感覚的知覚から普遍概念への飛躍(小河原誠)


いま筆者は書斎の窓から遠くの梢に黒い物体──どうもカラスらしい──がとまっているのを見ている。それは、筆者の記憶のなかのカラスのシルエットに合致する。この知覚は、もっと正確に記述することもできるにせよ、筆者の現時点での感覚的経験である。筆者はこうした経験をふまえて(動機づけられて)「梢にカラスがとまっている」(すなわち、「時空領域 k にカラスがいる」)という単称言明をつくる。
 心理主義の立場からすれば、この言明は筆者の感覚的経験によって文句なく正当化されていることになろう。しかし、「カラス」という言葉は普遍名詞である。それは、対象がカラスであるならば当然示すであろういろいろな性質、たとえば、「カァー」という鳴き声を出す、(くちばし)をもっている、羽を広げて飛ぶことができる、などなどを意味としてふくんでいる。しかし、筆者の現時点での感覚的知覚は当該の物体が羽をもっているのか、またそれを広げて飛ぶことができるのかなどについては何事も教えてはくれない。「カラス」という普遍概念は、個々の感覚的知覚を超えでている。われわれの感覚的知覚は一回かぎりのユニークなものであり、ある瞬間での知覚像である。それは、普遍概念の意味内容のすべてを示すことはできないのであり、われわれはみずからの限定された感覚的知覚から普遍概念──われわれの例でいえば、カラス──に飛躍する。言葉を換えれば、いま知覚している物体はカラスであろうという仮説をたてる。そしてそれによってさまざまな知覚像を整合的なものに統合する。〔中略〕
 ポパーは、このような事態をさして「普遍概念の経験超越性」とよぶ。これは、別の角度からいうならば、普遍概念は対象の準法則的なふるまいを記述しているのだと言ってもよい。あるいは、普遍概念は背後にさまざまな理論を背負っている──観察の理論負荷性〔引用者註1〕──のだともいえる。そして、法則が有限個の単称言明の連言に還元されないように、普遍概念もまた有限個の感覚知覚に還元されることはない。
 〔中略〕観察がそれにもとづく記述(つまり単称言明)を正当化しうるということをポパーは否定する。そこには知覚的錯誤などをふくめて誤りの可能性がたえず潜んでいる〔引用者註2〕

(小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、講談社、1997年、pp. 108-110)


〔05.09.30 引用者註〕

(1) 「観察の理論負荷性」については、以下の解説も参考になります。


今日の科学哲学者のほとんどすべては、いわゆる観察の理論負荷性のテーゼを信じている。つまり、観察は、背後になんらかの理論──観察者がどの程度自覚的であるか否かはどうでもよい──を背負っており、したがっていかなる理論からも解き放たれた「中立的な」観察などありえないというテーゼである。〔中略〕このテーゼは簡単に言えば、証拠というものはすでに解釈されたものであるということである。
(小河原誠「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」、ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、未來社、2001年、p. 20)

  ここでいわれている「観察の理論負荷性」と関連して、「観察の言語負荷性」とでもよぶべきもの(一般には、「ウォーフの仮説」とか「言語相対性仮説」などと呼ばれているもの)が想起されてもよいように思います。ポパーも「フレームワークの神話」という論文の中で、ウォーフの仮説について言及しています(M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)。

(2) 一流のマジシャンの手品をじっくりと「観察」したことがある人にとっては、このことは実感としてよくわかるのではないでしょうか。


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