「宗学的立場」と「批評的立場」(本田義英)


余の考ふる所を以てすれば大體上二種の立場があるやうに思ふ。その一は宗學的立場であり、その二は批評的立場である。宗學的立場とは法華經を所依の經典として見る立場であつて、日蓮宗に就て之を言ふならば宗(〔示+且〕)が上行の再現たる自覺に立つて活釋せられたる法華經に絶待の隨順歸依を捧げなければならぬ立場である。反之、批評的立場とは言はゞ法華經を法華經として見る立場であつて、印度に於て作成せられ諸方を經由して支那に於て飜譯せられたる法華經を、或は諸種の異譯と比較し、或は諸種の梵本と對校し、その本文を批評すると同時にその内容を公平に檢討し、虚心坦懐自由なる立場に立つてその經の眞相を出來得る限り原始的に研究せんとする立場である。而して右兩種の立場は一應直接には無關係のやうであるが、併し一方から考へると非常に有意義な關係を有して居るやうにも思はれる。言ふまでもなく宗學は羅什譯本に對する天台の活釋を經由して、宗(〔示+且〕)が更に獨自の立場からせられた所謂本化の活釋にその成立の本義を有する。而して活釋とは畢竟これ結論なのである、最後の大高峰なのである。併し山に在るもはの山を見ずの諺の如く何等かそこに一の比較資料を示して、その大高峰を大高峰たりと知らしむる事も下根のためには不必要な事ではなからう。上述兩種の立場の關係亦是の如しであると考へる。だから批評的立場と言つても決して宗學そのものを批評せんとするのではなく、宗學の大高峰を仰察すべく言はゞ窮子の立場に立つて佛智の高大を仰がんとする立場である。だから宗學に携はる專門の學者は嚴としてその宗學的立場を確守し、同時に批評的立場をも喜んで是認し、益々強盛に宗學の大高峰を顯示せらるゝ義務があると思ふ。

(本田義英『佛典の内相と外相』、弘文堂書房、1934年、pp. 461-462)


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