ブッダの不動の確信は最初の説法に成功した時に成った(増谷文雄)


 ブッダの正覚の思想的内容は、さきの『自説経』の偈(前章参照)によれば、〈縁起の法則〉(sahetu-dhamma)であると語られてある。その詳細については、後段において述べるが、端的にいえば、それは、関係性の法則であり、相依性の法則であり、原因・結果の法則である。つまり、それは法則性のものであるがゆえに、それを存在の事実のうえにあてて、その真なるや否やが証せられねばならない。それからの幾日かの間のブッダの仕事は、そのような吟味であった。しかるに、存在の事実は、ことごとく、この法則によってみごとに裁断せられる。さらに、これを人間存在のうえにあててみると、それもまたみごとに解ける。「智慧のよろこび」の泉は、滾々として、尽きるところがなかった。
 しかるに、そのようなある日のこと、ブッダの胸中には、思いもかけぬ不安が、頭をもたげてきた。それを、経のことばは、つぎのように述べている。

「まことに、尊敬するところなく、敬重するところなくして生きることは苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは婆羅門を、敬い、尊び、依りて住すればよいであろうか」
 それは、まったく、ふしぎな思いである。殊に、後世の仏教者の常識よりすれば、正覚を成就したブッダには、あるまじきことと思われるであろう。なんとなれば、そのことばの意味するところは、誰ぞ尊敬し、師事すべき者のない生活は苦しいといっているからである。だから、古来、この一経(相応部経典、六、二、「恭敬」。同本、雑阿含経、四四、一一、「尊重」)をとり上げて、特に論じたものは、まったく存しない。だが、よくよく吟味してみると、そこには、重大にして、微妙なる契機がふくまれていることが知られるのである。それを、従来の仏教者は、看破しかねていたのではないかと思う。
 人は、この世に、ひとりして生きることはできない。物質的にもそうであるように、精神的にもまたそうである。愛、同情、共鳴、理解、それらのものがなかったならば、この世はまったく生きるに値いしないものとなるであろう。文学も、芸術も、また思想も、ただ一人の世界にはあり得ない。たとい、すばらしい思想が、ある人の胸中に生まれても、それが表現せられ、人々に理解されなかったならば、それは無きにひとしい。いな、むしろ、それは、表現を与えて客観化せられ、何びとかがそれを理解した時に、はじめて思想とよばれうるのである。何故にしかるかといわば、人間が、また人間の世界が、そのようにできているというより他はあるまい。
 いまブッダは、覆われざる眼をもって、もろもろの存在のまえに立ち、その露呈する真相を把握した。それが正覚である。だが、それは、なお、彼ひとりの胸中にひめられてある。いわゆる内証である。その内証をじっと胸中にいだきしめ、静かな智慧のよろこびにひたりながらも、彼は、ふと、ふしぎな不安を感じたのである。淋しいと思ったのである。もし自分とおなじ思想をいだいている尊敬すべき沙門もしくは婆羅門でもあるならば、そこに行って、彼に親近して住したいと思ったのである。だが、そのような者は、誰もいない。依るべきものは、ただ「わが悟りし法」あるのみ。では、それに表現を与えて客観化し、何びとかそれを理解する者をもとめる。それよりほかに方法はない。そこに伝道すなわち説法の問題が登場してくるのである。

(増谷文雄『現代人の仏教1 智慧と愛のことば・阿含経』、筑摩書房、1965年、pp. 19-21)


さきにも、すでに述べたように、この法は、甚深、微妙、精細にして、かつ、世のつねの流れに逆行するものであるが故に、激情や無智のとりことなっている人々には、容易に理解されがたいであろう。それが懸念せられるがゆえに、ブッダもしばし説法を躊躇したことであった。とすれば、すみやかにこれを理解してくれる者はたれであろうか。何びとにむかってこの法は最初に説かるべきであるか。ついで、そして、最後に、菩提樹下の 静思のなかで考えられたことは、このことであった。  最初の説法の対象の選択。その選択は、まず、アーラーラ・カーラーマ(阿羅々迦羅摩)のうえに落ちた。彼は、かつて、ブッダがその許にいたって教えを聞いた旧師である。かの師ならば、きっとこれを理解してくれるにちがいないと思われたからである。だが、聞いてみると、彼はすでに死んで、この世になかった。ついで、ブッダは、おなじく旧師であるウッダカ・ラーマプッタ(欝陀迦羅摩子)を考えたが、彼もまた、すでに死んで、この世にないことが知られた。それらのことは、ついに実現されなかったけれども、なお、そのころのブッダの心情を想察せしめるに足るものがある。まずそれらの旧師を選んだということは、聞いて理解してくれるものを求めていたのにちがいない。旧師によって、わが悟りしところを吟味にかけようとしたのである。それもまた、後世の仏教者の常識をもってすれば、とんでもない臆測とされるかも知れない。ブッダの確信は、すでに樹下の正覚とともに確立しているのだと、叱tする者もあるかも知れない。だが、阿含部の諸経が物語るその人の印象は、けっして、そのようなものではない。その人は、けっして、軽々に確信する人ではなかった。霊にみたされて咆哮する予言者とも全くことなる。吟味に吟味をかさねて、しかるのち、確信をもっておのが道をゆく。それがブッダの人となりである。殊に、そのころはなお三十五歳の若さである。たとい、大いなる解決はすでに得たとしても、それをひっさげて天下の高処にたつの自信は、なお不動に確立していなかったとしても、すこしも不思議ではあるまい。いや、不動の確信と絶大なる自信は、まもなくして成るのである。最初の説法にみごと成功した時が、その時であった〔引用者註1〕。その意味において、最初の説法こそは、ブッダにとって、もっとも厳しい吟味の時であった。それに対するブッダの態度も、また、必死のものであった。  さて、二人の旧師のすでに亡きことが知られたのち、第三の選択は、彼の友人たちのうえに落ちた。経のことばは、つねに彼らを呼んで「五比丘」という。彼らは、かつてブッダがまだ苦行に没頭していた頃、いろいろ助力を与えたことがあった。だが、彼が苦行を放棄したのを見て、さげすみながら去って行った。聞いてみると、彼らはいま、バーラーナシー(波羅捺)の郊外、イシパタナ・ミガダーヤ(仙人住処・鹿野苑)にいるということであった。そこで、ブッダは、ネーランジャラー河畔の樹下をさって、バーラーナシーに向かう。ウルヴェーラー(優留毘羅)からバーラーナシーまでは、二五〇キロを超える。それを遠しとせずして、この法を語るために出掛けてゆくのである。ブッダがこの最初の説法にいかに懸命であったかが察せられる。

(同上、pp. 26-28)


 さて、ミガダーヤ(鹿野苑)の木かげに坐し、五人の比丘たちをまえにして、ブッダの語ったことは、この「四つの聖諦」を中心にしたものであった。おそらく、ブッダは、それらの断言的命題をまず打ち出して、順次に説明を加えていったものと思われる。それらは、けっして、一挙にして彼らの理解し、受納するところとなったとは考えられない。ふるい文献(たとえば、中部経典、二六、「聖求経」)の記すところも、明らかに、そうではなかったことを示している。

「かくて、二人の比丘に説明している時には、三人の比丘が托鉢し、三人の比丘の托鉢によって得たもので、六人が生活した。また、三人の比丘に教えている時には、二人の比丘が行乞し、二人の比丘の行乞によって得たもので、また六人が生活した」
 そのような幾日かののち、ついに、五人のなかの一人、コーンダンニャ(Kondan()n()a, (〔小+喬〕)陳如)が、まず、その体系を理解し、受納した。経のことばは、それを、「コーンダンニャは、まず、汚れない清浄の法眼をひらいた」と述べている。それは、当人にとってうれしいことであったとともに、おそらくは、より以上に、ブッダにとってうれしいことであったにちがいない。
「コーンダンニャは悟った。コーンダンニャは悟った」
 経典は、その時のブッダのことばを、そのように記している。その中には、いままで、ただひとり胸の中にだきしめていた内証を、やっと、他人をして理解せしめえた者のよろこびが籠っているように思われる。経典のいうところによれば、その時以来、彼は「アンニャータ・コーンダンニャ」(An()n()a(_)ta Kondan()n()a)と呼ばれることとなったという。それは、「悟れるコーンダンニャ」の意であって、ブッダが「コーンダンニャは悟った」とよろこび叫んだ言葉が、いかに印象的であったかを思わしめる。
 やがて、のこる四人もまた、相次いで、ついにブッダの説くところを理解することができた。経典のことばは、「その時、この世間に六人の聖者ありき」と語っている。また、「その時、十千世界は震い動き、限りなき光明はこの世に現われた」と記している。それは、大事の成就したことを表現する古代的手法であるが、その大事とは、すなわち、仏教の成立にほかならなかったのである。

 (同上、pp. 40-41)


〔02.01.12 引用者註〕

(1) 小川一乗氏も同様のことを別の角度から以下の様に言われている。


このようにして釈尊は、自分を軽蔑していた人たちにまず最初に説法されたのです。そしてその五人の仲間が覚ったことを釈尊はたいへん喜ばれてこう言われているのです。
解脱は不動であり、これが最後の生存である。もはや生まれかわることはない≠ニいう知見が生まれた。(山口益編『仏教聖典』六七・七一頁参照)
 このことばは非常に注意深く読まなければいけません。釈尊は自分の覚りに対して絶対的な確信を持っていなかったということなのでしょう。それは覚りが自分だけの思い込みであって普遍性を持たないのではないかという思いがまだふっ切れていなかったのです。自分の覚りが、もし五人の仲間に受け入れられなかったならば、普遍性を持たない、自分一人で納得している思いつきにすぎないということになります。ところが、何日かかったか、どういう議論の結果かはともかくとして、五人の仲間が同じ境地に至ったという状況の中で、「解脱は不動であり、これが最後の迷いの生存である」。輪廻の世界から解放されて「もはや生まれ変わることはないという知見が生まれた」のです。つまりここで確信するのです。後に詳しく取り上げますが、輪廻転生というインドの宗教での常識から解放される道を「縁起」という道理によって明確に自覚した、その自覚に確信を持ったということです。そして、知見が生まれたということは、その意味ではここに釈尊の覚りの完成があるのです。一般には六年間の苦行を捨てて、菩提樹の下で覚りを開いた。それが成道といわれていますけれども、ほんとうの成道は、五人の仲間に説法して、五人がそれを了解したときに自分の覚った真実はまちがいのないものであるという知見が生まれたのですから、そこに釈尊の成道の完成があるといえます。  このことは、釈尊の覚りとはなにかということを今後考えていくうえで、非常に大事なことだろうと思います。

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 63-64)



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