本尊の形式と思想を区別せよ(勝呂信静)


 日蓮宗ほど本尊論議のやかましいところはないといわれる。つい数年前もはげしい論議がたたかわされた。その原因は、第一に、聖人の御書において、本尊についてのお教えが、いろいろの表現をもって説かれているので、人によって解釈がかならずしも一致しない場合が生ずるからであるが、それとともに現実的な理由として、現在日蓮宗では、かなり自由にいろいろの本尊様式や礼拝の対象が許されて、じっさいの信仰として行なわれているという事情があるようである。
 あまり本尊論議がやかましいので、日蓮宗では本尊が統一されていないという人すらある。しかし、本尊論議を行なっている学者も、また第三者の立場からそれを批判する人たちも、そこに考え方の混乱があって、一そう議論を判りにくくしているようである。それは一口にいうと、本尊の形式と思想とを区別しないことであると思う。形式の点からいうと、本宗には、大曼荼羅・一尊四士・一塔両尊四士などいろいろの形式がある。これらはいずれも聖人の御書に根拠があることである。こうしたものを一つに統一しなければならないという要請は、形式という点だけにかぎるとすると、それは物体によって表現され、かつ規定されているから、どだい無理な註文であるといわねばならない。しいて統一するならば、一つを選んで他を捨てるより仕方ない。けれども、本尊を()()と考えるならば、これらの形式によって意味されている思想は統一されているはずである。直接に統一されていなくても、その根底になる思想は一つであるといわねばならない。
 つまり、本尊の思想がまずあって、その思想がある環境的条件に規定されて表現されるとき、それに応ずるような形式が定められるのであって、この反対に形式がさきにあってそれから思想が導き出されるのでないのである。形式は物体に依存するから、有限のものであって制約をうける。これに対し思想は本来無形無限のものであるから、いかなる形式の表現する意味でも一つの思想に包含され、かつ統一されるのである。
 もちろん形式はそれに応ずる意味を表現するから、このかぎり形式と思想とには親密な関係があるといえる。けれども形式が固定されているのと同じように、その表現する意味も固定した思想を形成するものであると考え、形式と思想とを機械的に結合し、両者の関係を固定視することは、決して正しい考え方ではない。近頃の本尊論議にみられる混乱の理由は、多くはこの点にあるようにわたくしには思われる。

(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、pp. 144-145)


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