反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)


 ところで、反証されてしまう仮説がある一方で、問題のデータによって反証されずに生き延びた仮説は、たまたまそのデータと両立しえたというにすぎず、すでに述べたように、それによって真であることが立証されたわけではない。たまたまテストに通過したというだけであって、将来のテストにも通過するという保証を与えられたわけではない。〔中略〕テストに通過したところで、仮説は仮説のままである。たしかに、その時点まで仮説が反証されていないということは、その仮説が「確認」されていることだという言い方はできるであろうが、論理的には、仮説と証拠との両立が示されただけにすぎず、これが仮説の真なることの正当化(立証)につながらないことはすでに述べたところである。結論を言えば、証拠と論証を用いて、われわれは暫定的ではあっても、なんら正当化されることのない反証(批判)──それ自体さらなる反証に開かれている──のみはなしうるのである。
 証拠と論証を用いて反証をおこなうことは、日常の言葉に引きつけていえば、消去法の行使である。明白に間違っていると思われるものを除去していけば、排除されずに残ったもののなかには真理が含まれているかもしれないというのが消去法の考え方である。〔中略〕消去法というのは、比喩を使えば、入学は易しいけれども卒業は難しいということである。あるいは、生物進化における突然変異体の生き残りといったことを考えてもよいだろう──これは、もちろん、ポパーが進化論的認識論として好んで語るところであるが。消去法の観点からすれば、われわれが「事実」として受け容れているもの、たとえば、大化改新は西暦 645 年に始まったとか、『源氏物語』は紫式部によって書かれたといった細々としたことがらは、いままでのところ反証されずに生き延びてきた仮説にすぎない。そして、反証されずに生き延びている──その意味では、強固な──仮説によって述べられていることがらは「事実」と呼ばれる。多くの人びとにとって、源頼朝が鎌倉幕府を開いたという仮説は、ここでの言い回しからすれば、「事実」である。〔中略〕われわれは、証拠と論証を用い反証を試みたけれども、それに失敗してやむをえず、ある仮説を消去しきれなかったものとして暫定的に保持しているというだけの話である。このことは、われわれを謙虚にさせ、可謬性をふかく自覚させるにちがいない。

(小河原誠「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」、ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、未來社、2001年、pp. 31-32)


 反証主義者は、仮説、とりわけ経験的仮説を実証したり、正当化したり、基礎づけたり、もっともらしくすることさえできないことを熟知している。さらに彼は、仮説が、〔中略〕独断的な言説に他ならないことも知っている。反証主義者にできることは、すでに存在している仮説群のなかから偽なる仮説を排除することである。もちろん、彼は独断的な仮説を追加することもできるが、当然のことながら、それも反証という篩にかけなければならない。結局のところ、反証主義者は、排除しえないものを真理のいわば候補者と見ておくのである。そして、彼は、運よくそのうちのひとつの仮説の反証に成功するならば、そこに知識を前進させるための手がかりをつかむことになるだろう。しかし、そうしたところで、彼自身が依然として消去法の世界にいることに変わりはない。願わくは消去法がよりきびしく適用されることを。

(同上、p. 33)

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