あらゆる人々は哲学者である(カール・ポパー)


 フリッツ・ヴァイスマンとその仲間の多くは、哲学者とはある特殊な人のことであり、哲学がそうした人たちの扱う特殊なことがらだと見なされねばならないのは当然であると考えた。

(カール・R・ポパー『よりよき世界を求めて』〔小河原誠・蔭山泰之訳〕、未來社、1995年、p. 271)


わたくしは、哲学を〔ヴァイスマンとは〕まったく別なふうに見ている。わたくしは、たとえある人びとはほかの人びとよりもいっそうそうであるとしても、すべての人は哲学者であると信じている。もちろん、わたくしはアカデミックな哲学者からなる特殊で排他的な集団の存在を認めるが、そのような哲学者たちの活動と見解に対するヴァイスマンのような感動は、いささかももち合わせていない。反対に、アカデミックな哲学を疑問視している人びと(わたくしの見るところでは、彼らも一種の哲学者である)を弁護する多くのことがらがあると思う。いずれにせよわたくしは、言い表わされもせず、吟味もされていないまま、ヴァイスマンの見事な論文の基礎とされている考え方、つまり、知的で哲学的な()()()()が存在するという考え方には真っ向から反対する者である☆2

(同上、p. 272)


すべての人は哲学者である。人は、たとえ哲学的な問題を抱えているとは意識していないときでも、やはり哲学的な先入見をもっている。そうした先入見の大部分は、人びとによって自明なものとして受け入れられている理論である。人びとはそれらを、自身の精神的な環境や文化から受け継いだのである。
 そうした理論のほとんどは、実際の行動や人間の全生涯において重大な意味をもちうるにもかかわらず、意識されていないので、批判的な検討なしに主張されているのであり、その意味で先入見なのである。
 そうした広く行き渡り影響力のある理論を批判的に究明し、検討する必要があるというのが、職業的、あるいはアカデミックな哲学が存在することの弁明となる。
 それらの理論が、あらゆる科学、あらゆる哲学の出発点である。それらは、()()()()出発点である。いかなる哲学も、批判的検討を受けていない常識という不確実でしばしば有害な立場から出発せざるをえない。目標は、啓蒙された批判的な常識であり、真理により近づいた、人間の生活に悪影響を与えることがより少ない立場に到達することである。

(同上、pp. 282-283)


われわれがこの素晴らしい小惑星に生きていること、またわれわれの惑星をかくも美しいものにしてくれている生命体がなぜ存在するのかをいかに説明すべきであるのか、またそれは説明されうるのか、われわれはこうしたことを知らない。しかしわれわれはここにいて、そのことに驚き、また感謝する十分な根拠をもっている。それは、まさしく奇跡である。科学がわれわれに語りうるすべてによれば、宇宙はほとんど空虚である。空虚な空間が大半で、物質はほんのわずかである。そして物質のあるところでも、そこはほとんどいたるところ混沌とした渦巻きであり、生物が住むことはできない。生命が存在する惑星は、ほかにもたくさんあるかもしれない。しかしながら、宇宙のどこかの地点を適当に選び出しても、そこに生命を有する物体を見出す確率は、(現在の宇宙論を根拠に計算すると)ゼロに等しい。それゆえ生命は、いずれにせよ稀少価値であり、貴重である。われわれは、そのことを忘れ、生命を軽んじがちである。これはおそらく、思慮の足りないせいであるか、あるいはわれわれの美しい地球が少しばかり人口過密だからであろう。
 あらゆる人々は哲学者である。なぜなら人は、生と死に対してあれこれの見方、態度を取っているからである。生命には終わりがあるからといって、これを価値のないものと考える人もいる。彼らは、終わりがなかったら生命には価値がなかっただろうという正反対の議論も同様に擁護できることを見過ごしている。彼らは、人生の価値を理解するのを助けてくれるのは、一部には、生命を失うという絶えまなく現存する危機であることを見過ごしているのである。

(同上、pp. 294-295)

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〔02.07.02 引用者付記〕
 脚註(☆印)は、引用を省略いたしました。


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