批判的外在主義(袴谷憲昭)


 Unser objektives Vermutungswissen geht immer weiter über das hinaus, was ein Mensch meistern kann. Es gibt daher keine Autoritäten. Das gilt auch innerhalb von Spezialfächern.
 Wir müssen uns klarwerden, daß wir andere Menschen zur Entdeckung und Korrektur von Fehlern brauchen (und sie nus); insbesondere auch Menschen, die mit anderen Ideen in einer anderen Atmosphäre aufgewachsen sind. Auch das führt zur Toleranz.
 Wir müssen lernen, daß Selbstkritik die beste Kritik ist; daß aber die Kritik durch andere eine Notwendigkeit ist. Sie ist fast ebensogut wie die Selbstkritik
(1).──Karl R. Popper──
 われわれの客観的な推測知は、いつでも()()()人間が修得できるところをはるかに超えでている。それゆえ、()()()()()()()()()()()()。このことは、専門領域の内部においてもあてはまる。
 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた、寛容につうじる。
 われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし()()()()()()()()()()()ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
──ポパー(小河原誠訳による)──
 最近、私は、『根本説一切有部律(Mu(_)lasarva(_)stiva(_)davinaya、以下『根本有部律』とも略す)』「薬事(Bhaisajya-vastu)」に伝えられるある物語に関して訳註研究を試みた折に、平川彰博士の説一切有部(Sarva(_)stiva(_)da)の三世実有説についての御見解を踏まえながら、その末尾の方で、次のように記した(2)
 やはり dharma は説一切有部の主張するように未来からやってくるのかもしれない。しかし、その dharma はいつまでも未顕現の漠然とした状態に留っているわけではなく、現実化させるためには、現在の第六意識によって明瞭に dharma として認識されなければならない。かくして過去に落謝した dharma の連鎖は決して消えもせず変更もされない。変えるためには、未来から積極的に dharma を取り込み、明瞭に認識した上で、新たな連鎖を過去に送り込んでいくのでなければならない。そういう意味で、説一切有部は、第六意識下の無意識的な働きを想定することを徹底して避けたのだと考えられる。もとより、この世には、ひとの過ちを無意識のせいにしてまでもそれを故意の罪と断罪せんと神のごとくに振舞う人がいることを私とて知らないわけではないが、私としてはやはり未来に夢を託したいと思っている。
 説一切有部の認識論が、このように、無意識的に内在するとされる心的状況の存在を徹底して避け、人の内在的な状況とは別個に三世にわたって外在していると見なされる dharma の因果関係を明瞭に認識するということを中心的な課題としていたとすれば、それは、近頃の認識論的観点からいって、「内在主義(internalism)」に対峙する、「外在主義(externalism)」と呼びうるかもしれない。その対峙する両者を辞書によって説明すれば次のとおりである(3)
 内在主義とは、ある人の信念(belief)を論拠づけるもの(what justifies)は、内在的な状況、例えば、知覚あるいは思考過程、いってみれば、希望的観測とは対照的にその信念をしっかりと確立するもの、に全面的に依存しているとする見解である。論拠づけられた信念とは、人がそのための正当な理由をもっているような信念である。もしもある信念が論拠づけられたものであるならば、その信念をもっている人はそれがそうであることを知っているのである。
 これと対蹠的に、外在主義とは、その信念をもっている人の内在的な状況とは別個の要素が関与しているのだとする見解であり、〔他者〕依存主義(reliabilism)とは外在主義の一種である。即ち、知識にとって重要なことは、正しい信念は依存するに足る過程によって生ぜしめられるという考えである。もう一つの外在主義的理論とは、知識の因果理論(the causal theory of knowledge)である。即ち、pという論拠づけられた正しい信念は、pという事態に起因するという考えである。若い子供の信念は、たとえその子がそれを採用するための正当な理由を()()ことがなくとも、恐らく論拠づけられて()()のである。論拠づけられるべき信念にとっての必要な条件は、たとえその信念をもっている人がその事実を知らなくとも、充されうるのである。外在主義は、いかなる意識的状況も論拠づけに関わらないという可能性を許すのである。
 この両者の対峙と、それにもとづいた上での「外在主義」の重要さを私に認識させてくれたのはポール=グリッフィス(Paul Griffiths)教授であるが、そのことを述べた論稿の中で、同教授は、「内在主義」の成立の困難性を次のような例をとりながら簡明に指摘されている(4)
 例えば、私はニュートンの運動の法則やフェルマーの最終定理についてなんらかの信念をもっている。しかし、私がこれらの件に関してもっている信念のすべては権威ある証明(authoritative testimony)にもとづいたものであって、──私はそれらを書物で読んだり教場で教わったりした──それらは自明のものでもなく感覚に明白なものでもなく、ましてや、自明なものか感覚に明白なものである信念にもとづいて多かれ少かれ演繹的にあるいは明証的に推論するという仕方によって私に得られたものではない(ニュートンの法則の真理は自明のものであるのかあるいは感覚に明白なものであるのか。否。私はそれらを自分で証明したのか。否。)故、従って、内在主義的観点からは、私がそれらをもっていることは論拠づけられないということになるのである。
 仏教思想史においては、いわばその「権威ある証明」を確立すべく説一切有部を中心に積み重ねられてきたものこそアビダルマ(abhidharma)の伝統にほかならないと言えるかもしれない。この説一切有部の dharma 観が「外在主義」的であったとすれば、本書で取り扱う yoga(_)ca(_)ra(瑜伽師)の dharma 観は明らかに「内在主義」的と規定できるものなのである。しかも、本書の主要部分をなすのはすべて私の旧稿であるが、その大半は、私がグリッフィス教授に出会う以前、すなわち、私自身も「内在主義」に肩入れしていた時期に執筆されたものにほかならない(5)。それ故、「内在主義」の私が「内在主義」の yoga(_)ca(_)ra について述べている本書の大部分は、決して「批判的」と言えるものではないのだが、その後私は「批判仏教(Critical Buddhism)」を主張し(6)、やがてその「批判」の根拠を「権威ある証明」の積み重ねとしてのアビダルマの伝統に求めざるをえないように変わってきた。しかも、かかる「権威ある証明」にも、私は、枕に使ったポパーが言うように、「いかなる権威も存在しない(Es gibt keine Autoritäten)」と思うので、私は「批判的合理主義(Critical Rationalism)」を唱えたポパーの顰に倣って「批判的外在主義(Critical Externalism)」とも言うべき観点から、インド仏教思想史における yoga(_)ca(_)ra の位置づけを論述することによって、「内在主義」的な旧稿の集成としての本書の「序論」に代えることにさせて頂きたい。文字どおりの(ひそみ)に倣ったかのごとき(7)軽薄な命名には、あるいは顰蹙を買うかもしれないが、御海容を賜われば幸いである。

(袴谷憲昭『唯識思想論考』、大蔵出版、2001年、pp. 2-5)

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唯識思想論考


 註

(1) Karl R. Popper, Auf der Suche nach einer besseren Welt, München, 1984, Taschenbuchausgabe, Serie Piper, 10. Auflage, 1999, pp, 227-228. これを御教示下されたのは、後註113で触れる藤重栄一氏である。同氏は、ドイツ語原文を示されたわけではなく、小河原誠『ポパー 批判的合理主義』(現代思想の冒険者たち14、講談社、一九九七年)、三四四 - 三四七頁のコピーによって、ポパーの提案する十二の原則からなる職業倫理を教えて下されたのであるが、今はそのうちの第一、第一〇、第一一のみを、以下のその小河原訳と共に、ドイツ語原文で示したものである。藤重氏には衷心より感謝の意を表したい。

(2) 拙稿「カイネーヤ仙人物語──「一音演説法」の背景──」『駒沢短期大学仏教論集』第六号(二〇〇〇年十月)、一一四頁

(3) Thomas Mautner (ed.), The Penguin Dictionary of Philosophy, Penguin Books, 1997, pp. 279-280. この項目の執筆者は、University of Indiana, Bloomington の Tim van Gelder 教授である。

(4) Paul J. Griffiths, "The Limits of Criticism", Jamie Hubbard & Paul L. Swanson (ed.), Pruning the Bodhi Tree: The Storm over Critical Buddhism, University of Hawai'i Press, Honolulu, 1997, p. 155. この原文は、次掲拙稿、三六六 - 三六七頁、註1に示してある。

(5) 私がアメリカでグリッフィス教授に初めてお会いしたのは一九八一年のことである。そして、その年の四月から始まった私のウィスコンシン大学マジソン校留学はちょうど一年十ヶ月に及んだが、旧稿中、完全にこの期間を過ぎて執筆されたものは、一九八五年八月脱稿の本書、第一部第三章に収録された「チベットにおけるマイトレーヤの五法の軌跡」、および、第三部第一章に収録された「Pu(_)rva(_)ca(_)rya 考」(脱稿年月日は消去されて不明、おそらくは、一九八五年冬)の二篇である。なお、第一部第二章に収録された「敦煌出土チベット語唯識文献」は、刊行こそ一九八五年であるが、執筆は、一九八一年十月、マジソンにおいてであったことをお断りしておきたい。また、個人的なことになるが、この時期を前後する私の思想的変化については、拙稿「是報非化説考」『駒沢短期大学研究紀要』第二九号(二〇〇一年三月)、三三一 - 三四○頁に記したので参照されたい。

(6) 拙書『批判仏教』(大蔵出版、一九九○年)を参照されたい。これを契機の一つとして刊行されたものが, J.Hubbard & P. L. Swanson, op. cit. (前註4)である。

(7) 「顰に倣う」とは、『荘子』外篇「天運」の一話に由来することはよく知られているが、ここにその話の原漢文を福永光司訳と共に示せば、故西施病心而(〔目+賓〕)其里。其里之醜人見而美之。帰亦捧心而(〔目+賓〕)其里。其里之富人見之。堅閉門而不出。貧人見之。挈妻子而去之走。彼知美(〔目+賓〕)而不知(〔目+賓〕)之所以美。惜乎。而夫子其窮哉。(絶世の美女としてその名も高い西施が、あるとき(むね)を病んで咳をするたびに村人の前で眉をしかめた。そのえもいわれぬ美しさにうっとりとした村の醜女たちは、家に帰ると、同じように胸をおさえて村人の前で眉をしかめて見せた。ところが、村の金持たちはその姿を見るとがっちり門をしめて外に出なくなり、貧乏人たちはそれを見ると妻子を連れて逃げ出した。この話で、醜女たちは、西施のひそめた眉の恰好の美しさは理解できたが、眉をひそめることがどうして美しく見えるのかという根本の理由は、理解できなかったのである。つまり、彼女たちは外形のみにとらわれてその本質を見ぬくことができなかったのだ。きみの先生がこの醜女たちのたぐいでないとどうしていいきれよう。わたしが最初に「残念なことにきみの先生は窮地に陥るだろうよ」と答えたのは、以上のような理由からだったのだ。)(福永光司訳註『荘子』「外篇・中」(中国古典選14、文庫版、朝日新聞社、一九七八年)、九三 - 九四頁)である。これを註して、福永同上訳註書は、「本文の「西施」は斉物論篇に既出。「(〔目+賓〕)」は「(ひん)」とも書く。この話は有名な「(ひそみ)(なら)う」という言葉の典拠をなす文章である。顰に倣うとは、本文でも説明されているように他人の外形だけを真似ることをいう。」と述べている。それで、もう言う必要もないであろうが、「顰蹙を買う」とは、眉をしかめて憂愁することである。「顰〔(〔目+賓〕)」については、白川静『字統』(平凡社、一九八四年)、七三三頁も参照されたい。ところで、日本人なら多くの人が知っているようなことを、このように長々と説明したのでは、それこそ顰蹙を買ってしまいそうであるが、本書が外国の学者にも読まれることを期待してあえて蛇足を加えたことを諒とされたい。

(同上、pp. 44-46)


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