『法華経』のねらい──諸教の統一・諸仏の統一
(菅野博史)


 また、釈尊を中心とするという『法華経』のねらいは、見宝塔品第十一の三変土田(三度にわたって穢土である娑婆世界を浄化し、大宇宙に散らばっている諸仏を呼び集めること)に見られる諸仏の空間的統一、如来寿量品の久遠の成仏(釈尊がはるかな過去に成仏したと説く)に見られる諸仏の時間的統一にはっきりと見て取ることができる。〔中略〕また、諸仏そのものの統一ばかりでなく、方便品の一仏乗の思想には諸仏の教えの統一を見て取ることができる。要するに、『法華経』は諸仏と諸仏の教えを統一、統合するというねらいを明確にもっていたと考えられる。
 しかし、『法華経』は哲学的な理論書ではないので、これらの思想をいわば演劇的に表現しているといえる。したがって、前述したように、『法華経』を歴史的視点に立って考察することや、宗教哲学的視点に立って考察する必要が生じるのである。『法華経』をありがたい仏の説法としてのみ推し頂くのであれば、『法華経』の魅力を現代人に説得力をもって語ることはできないであろう。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、pp. 20-21)


 見宝塔品第十一のストーリーはすでに紹介した(第一部・第二章)。とくに、釈尊は、多宝塔の扉を開けて多宝如来の姿を見る条件として、釈尊の分身仏を十方世界から集合させなければならなかった。そこで、釈尊は分身仏を集合させるために、三回にわたって娑婆世界を浄化した。

(同上、p. 171)


 このようなドラマを展開して、『法華経』は何をいいたかったのであろうか。仏教の歴史において、ある部派は、過去仏、未来仏の存在は認められるが、同時には、この全宇宙にただ一人の仏の存在しか認めないという立場を取った。また別の部派は、この全宇宙には娑婆世界のような世界が無数にあり、それぞれの世界においてそれぞれの仏が存在することを認めるという立場を取った。大乗仏教は後者の立場を発展させ、娑婆世界の釈尊のほかに、たとえば西方の極楽世界には阿弥陀如来が存在し、東方の浄瑠璃世界には薬師如来が存在するというように、同時に多くの仏が存在することを認めた。『法華経』成立以前の大乗仏教においても、新しい仏が次々に生み出され、それらに対する信仰が説かれていたのである。
 『法華経』も十方世界に多くの仏が存在することを認め、それを当然の仏教的世界観としてふまえてはいる。しかし、『法華経』の独自性はその先にあった。それは散漫ともいえるほど全宇宙に散在する無数の仏を統合する強力、強烈な仏を新たに確立することであった。『法華経』はこの無数の仏を統合する役割を、娑婆世界の釈尊に担わせようとした。上に述べたように、おびただしい数の釈尊の分身仏が十方世界から集合させられたことは、見方を変えれば、十方世界の膨大な数の諸仏はすべて釈尊の身体から化作された分身仏であると解釈できるということである。これは十方の諸仏を釈尊に統合すること、諸仏の空間的統一といってよいであろう。見宝塔品のストーリーは、諸仏の空間的統一という重要な思想のドラマ的表現であったといえるのではないか。
 このように諸仏の空間的統一ということに思い至ると、如来寿量品の新しい釈尊観は諸仏の時間的統一と捉えることができるのではないか。過去、未来に関して永遠ともいえるほど長い寿命をもつ釈尊は、原始仏教以来説かれてきた過去仏、未来仏を釈尊に統合する役割を担っている。如来寿量品によれば、釈尊は久遠の昔に成仏してからはるかな未来まで、衆生を救済するために、仏としてさまざまな活動を展開することが説かれ、これはとりもなおさず釈尊が過去仏、未来仏の役割を果たすことだからである。
 こうして、『法華経』が諸仏の空間的統一・時間的統一を図ろうとしていることに気がつくと、ひるがえって方便品の一仏乗の思想は、釈尊の一生涯に説いてきた教えを一仏乗の教えに統合するということであることに気づかされる。これは諸教の統一といえるであろう。
 このように見てくると、『法華経』は諸仏と諸教を統一しようとする強く明確な意図をもっているのではないかと思われる。これこそ『法華経』の思想の最も重要な特色であると結論づけることができよう。

(同上、pp. 172-174)

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