「印籠教学」だけでは、松戸・小林の新説を覆すことは難しそう
(西山茂)


 また、創価学会自身の宗教様式の革新と関連して、一九九二年と九四年に出版された東洋哲学研究所欧州研究部長・松戸行雄(哲学・社会学専攻)の一連の著作(本尊と日蓮本仏に関する考察)と、一九九四年に執筆された東洋哲学研究所研究員・小林正博(日本宗教史専攻)の論文(法主血脈に関する考察)も、教学上の大胆な解釈革新をしたものとして、無視できない。
 まず、松戸は、『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』(一九九二年三月、みくに書房)のなかで、モノとしての妙法曼荼羅本尊を絶対化している今日の宗門の本尊観(神話としての本尊実態論)を批判し、礼拝対象としての本尊も、末法の法華経の行者の生命に内在する「衆生本有の理」(凡夫即仏身の仏界=観心の本尊)を映し出す「自浮自影の鏡」(象徴)であることを強調している。
 次に、彼は、『日蓮思想の革新』(一九九四年三月、論創社)において、宗門の従来の本果的本仏論(日蓮=久遠元初の自受用報身如来=衆生の救済者としての本仏)を批判し、末法の修行(唱題行)によって初めて「衆生に内在する法としての南無妙法蓮華経が日蓮という具体的な人間に顕れた(一三八頁)当処(「衆生本有の理」の自己実現)を以て「本仏」と表現したのであり、それは、日蓮に対してだけでなく末法において妙法を受持する全ての凡夫について言える普遍的な即身成仏のあり方であると、本因的な「凡夫本仏論」を主張している。
 他方、小林は、『東洋学術研究』の第三二巻二号(一九九四年一〇月一五日、東洋哲学研究所)「法主絶対論の形成とその批判」を執筆し、創価学会攻撃に使われている「法主絶対論」が当初からのものではなく、宗史の途中から(日蓮正宗第一二世日鎮の時代の左京日教の頃から)登場してきたことを実証史学の立場から示し、また、その形成に日蓮本仏論が深く関わっていた、と主張した。
 以上のような松戸・小林の著作は、個人の学術論文であり、いまだ創価学会の公式見解になっているわけではないが、それでも、創価学会の人間主義的(生命論的)な本尊・本仏観や血脈観(法主血脈観に対する信心の血脈観)をふまえ、それを学問的に正当化する著作としての意義は、同会にとって大きかったといえる。なお、宗門は、日蓮正宗法義研鑚委員会の名で、これらに対する批判書(19)を一九九七年三月に出版しているが、成住壊空に耐えられないモノ本尊観と歴史的実証を否む法主血脈神話に固執する宗門の外相的な「印籠教学(20)」だけでは、松戸・小林の新説を覆すことは難しそうである。

(西山茂「内棲宗教の自立化と宗教様式の革新―戦後第二期の創価学会の場合―」、『沼義昭博士古稀記念論文集 宗教と社会生活の諸相』、隆文館、1998年、pp.136-137)

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宗教と社会生活の諸相


(12) 森岡清美編著『近現代における「家」の変質と宗教』(新地書房、一九八六年)のなかの拙稿「正当化の危機と教学革新」(二六三−二九九頁)

(同上、註12、p. 140)


(19) 松戸行雄の凡夫本仏論の批判書としては日蓮正宗法義研鑚委員会編『創価学会の新理論とその本質』(法華講連合会、一九九七年)が、そして小林正博の法主絶対論宗史途中形成論の批判書としては『創価学会の宗史観を糾す』(大石寺内事部、一九九七年)が、同時期に出版されている。

(20) 正統性の根拠を物質(板本尊)の独占や位座の権威(法主血脈)に置いて他者を威圧する教学のこと。本論の註(12)で触れた拙稿「正当化の危機と教学革新」を参照せられたい。

(同上、註19-20、p. 141)


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