日蓮大聖人の「釈尊御領観」(佐藤弘夫)


 日蓮大聖人が佐渡期ごろから、自身とその弟子(でし)檀那(だんな)地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)になぞらえるようになったことは先に述べた。それに前後して日蓮大聖人は、かつて霊山浄土(りょうぜんじょうど)において地涌の菩薩に正法弘通を委嘱した釈尊を、此土(しど)のあらゆる存在を支配する絶対者のごとき存在にまでまつりあげるのである。

梵天(ぼんてん)帝釈(たいしゃく)等は我等が親父・釈迦如来の御所領をあづかりて正法の僧をやしなうべき者につけられて候、毘沙門(びしゃもん)等は四天下(てんげ)(ぬし)此等が(かど)まほり・また四州の王等は毘沙門天が所従(しょじゅう)なるべし、其の上日本秋津嶋(あきつしま)は四州の輪王(りんのう)の所従にも及ばず・但嶋(ただしま)(おさ)なるべし 」 (「法門申さるべき様の事」一二六八頁)
 研究者の間で、「釈尊御領観(しゃくそんごりょうかん)」とよばれるこのような理念が、我等が己心の釈尊は五百塵点(じんてん)乃至所顕(しょけん)の三身にして無始(むし)古仏(こぶつ)なり」(「観心本尊抄」二四七頁)といった、仏を内在的に(とら)える一念三千の思想といかに(かか)わるかは必ずしも明確ではない。釈尊御領観における釈尊も、実体的な人格神というよりは、仏法の権威の偉大さを比喩的(ひゆてき)に表現するためのロジックととるべきかもしれない。
 いずれにせよ事実として、三界に君臨(くんりん)しあらゆる地上の権威(けんい)凌駕(りょうが)する釈尊の観念(かんねん)が、佐渡直前期から身延期(みのぶき)にかけて展開(てんかい)されていくのである。

(佐藤弘夫・小林正博・小島信泰『日蓮大聖人の思想と生涯』、第三文明社、1997年、pp. 221-222)

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