(〔豈+頁〕)の三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道)


 実相を観ずる智(〔豈+頁〕)の仏教は、真理の絶対性(時間的には本有常住・空間的には遍一切処)が前提になっているが、如来蔵を説く『起信論』の立場は、如来の絶対性が前提になっている。それは両者の法身観を見れば容易に首肯できる。智(〔豈+頁〕)の場合は、いかんが三にして、いかんが身ならん。法報応をこれ三となし、三種の法聚の故に身と名づく。いわゆる理の法聚を法身と名づけ、智の法聚を報身と名づけ、功徳の法聚を応身と名づく(『金光明経玄義』三c)境に就いて法身と為し、智に就いて報身と為し、起用を応身と為す。法身を得るを以っての故に常恒に不変なり(『摩訶止観』八五a)とあるように、法身は理であり、境であって、報身の智や応身の用と明確に区別されている。法身の理が本有常住であり、遍一切処であるが故に、法身の理を証得した報身の智もまた常住にして普遍であり、一切衆生に対して間断なき応身の用を起こすことができるのである。智(〔豈+頁〕)の場合は、法身は時空の限定を超えた絶対的な真理であり、実相も中道もその異名である。従って「諸法即実相」ということは、換言すれば「一色一香無非中道」ということであり、衆生に約せば「一切衆生無非法身」となる。法身の理が本有として遍満するが故に、一切衆生も法身の当体であり、それを「理即仏」と言うのである。
 智(〔豈+頁〕)の法身が実相の理であるのに対して、『起信論』の法身は如来の智である。如来の智が本有常住であり、遍一切処であるが故に、衆生の内にも本来、如来の智を蔵することになり、それを本覚と言うのである。それは衆生に本来具わる自性清浄心であり、真如(法身)であるが、現在は煩悩(無明)によって隠れている。すなわち衆生には、本有として悟りの心(本覚・真心・真識)が具わっているにもかかわらず、現実には迷いの心(盲心・盲識)によって不覚の状態におかれている。客塵たる煩悩を修行によって取り払えば、本有の悟り(本覚)が顕われる。『勝鬘経』には如来蔵を定義して、「在纏位の法身」と呼んでいるが、それは衆生の内に法身を蔵する(本覚)も、煩悩にまとわれて迷いのうちにある(不覚)という意味であり、修行によって内なる法身(本覚)を顕わすことを、『起信論』では「始覚は即ち本覚に同ず」と論じているのである。
 このように『起信論』の本覚思想は、本有常住・遍一切処の法身が智であるという前提に立って論じられているが、智は当然、理を悟った智であることから、理智不二の法身説と言うことができる。従って『起信論』の三身論は、この法身を根本の仏身として、報身、応身が論じられており、感受する行者の機類(識の種類)に従って報応の二身を区別していることがわかる。智(〔豈+頁〕)の三身論と対比すれば、智(〔豈+頁〕)は本有の理を法身、修得の智を報身、応現の用を応身とするのに対して、『起信論』では本有の智(本有の理も含む)を法身、修得の智(応現の用も含む)を報身、応現の用を応身としている。そこで問題となるのは、はたして本有の智、本有の覚をどのように考えたらよいか、ということである。仏教は本来、キリスト教のような天地創造の絶対者を認めない。キリスト教においては、神の絶対性に基づいて「はじめに神ありき」であるが、仏教においては、法の絶対性に基づいて「はじめに法ありき」である。法(真理)を悟った覚者を仏と称する、というのが仏教の基本思想であり、智(〔豈+頁〕)の仏教も止観を行じて三諦円融の法(実相・法身)を証得し、成仏することが目的である。『法華玄義』に云わく、実相の境は、仏・天人の作す所に非ず。本と自ら之れ有りて、今に適むるに非ざるなり。故に最も初めに居す。理に迷うが故に惑を起こし、理を解するが故に智を生ず(六九八b)諸仏の師とする所なるが故に境妙と称す。……境妙なるを以ての故に、智もまた随って妙なり。法常なるを以ての故に、諸仏もまた常なり(六九七c)『法華文句』に云わく、仏を覚者・知者と名づく。……菩提樹下にして、三十四心に正習倶に尽すは、即ち三蔵の仏の自覚覚他なり。(乃至)ただ不可思議にして虚空の如き相を示すは、即ち円仏の自覚覚他なり(四c)報身如来を詮量すれば、如如の智を以て如如の境に契う。……境は既に無量無辺、常住不滅なれば、智もまた是くの如し(一二八b)法身は当体に不滅を明かす。報身に不滅を説くは、必ず法身に約す。……応身に不滅を説くは須らく法報に約すべし。法報常然なれば応用絶えず(一三三b)。これらの文から明らかなように、諸仏の師とするところは法(境・理)であり、法を悟った人を仏(覚者)と称する。法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身)もまた絶対である。智(〔豈+頁〕)は決して「はじめから仏(報身)ありき」とは言わない。法(理)こそが本有常住にして、遍一切処であり、仏(智)はその法と一如になったが故に常住性と普遍性を身に具えた、と言っているのである。
 しかも智(〔豈+頁〕)は、境と智と和合する則んば因果有り。境を照らして未だ窮らざるを因と名づけ、源を尽くすを果となす(『法華文句』一二八a)と論ずる。そして法華経の本地仏(報身)の本因本果を明かして、本因妙とは、本初に菩提心を発し、菩薩の道を行じて、修する所の因なり。……本果妙を明かすとは、本初に行ずる所の円妙の因もて、常楽我浄を契得し究竟するは、乃ち是れ本果なり(『法華玄義』七六五a)と言う。これらの文と智(〔豈+頁〕)の六即義を考え合わせると、まず本有として実相の理が一切に遍満しており、その意味で一切衆生は理として法身の当体である(理即)。久遠の本初に菩提心を起し、菩薩の道を行じて、実相の理(境・法身)を究尽した一迷先達の覚者(始覚・究竟即)が法華経の本地仏(報身)であり、已来、三世に亘って応身の用を垂れて一切衆生を救済する。すなわち智(〔豈+頁〕)は本有の理(本理)は認めているが、本有の智、本有の覚(本覚思想)は認めていない。「境智合する時は必ず因果あり」であるから、智(覚)は必ず因を修して得られた修得の智(始覚)である。湛然が『止観輔行伝弘決』に、「当に知るべし。身土は一念三千なり。故に成道の時に此の本理に称いて、一身一念法界に遍し」(二九五c)と論じているのは、このような智(〔豈+頁〕)の本有の理(法身)と修得の智(報身)の関係を敷衍して述べたものである。

(花野充道「智(〔豈+頁〕)と本覚思想」、『印度学仏教学研究』第48巻第1号、1999年12月、pp. 154-156)


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