龍樹の空思想(新田雅章)


龍樹が存在するもののあり方を空(s()u(_)nya)によって示したのは、それが縁起の関係の上に成り立っている事情を明示せんがためであったのである。すなわち、一切の存在が空であるのは、それが「自性」を保有していないからであり、そしてそれについて「無自性」が主張されるのは、現象界におけるすべてのものが他との依存の関係つまり「縁起」において成立しているからである。こうして縁起が依存の関係を根拠に成立する存在するもののあり方を示す概念であることが明示されると同時に、あわせて縁起にもとづくがゆえに空であるそれのあり方が教示されるにいたるのである。さらにこうした事情に加えて、縁起によって成り立つという存在するもののあり方を根拠に、それのそうしたあり方を示すその他の表出の仕方が考え出されもする。一切の存在は縁起の法にのっとるもののゆえに、空と呼ばれても、それは空という本体を予想してのことではなく、仮にそう呼ばれたにすぎない(=仮名)〔引用者註1〕。また他のものとの依存の関係のもとに成り立ち、したがって本体をもたないのが一切の存在の真実のすがたであるから、そこではあらゆる極端が否定され、それのあり方は「中道」と称されるしかない。「縁起せるところのもの、それが空であるとわれわれは説く。それは仮名にして、それはすなわち中道である」(漢訳「衆因縁生法、我説即是無、亦為是仮名、亦是中道義」──中論』二四・一八)というわけである〔引用者註2〕
 こうして一切の存在のあり方は縁起・無自性・空・仮名さらには中道などとして示されるわけであるが、このことは裏を返せば、縁起、乃至中道として表示される存在するもののあり方が実はそれの真実のありよう、すなわち「実相」であることを意味するものにほかならない。かくて縁起の教説は諸法の真実相を伝えるものとして、まさに実相論の思想内容の基底を支える教説となるのである。

(新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、pp. 255-256)

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仏教思想(3)


〔02.11.15 引用者註〕

(1) 新田先生は青目釈・羅什訳の「空も亦た復た空(空亦復空)なり。但だ衆生を引導せんが為めの故に、仮名を以って説く。(大正蔵第30巻、p. 33b。三枝充悳訳『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 650)という文に忠実にここでは解釈しておられるようです。しかし、私は、『中論』第二十四章第十八偈の「仮名」を《他のものとの依存の関係の中での個別性に仮に名称が与えられたもの》と理解しています。この論文の268ページでは、新田先生も、「それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有しており(仮)」といわれています。参考のために、『プラサンナパダー』から抽出されたこの偈のサンスクリット文の三枝充悳先生による訳文も引用しておきます。


およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。

(『根本中論偈』第二十四章第十八偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)


(2) 智(〔豈+頁〕)はこの『中論』第二十四章第十八偈の《縁起・空〔無自性〕・仮名・中道》の説(大正蔵第30巻、p. 33b)を「即空即假即中」と理解して円融三諦説を説きました。円融三諦説については、この論文のこの論文の267-269ページを参照。


故中論云。因縁所生法即空即假即中。

(『摩訶止觀』巻第三上、大正蔵第46巻、p. 25b)



中論云。因縁所生法即空即假即中。

(『法華玄義』巻第一上、大正蔵第33巻、p. 682c)



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