「五人所破抄見聞」は妙蓮寺日眼の著作ではない(宮崎英修)


また、「五人所破抄」の奥書に「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」とある。この奥書によれば日順が草案したように見える。しかしこの年次の書方は鎌倉・室町時代の通格にない異質の記載法である。この時代ならば
  嘉暦三年戊辰七月
と記し、
  嘉暦三戊辰年七月
とは書かぬ。この(ロ)の記年法は戦国時代の末ごろから見えはじめ、江戸時代に入るとこの形式となり定着するもので、日順が時代の人であるならば決して書かぬものであるから、まずこの一行の年次記載の形成から不審を覚えしめる。

(宮崎英修「富士戒壇論について」、仏教史学会編『仏教の歴史と文化』、同朋舎出版、1980年、pp. 643-644)


 さて、「二箇相承」の記録が妙蓮寺日眼の著作「五人所破抄見聞」に載録されており、本書は冒頭題号の下に「釈日眼述」とあって奥書によれば「伝写本云、康暦二庚申年六月四日書畢、本化末弟日眼判」としるされているものである。富士門家では本書をもって妙蓮寺日眼の著と称しているが、これには「日眼」の著述とあっても妙蓮寺日眼の者である証拠は何処にもない。所で本書の奥に「伝写本に云く康暦()庚申()六月四日」とある年記はさきに「五人所破抄」の年記で注意した如く当時の格式でない。次に「日興奏公家、訴武家」の文を註する条下に

総ジテ公家伝奏ト云テ当御代ハ勧修寺殿、広橋殿ナド伝奏衆ト云也
 伝奏(テンソウ)は安徳天皇の時、院の伝奏があり、天皇の伝奏は建武中興の時はじめて制せられたことが建武年間記に見える。ただし南北対立するに及んで消滅したが、足利幕府の時に武家・寺社伝奏、また臨時に即位、改元・凶事其他におかれた。武家伝奏のおかれたのは正長元年(一四二八)二月、裏松義資、万里小路時房、勧修寺経興の三人で、その在任期間は明らかでないが、伝奏の設けられた正長元年は、康暦元年より四十八年も後のことである。そののちの伝奏は存廃不定であったが、応仁元年(一四六七)に至って広橋綱光が就任、その三年後の文明二年(一四七○)に勧修寺教秀が加わって文明九年までつとめている(29)。文明九年綱光没後は勧修寺教秀と日野政資が約二十年間勤めている。ところで「所破抄見聞」には勧修寺・広橋が伝奏の代表のように扱われているが、このさまを見ると恐らく文明三年より同九年に至る間の伝奏の常識が記るされていると断定してよい。よってこの書は恐らくこの時期に著わされたものであろう。このころ存命の富士門家の日眼といえば西山本門寺八世日眼(文明十八年 一四八六年 寂)のみで、百余年前に没した妙蓮寺日眼(至徳元年 一三八四年 寂)は年代不相応、別人である。従って「五人所破抄見聞」は早くても文明年間(一四七五前後)作、日蓮滅後一九○余年頃以降のものである。なお、去る昭和五十一年「月刊ペン」十月号に私は本書の著者は日眼でなくはるかのちの文明の頃の作であると証明した所、大石寺の教学部長の某師がその反論を書かれたが「宮崎氏が極手として誇示する伝奏の件については、安易に年表類に表示されている事項によって文明二年以降の綱光と教秀以外にあり得ないとのみ判断している所に根本的な誤りがある。勧修寺・広橋の両家が伝奏として南北朝・室町を通じて務めていたことは当時の記録を繰ればすぐ判明する」と大そう丁寧な誡励をいただいたが更に「よく調べ直すがよかろう、もし判らなければ教えてもよい(30)」との御慈教を蒙っている。この某師の論調は全体がこのような責任のない無根拠の小児的主張にのみ始終しているが或は別の記録類をご存知の方でもあるのであろうか。どのような記録か知らないが、これで大石寺の門末を満足させることができると考えられているならばまことに天下泰平、感嘆すると同時に憫笑にたえない。

(同上、pp. 652-653)


(29) 続史愚抄
 読史備要 文明以降は略す

(30) 日蓮正宗務院教学部長阿部信雄 立正大学図書館長宮崎英修氏の妄説誹謗を破す

(同上、註29-30、p. 655)


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