肯定と批判と無知と無視─無視≠ニいうことが最悪
(松本史朗)


 ところで「批判」という語が繰り返されたが、「批判」という行為、言動が全く仏教的な思想原理、つまり縁起説に基いていることについて、一言しておこう。仏教において同一性は全く認められない。同じものは何もなく、すべては異なっている。同一性や平等を説き、大同小異、大同団結をいうのは如来蔵思想であって、仏教ではない。このように仏教では差異≠ニいうことに最大の価値を見出す。我々人間が一人一人価値をもっているのも、一人一人が相互に異なっているからだ。教育者はこの点を忘れないでほしい。どんな人間にも価値がある。それは他の人と異なっているからだ。さて批判ということも、差異にこそその根拠がある。仏教に対するある人の解釈と他の人の解釈は大体同じだなどというのは、仏教的見方ではない。我々は二つの解釈の細部に見られる差異、実にトリビアルな差異にこそ最大の価値を認めねばならない。だからあるテーマに関して、漠然たる概説的な論文が書けるということは、実は恥かしいことなのだ。批判と概説とは逆である。全く共通な所がない。ある先行する学説に対して、その後に述べられる学説がもつ関係は四つしかない。つまり、肯定と批判と無知と無視である。しかし単なる肯定≠ネらば、同じ学説を繰返すことに意味はない。せいぜい先行する学説の主張者の業績をうばわない様注意すべきだ。無知≠ニいうのは、先行する学説の存在を知らないことだが、これは致し方がない。後でそれを知ったとき、自説を修正しなければならない。しかし言うまでもなく無視≠ニいうことが最悪であり、日本の学界に横行している。これを平和的共存というべきか。

(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 17)

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