下からの合理性(小河原誠)


正当化主義は、みずからは批判されることがなく、他の言明を基礎づける(正当化する)といった特権的な言明の存在を信じている立場である。正当化主義は、そのような特権的言明がアルキメデスの支点──アルキメデスは、強固な支点と長い梃子(てこ)がありさえすれば地球さえも動かしてみせるといったという──にも似て、幻想であることを見ていない。
 しかし、正当化と批判がするどく区別されるならば、そのような意味での正当化主義を放棄したところでまったく無害である。われわれの手許には、正当化とは峻別された批判が残るからである。
 そして、われわれはすでに正当化主義がほらふき男爵のトリレンマ〔引用者註1〕のような困難をひきおこすことを見たわけであるから、正当化主義を放棄して、批判──正確にいえば、正当化なき批判──のみを救済する方向に歩みだすことができる。〔中略〕
 さて、正当化主義か非正当化主義かという選択を考えたとき、すでに正当化主義はみずからを正当化しなければならないためにトリレンマに陥り自滅していた。とすると、残る選択肢は非正当化主義ということになる。しかし、非正当化主義はみずからを正当化しなければならないという義務は負っていないのであるから、トリレンマに陥る必然性はないのである。

(小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、講談社、1997年、pp. 200-202)


  正当化なき批判は、〔中略〕帰結からの反証というモデルを中心的な理念としている。つまり、ある主張なり見解なり、あるいは理論とか道徳的立場が妥当であるかどうかを批判的に検討するためには、そこから論理的に正しく導出される帰結をしらべ、そこに非妥当なものがあればさかのぼって導出の基礎になった前提のうちにも誤りが潜んでいたはずだと批判を進めていくやり方である。これは帰結の非妥当性から前提の非妥当性へと進んでいく批判のやり方であるから、下からの批判であり、そして合理性とは批判そのものに他ならない〔引用者註2〕ことを考えるならば、下からの合理性とよんでよいものであろう。これに対して、上からの合理性とでも呼ぶべきものは、まさしく正当化主義的合理性である。これは出発点となる基礎(根本的前提)から、他の主張や行為を正当化していこうとする立場である。
 これら二種類の合理性は、話を政治的領域に移してみるとその相違点がみやすくなる。ふつう、市民生活のなかである施策の正当性が問われたりすると、たとえば役所のお達しだからといった返事が返ってくる。では、役所のお達しはなぜ正当なのかと問い直されると、条令や法律に基づいているからだとなる。では、それらの条令や法律はなぜ正当なのかとさらに問われたときには、議会において多数決で制定されたものであるから、といった返事が返ってくる。つまり、根拠を次々と提出することによって、当該の施策の正当化がはかられる。そして、この場合では最終的には国民多数の意志なのだから、当該の施策は正しいのだといった正当化がはかられる。
 そしてもし、合理性が正当化として捉えられているならば、市民の側も当局の側もこのような(正当化主義的)思考様式を脱却することができない。そして、正当化こそが合理的であると考えられているところでは、下から市民が当局に対して文句をつけることはまさしく()()()とされてしまう。しかし、()正当化主義の立場からすればこのようなタイプの思考は正当化主義という幻想にとらわれた()()()()思考以外の何物でもないのである〔引用者註3〕
 他方、非正当化主義の立場からおなじ事態をみつめてみるならば、まったく異なった世界が開かれてくる。つまり、施策を市民が批判すること自体が合理的となる。(もちろん、市民が批判するにあたっての根拠としていることがらも批判されるべき対象となりうる。特権的なことがらはどこにもない。)施策に誤りがあるならば、条令や法律に、さらには議会の多数派に、つまるところ国民多数のなかに誤りが潜んでいるのではないかと考え、それの除去を求めていくことが合理的となる。下からの合理性は、政治的公共性を支えるもっとも基本的な唯一の合理性なのである。
 ポパーの批判的合理主義は()正当化主義として捉えかえされたとき、科学の世界のみならずわれわれの市民的生活一般における合理性の拠り所となる。

(同上、pp. 202-204)


〔05.09.30 引用者註〕

(1) 「ほらふき男爵のトリレンマ」については、小河原誠先生の解説(『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 14-18)を参照されて下さい。

(2) ポパーは「合理性とは、自分の信念を批判的に論じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができていること」(「モデル、道具、真理」、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、p. 313)であるといい、「合理主義とは喜んで批判的議論を傾聴し経験から学習する態度である」(小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』第二十四章、未來社、1980年、p. 207)といっています。

(3) 小河原誠先生は、このことについて、具体的な例をあげて、以下のように述べておられます。


 シンポジュームの終わった後、NHKの番組(「新・日本人の条件」)を見ていたら、山形県のある小さな町の町長がヒモつきの補助金(実に、一つの建物に二つの玄関を設置しなければならないとか、一つの店からものをかっても提出先毎に領収書を書いてもらわねばならない、等々)の是正を求めて陳情している姿を伝えていたが、町長の行動は下からの合理性を体現するものであると思わざるをえなかった。官僚たちは、補助金が国会の承認を受けたものであり、それを遂行することは正当であり、合理的であると考えているのであろう。彼らにとっては、国の政策が現場でテストされ、苦情を上申されてくることは煩わしく厄介なことでしかないだろう。しかし、こうした場面で如何なる行動が合理的なのかということを考えた場合、この町長の行動に見られるように、欠陥をはっきりと指摘し、その除去を求める行為のみが合理的であると言わざるをえないであろう。正当化主義的合理性のみが合理的であるとされていたら、町長の行為は非合理な反逆行為となってしまうことであろう。
 下からの合理性の概念は、政策が遂行されるあらゆる局面で草の根民主主義を支援する合理性の概念になると私は考える。下からの合理性は、行為の合理性を評価する概念であるから、これを担う集団とか政党といったものを想定する必要はないであろう。合理性の概念はどのような行為にも、また行為の主体に対しても適用される概念である。
(小河原誠「討論を終えて」、 http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v4n2kogawara2.html


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