三時業説批判(角田泰隆)


自らの素朴な疑問とは、仏教思想史において無我説と輪廻説の矛盾は解決されたのかどうか、はたして輪廻説は、死によっても滅することがない永遠不変の実体を認めずして成立し得るのかどうか。アートマン(我)を否定して輪廻説は成り立つのかどうか。そして、道元禅師においてはどうであったのか、解決されていたのかどうか、ということである。
 そんな自らの疑問に自ら答える中で、しだいに否定的に答えるしかなくなっていった。つまり、仏教思想史において、結局は無我説と輪廻説の矛盾に対して明確な解決を得られなかったのではないか、輪廻説は死によっても滅することがない永遠不変の実体を認めずして成立し得えないのではないか、アートマン(我)を否定して輪廻説は成り立たないのではないか、無我説を主張する以上、輪廻説は否定しなければならないのではないか、道元禅師も結局は、仏教思想史における苦難の歴史のなかにおさまらざるを得なかったのではないのか、と。
 そんななかで、輪廻説批判や三時業説批判が芽生え、しだいにそれを確信していった。その根拠は、教理的にみて、過去における仏教思想史の苦渋はさておき、仏教は、時代社会的・文化的制約のなかで輪廻説を否定することができなかった(つまり取り入れざるを得なかった)とはいえ、本来は無我説を説くものであったということ、しかし現代においては(インド社会においても輪廻説に対する疑問が芽生えているらしい)それが正統的な道理であるならば、社会的・文化的な制約もなく、主張もでき、受け入れられる時代であること、常識的な見地から輪廻説の否定が可能であると思われること、即ち科学的に輪廻説は立証不可能であると思われること、そして未来において、未来思想において、無我説こそが充分な論理的根拠をもって認められ得るものに違いないと思われること、また、たとえ信仰的に認められるとしてもその信仰は利己的なもの(つまり基本的に、自己の行為は自己の未来に影響を及ぼすというもの)であること、たとえ方便説として認められるとしても、方便説であるとすれば……それは済度衆生の(衆生を仏道に導く、善業を行わせる)ための方便に違いないが……もしそれが差別を助長するものとなるとすれば不適当な方便説であると思われること、等々である。
 私は、以下、輪廻説と三時業説とを一様に論ずるが、このことにも批判があるかもしれない。しかし、古くから業の概念と輪廻説とは密接に結びついてきており、同じ論理構造を持つにいたっているといっても過言ではない。特に三時業の概念は、第二生(来世)第三生を想定する。そして当然、前世やそれ以前の生をも想定せざるを得ないのであって、根底では輪廻説と同一の論理構造を持つと言えるのである。
 私は、実際、輪廻説にしても三時業説にしても、これを事実とは思わない。方便説と考える。しかし、事実であれ方便説であれ、いずれにしてもこれを説くことを肯定すべきではないと考える。たとえば方便説であるとすれば、それは、現世を充実させるための、善を行じさせるための、悪をなさしめないための、そして現世の楽に感謝させるための、現世の苦を諦めさせ将来(来世)に光を与えるための、等々の方便と考えられよう。しかし、これとて、現代の人権・平等思想─いやけっしてそれは思想ではなくて真の道理であろうが─から視れば、方便としての意義を持たないのである。なぜなら、方便とは衆生を救うためのものでなければならないからであり、それに反して、輪廻説や三時業説が差別を助長してきた歴史があるからである。

(角田泰隆「三時業説批判(上)」、『曹洞宗宗学研究所紀要』第4号、1991年3月、pp. 126-127)


   三時業・輪廻説と無我説
 三時業とは、順現法受業、順次生受業、順後次受業をいい、順現法受業とは、その報いを現在世にもたらす業、順次生受業とは、その報いを第二生(次の世、来世)にもたらす業、順後次受業とは、その報いを第三生(第三回目以降の生)にもたらす業をいう。この三時業は果報の時期が確定していることから定業といわれ、これに対して果報の時期が確定していない業は不定業といわれる(2)
 業は、輪廻転生をあらしめる一種の力として、単に表面的な行為を指すにとどまらず、むしろ果報をともなう潜在的な力のほうを積極的に指すようになり、その考えが強く深くインド思想界に浸透した結果、業説を抜きにしたいかなる思想的表明もありえないほど重要な概念となった(3)。輪廻の起源は定かではないが、『リグ・ヴェーダ』では、すでに、人間は死後も何らかのかたちで生きのこるという概念が示されており、輪廻の主体と因果応報の思想はウパニシャッド文献の時代に入って確立されている(4)
 インド一般では、業の概念が、古くから輪廻説と密接に結びつき、人間の来世の状態を決定する根拠として考えられていた(5)ため、インド世界に成立したものである以上、仏教も業・輪廻説の影響から免れることはできなかった。民間レベルの輪廻観も十分に定着しており、同時に業・輪廻は教理化され、仏教哲学の体系に組みこまれていった。この際、つねに問題になったのは無我説との関係であった。インド思想諸派においては、個人存在の本質は「我」(アートマン)ないしそれに類する実体で、それが業を担いつつ輪廻すると説いたが、仏教ではこの「我」を否定した。このため、業を担い輪廻する主体と無我説との矛盾を明らかにすることは、インド仏教思想史の大きなテーマのひとつとなった(6)のである。輪廻を無我説に立って縁起というあり方で捉えた仏教では、その潜在的な力を担う主体がなんであるかという課題は、仏教思想史を通じて絶えず困難な問題として意識されていた(7)のである。無我説に背反しないよう、実体でなくてしかも業を担って輪廻する主体を求めて、インド仏教はついに唯識瑜伽行派のアーラヤ識にいたった(8)。しかしこのアーラヤ識の設定も、後に中観派によって、実体視されやすいものとして、きびしくそれを批判された(9)のである。
 さて、仏教思想史において無我説と輪廻説との矛盾が真に解決されたのかどうか、専門識者のご教示を賜わりたいと思うが、私見を述べれば、唯識瑜伽行派がアーラヤ識を設定することによって、はたして輪廻説と無我説の矛盾を解決することができたかどうかは疑問である。瑜伽行派は、本来、アーラヤ識を説くことによって、それが実体視されることを極度に恐れていた(10)とされるが、アーラヤ識を実体としない論理がいったいどのように確立されていたのか、筆者にはわからないし、アーラヤ識を説くことによって、かえってそれがまた実体視される結果になったとすれば、そういう結果を導きだす欠点がアーラヤ識の論理に既にあったといわざるを得ないであろう。
 輪廻の基本構造はまず霊魂の存在を前提とする。霊魂は人間存在の本質で永遠不変の実体であり、死によっても滅することがない。一方、人間の行為(業)はつねにのちのちに影響を及ぼす潜在的力(業または業力)を生む。業力は霊魂が担うものと考えられ、人が死ぬと霊魂は業の善悪に応じて、しかるべき世界に生まれかわる。しかし、いかなる生においても、行為(業)は必ずや業力を生むから、霊魂はつねに業力の支配下にあり、(かぎりない)死と再生とを無限に繰り返していく。これが輪廻である(11)
 輪廻説は、死によっても滅することがない永遠不変の実体を認めずして成立し得るのかどうか。アートマン(我)を否定して輪廻説は成り立つのかどうか。仏教思想史は、結局はこの問題の解決を得ることができなかったのではないか。

(同上、pp. 127-128)


 ところで、私の屁理屈を述べれば、Aが第二生(来世)にBに生まれ変わる≠ニかBは前生においてAであった≠ニか言った場合、Bは過去世にAであったことを覚知するのかどうか。ちなみに私は、それを覚知しないが、これについて、それは私が覚知しないだけである、或いは、私が覚知できないだけである、と言われるのなら、または、AがBに生まれかわるのは事実であるがそれは覚知できない、と言われるのなら、私にとってはAとBは全く別者としか考えられないので、前世とか来世とか生まれ変わるなどということは、きっぱりと否定したいのである(ただし、末尾に述べるように、信仰的な立場、仏道の立場からは、つまり自己の慢心を除き、この一生を謙虚に受けとめる立場からは肯定したいが、それはまた違う次元の問題である)。

(同上、p. 129)


(2) 『仏教・インド思想辞典』一九八七年四月、春秋社刊、一一六頁〜一一七頁。以下、「業」「輪廻」「因果」等の概念について、同書を参考にさせていただいた。同書において、「輪廻」については奈良康明教授が、「業」については袴谷憲昭教授が、それぞれ解説されている。

(3) 同右書、一一三頁 (4)同右書、四八五頁 (5)同右書、一一三頁 (6)同右書、四八八頁 (7) 同右書、一一六 (8)同右書、四八九頁 (9)同右書、一一七頁 (10)同右書、一一七頁 (11)同右書、四八四頁

(同上、p. 135)


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