説」第七章十二因縁論宇井伯寿「仏教思想研究」等参照。特に後者は仏教のすべてを縁起説で統一して説明したものである。

(同上、p. 139)


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