『法華経』における縁起と空


無明によって目が見えなくなったものたちは、生成させるはたらき(諸行)を積み重ねる。この生成させるはたらきが条件になって、精神と物質の統一体(名色)を生じ、はてはこのようにして、このまったく苦のみの大きな塊り(苦蘊)が起きるのである。
 このように、無明によって目が見えなくなった衆生たちは、(生死の)輪廻のなかにとどまっているのである。

(「第五章 薬草喩品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経T』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、p.166)


空、無相、無願という(三つの)解脱の門を修行して、人々は無明を滅するのである。無明を滅することから生成させるはたらきが滅し、このようにして、はてはこのまったく苦のみの大きな塊りにいたるまで(のすべて)が消滅することとなるのである。

(同上、p.167)


 盲目の人が眼を得るのと同じように、声聞の道を求める人々と独覚の道を求める人々はそのように見られるべきである。彼らは生死流転の煩悩の足かせを絶ち切る。煩悩の足かせから解脱を得たものは三界の六趣から解き放たれる。このことから、声聞の道を求めるものは次のように知り、このように言うのである。「このうえ、さらに悟り得(証得し)なければならない法はない。私は涅槃を得たのである」と。そのとき、如来は彼に法を説かれる。「一切の法を悟り得ていないものに、どうして涅槃がありえようか」と。世尊は彼を菩提に至り着くよう教え導かれる。菩提心を起こした彼は〔いまや〕生死流転のなかにあるのでもなく、涅槃を得〔てそれに満足し〕ているのでもないもの〔すなわち菩薩〕となる。彼〔菩薩〕は十方において、三界のものは空であると知り尽くし、世間は変化のごとくであり、幻のごとくであり、夢、陽炎、反響のごときものと見るのである。彼は一切の存在(法)は生ずることもなく、滅することもなく、束縛されているのでもなく、解き放たれているのでもなく、暗黒でもなく、光明でもないと見る。このようにはなはだ深遠なもろもろの法〔の実相〕を見るほどのものは、〔この〕三界の一切のものが、人々のそれぞれに異なった考え方や志向で満ちあふれていることを、〔表相だけでは〕見ないという態度によって見るのである。

(「第五章 薬草喩品」、中村瑞隆『現代語訳 法華経 上』、春秋社、1995年、pp. 135-136)


衆生たちには差別がなくとも、意欲が異なるゆえに、如来たちは、乗り物を区別して説かれるのである。しかしながら、仏陀の乗り物こそが(真の乗り物として)決定的なものである。人々は輪廻の輪について無知であり、したがって(涅槃の)寂静も知らないのである。
これに反して、すべてのものは空であり、実体を離れている(無我)と知る人は、正しいさとりを得た世尊たちの菩提を真実に知るのである。
知恵のなかの中位のものを立てることにより、その人は独覚といわれ、空についての知が欠けているばあいには、声聞といわれる。
それに反して、すべての法をさとっていることによって、正しいさとりを得た(仏陀)といわれる。

(「第五章 薬草喩品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経T』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、p.169)

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大乗仏典 4


いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた〔引用者註1〕

(「第二十七章 嘱累品」、中村瑞隆『現代語訳 法華経下』、春秋社、1998年、p. 221)

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法華経 下


〔06.08.09 引用者註1〕

(1) この詩は「縁起法頌」と呼ばれる有名な詩です。シャーリプトラはこの詩を聞いただけで仏教に帰依したといわれています。


〔06.08.09 引用者付記〕
 訳注および頌の番号については引用を省略いたしました。


〔07.08.19 引用者付記〕
 一箇所、引用ページ数を誤っていたことに気がつきましたのでそれを訂正しました。


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