中国仏教の底流─万物一体の思想(伊藤隆寿)


    中国仏教の底流──天地と我と同根
 中国に仏教が伝えられたのは後漢代のこととされるが、はじめは阿羅漢を応真と呼び、仏を大仙と称するなど、中国古来の黄老思想や神仙思想の反映が認められる。道家の理想は、万物の一なる根源である無為無名の「道」と一体化することにあった。その「道」を体得した人を聖人とか至人・真人とか称し、彼らはまた不老不死の神仙と同一視された。仏教の「仏」も、それと同様のものとして受け止められたのである。このような状況は、釈道安の残した文章によっても窺うことができる。
 一方、仏典の翻訳にも中国伝統思想の影響が見られる。中国での仏典翻訳の特徴は、訳された期間がきわめて長期にわたり、しかも訳された分量が膨大であること、また訳されたものが原典以上に尊重され神聖視されていることである(中央公論社「大乗仏典」6『浄土三部経』月報13の岡部和雄「訳経史点描」参照)。つまり中国の仏教者たちは、仏教を学ぶに際し、インド原典について直接学習するということをほとんどしなかったのである。
 しかるに、中国での仏教解釈はどのような状態であったのかと言えば、いわゆる「格義」と呼ばれるものであった。冒頭に述べたような仏に対する理解は格義なのである。すなわち格義とは、中国人がインドの仏教を受容理解するに際し、中国固有の思想──特に老・荘思想を媒介として行なったことを指し、そのような仏教を「格義仏教」と呼ぶのである。それは従来一般に、中国への仏教伝来から魏晋期に見られた現象であると理解されているが、その後の仏教者の文章を虚心に読むならば、鳩摩羅什以後禅宗の人々に至るまで、すべて格義仏教から脱却してはいない。つまり魏晋期の特殊現象ではないのである。漢文に訳された仏典から出発した中国仏教の宿命であったとも言えようが、結局中国仏教はインド仏教とは異質のものとなっているということは、仏教を学ぶ者の銘記すべきことである。
 そこで、格義仏教の実態を少し示してみたいと思う。

(伊藤隆寿『中国仏教の批判的研究』、大蔵出版、1992年、pp. 5-6)


      僧肇の涅槃
 羅什の弟子の中でも解空第一と称された僧肇は、仏教の「涅槃」についての見解を著わした(『肇論』の「涅槃無名論」)が、その中で次のように述べている。

然れば則ち玄道は妙悟に在り、妙悟は即真に在る。真に即すれば、即ち有と無と斉観され、斉観すれば即ち彼と己と二つ莫し。所以に天地と我と同根にして、万物と我と一体なり。(妙存第七)
 彼は、涅槃というのは名づけようのないもの(無名)と考えており、それはまた不可思議な存在(妙存)とも捉えている。右の文章で「玄道」というのは涅槃を指すことばであることは、「涅槃無名論」の開宗第一を見れば明らかである。そこでは、涅槃を説明するのに、全く『老子』『荘子』の「」に(なぞら)えており、その文章は格義そのものとなっている。涅槃に当てはめられた「」とはいかなるものか。『老子』に明瞭であるが、それは根源的で恒常不変的で、唯一絶対にして言語や思惟を超えたものとされている。「玄道」とはそのような根源的実在を指す言葉であり、「涅槃」というのもそのようであると考えられているのである。僧肇は言う、玄道すなわち涅槃の体得は妙悟にあり、妙悟は真理と一体となることだ、と。「妙悟」とは言葉では語れない神秘体験のことであろう。「」とは万物に一貫し万物に普遍的なものである。しかも「」と一体化すれば、有無・自他・主客などの区別は消滅してすべて(ひと)しく観られる。「斉観」は恐らく『荘子』の「斉物」に基づくであろう。斉物というのは『荘子』斉物論篇天下篇などに説かれるが、それは要するに万物のすべてをあるがままに容認することである。それはどのようにして実現されるかと言えば、忘我無心になって万物の根源たる「」と一体となることとされる。中国における現実否定と現実肯定の理論であるが、それはつまるところ「自然に帰る」ということになる。
 かくて「天地と我と同根、万物と我と一体」とされるのである。

(同上、pp. 6-7)


      梵我一如
 以上のような僧肇における格義仏教の実態を眺めていると、インドにおいて仏教が成立する当時のウパニシャッドの哲学で説かれた「梵我一如」を想起せずにおれない。バラモン教典における梵我一如の記述でよく知られているのは、『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』第四章「自己(アートマン)の探求」の第五節である。その最後の文章を、「世界の名著」1『バラモン教典 原始仏典』(中公バックス・服部正明訳)によって示すと次のようである。

そこで、ヤージニャヴァルキヤはいった。「ああ、わしは決して混乱させることを語っているのではない。ああ、実に、このアートマンは消滅することのないもの、不滅をその特質とするものである。というのも、いわば二元性といったものがあれば、その場合には一方が他方を見るのであり、その場合には一方が他方を嗅ぎ、味わい、語り、聞き、思考し、触れ、認識するのであるが、しかし、人にとって、いっさいがアートマンそのものとなったときには、彼は何によって何を見るであろうか。彼は何によって何を嗅ぎ、味わい、語り、聞き、思考し、触れ、認識するであろうか。この世のすべてがそれによって認識するその当体を、人は何によって認識することができようか。この『非ず、非ず』という(標示句によって意味される)アートマンは、不可捉である──それは把捉されないから。不壊である──それは破壊されないから。無執着である──それは執着しないから。つながれていないが動揺もせず、毀損されもしない。ああ、認識の主体を、何によって認識することができよう。これで、マイトレーイーよ、おまえは教えを受けたのだ。ああ、実に、不死の問題はこれで(説明し)尽くした」と語り終えて、ヤージニャヴァルキヤは遊行生活にはいった。 (同書、一〇六頁)
 右のヤージニャヴァルキヤの言葉は、梵(ブラフマン・宇宙の最高原理)と我(アートマン・個体の本質)とが一体となったところを説明したものである。ウパニシャッドの哲学では両者は本質的に一体であると考えられ、神秘的同一化を成り立たせたのである。ヨーガや苦行は、それを実現するための方法であった。同じく第四章第四節の「このアートマンは、まさに、ブラフマンである」とは、その核心を表明したものに他ならない。
 先の中国での万物一体の思想と今の梵我一如の思想と、そこに共に根源的実在を立てる点において、思想的同質性が認められることは否定しがたいであろう。
 インドの仏教は、右のようなウパニシャッドの哲学を継承する正統バラモン教に対して「縁起」を説き、「無常」「無我」を説いたのである。縁起説は、十二支縁起によって説明されるように、あらゆるものが因果によって成立するのみであることを示す。それを思想哲学的見地から言えば、万物の根源とか、恒常不変的で唯一絶対の存在とかを認めない思想である。その立場から主張される無常の意味は、言うまでもなく、例外なくすべては変化し時間的であることで、無我の意味は「我の否定」つまりインド土着の実在論の否定と考えることができる。

(同上、pp. 7-8)


      吉蔵の格義
 ところで、僧肇以後の中国仏教者の仏教理解はいかがであろうか。今『三論玄義』の著者である吉蔵をみると、彼は三論学の立場から諸経論に注釈を加え、三論教学の論理化、体系化を果たしたが、結局は中国的思考から脱することはできなかったと言わざるを得ない。それは『法華統略』巻二において、先に示した僧肇の「天地と我と同根、万物と我と一体」の語を引用して、法身の一元性と遍在性とを説くのをはじめ、『三論玄義』では次のように述べる。

夫れ道の状たるや、体は百非を絶し、理は四句を超えたり。之を言わんとすれば其の真を失い、之を知らんとすれば其の愚に反り、之を有らしむれば其の性に乖き、之を無からしむれば其の体を傷つく。故に七弁は音を()め、五眼は照を(くら)くす。釈迦は室を掩い、浄名は口を()ず。
 右の「」は直前に「至道」とあって、仏教で説くところの「究極の道」をいうのであるが、その実は明らかに先に紹介した中国固有の実在観に基づく「」と同類である。表現は異なるが、道・体・理は同義と見てよい。そして「之を言わんとすれば」より以下は、『肇論』「涅槃無名論」の開宗第一の引用なのである。その意味するところは、「至道」「至理」は言葉思惟を超えており、常識では把捉できないものであると言うのである。どうすればそのような「道の世界」「理の世界」に入り得るかと言えば、それはやはり先の妙悟によるほかはないのである。吉蔵はそれを「唯悟為宗」と表現し、妙悟した状態を「縁(認識の対象)と観(対象を認識するはたらき)と倶に(しずか)なり(『三論玄義』)という。ここに述べられる根源的実在としての「」や「」は、仏教の縁起説とは対立する思想であることは、最早明瞭であろう。これらの思想は仏教ではなく、中国土着の思想である老荘思想の核心なのである。したがって、私は釈尊による仏教と中国仏教との相違を明確にするために、老荘思想の特質たる「道・理の哲学」を媒介とした仏教理解をすべて「格義」と規定し、そのような格義仏教の実態を明らかにしなければならないと考えている。
 以上のように自己と万物との一体観、自己と真理との一体化に象徴される僧肇や吉蔵の思想は、中国の仏教や禅の底流を形成しているのであり、日本の仏教にも大きな影響を与え、そして日本人の仏教観にも深い影を落としていると思われる。
 『肇論』『三論玄義』などの中国仏教者の文章を、インドの釈尊の仏教を念頭におきつつ、先入観を払拭して読み返す必要を痛切に感じる。

(一九九○・七・二〇)

(原載、中央公論社『大乗仏典』〈中国・日本篇〉2 月報17、一九九○年九月)

(同上、pp. 8-10)

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