密教の即身成仏は作り話(小川一乗)


 日本の真言密教は、弘法大師空海によって開かれたわけですけれども、その真言密教のルーツは、言うまでもなくインドの密教です。それでインドの密教についもう一度振り返ってみたいと思います。
 インドの仏教におきまして、紀元前後に大乗仏教というものが興り、在家中心の仏教が大乗仏教として開かれていきます。その中で、在家信者が持っているインド民族としての習慣、民族宗教、あるいは俗信といったものが在家信者といっしょに仏教の中に入り込んできます。これはもうやむを得ないことです。もっとも、日本の空海の真言宗とか、最澄の日本天台宗のように、最初から日本古来からある民族宗教を積極的に取り込む場合もありますけれども、インドの大乗仏教の場合は、そこまで積極的であったかどうかわかりませんけれども、在家中心の仏教になりましたら、在家信者の持っているいわゆる除災招福という現世利益信仰が仏教の中に次第に入ってきます。都合の悪いものは除いて、都合のいいものだけ来てほしいという除災招福の信仰はどこにでもあるわけですが、インドにも古来から、人間に災いをなす精霊であるとか、鬼神といったものからの災いを除くといった民間信仰があります。そういったものを背負った在家信者が、大乗仏教の中心になっていくわけですから、仏教の教えを聞きながら、あるいは、仏教の教えに帰依しながら、一方ではそういうものを仏教の中へおのずと取り込んでいく、そういう方向をたどらざるを得ません。
 そのような現世利益信仰ということを、宗教の儀礼として取り入れていくと、それが加持祈祷となっていきます。そういう現世利益信仰が仏教に入り込んでいく。そういう状況をたどりだすのがだいたい龍樹の時代の後で、三世紀ごろから始まるわけです。そして、六世紀ごろまでの三百年間にインドの民間信仰の影響を受けていきます。
 そういうインドの民族の中に伝統的に伝えられているいろいろな宗教の在り方や、生活様式の在り方や、そういったものを全部ひっくるめたタントリズムというものがあります。インド人の間で古くから持ち続けられてきた民間信仰、星占い、祭式、儀礼をはじめ、医学、薬学、天文学、錬金術などの科学、あるいは法律などの日常生活などの規範、そういったインド民衆の文化を総括したのがタントリズムというわけです。そういうタントリズムが仏教の中に次第に入り込んでくる六世紀ごろまでが、インドの雑密時代といわれます。また仏教の教えのほうが中心となっているけれども、密教の教えがどんどん入り込んできて、そこに混じってきているというので雑密時代というのです。
 そして六世紀が過ぎますと、密教の経典のもっとも代表的な『大日経』ができます。そして、いよいよ密教のほうが仏教よりも強くなってくる。こんどは仏教がかたわらに置かれてしまって、密教のほうが中心となる純密時代となっていくわけです。八世紀ごろになるとそういうことになります。そのころに、空海なども非常に重要視しております『金剛頂経』というお経ができてきます。
 このように『金剛頂経』が八世紀ごろに確立されまして、そこでインドの大乗仏教は、完全に密教となっていくわけなのです。そういう密教の基本的な立場は、インドの宗教、いわゆるバラモン教が民衆の間に信仰として広まったヒンズー教、その影響を受けて変化したのが密教であると定義づけることができると思います。それから、その基本的な性格としては、除災招福の現世利益と、加持祈祷の儀軌、それが基本的性格だと思います。それらの基本的なものの特徴というのは、三つぐらい挙げられると思います。まずはじめは神秘性です。どういうことかといいますと、一人の行者の中に大宇宙が存在するというのです。一人の密教行者の中に内在する大宇宙、それが大日如来です。密教行者と大宇宙が一心同体である。そのことを見いだす神秘主義というのが一つの基本的特徴だろうと思います。
 それから二つ目の特徴は、バラモン教などの儀礼の形式を取り入れた。儀礼主義というものです。
 それから三つ目の特徴として、土着性というのがあります。インドにおける民間信仰などのタントリズムが基本にあるわけですから、土着性ということがインド密教の基本的な特徴としてあるのです。
 密教の本尊は、大日如来ですが、その大日如来というのは、大宇宙の生命そのものなのです。そして、その大日如来という大宇宙の生命が、実はこの私の生命となっているというのです。ですから、これは完全にインドの宗教体系としての梵我一如と同じ考えです。インドの宗教でいえば、梵つまりブラフマンのことを、密教では大日如来と言い換えただけのことであるといえます。我つまりアートマンというのは、私たち一人一人に存在するものです。インドの伝統的な宗教においては、大宇宙の生命であるブラフマンが実は私のアートマンとなっているのであって、それは本来いっしょのものなのだというのが梵我一如です。この思想が仏教の中へ取り入れられて、密教の大日如来の教えとなった、簡単に言ってしまえばそういうことなのです。大日如来という仏教の表現を取りながら、梵我一如というインド古来からの伝統的な宗教観を内実としている、そういうのがインドの密教なのです。
 そういうインドの密教が、日本の空海によって、より洗練され、一つの完成をみていくわけです。インドの場合は、インドの民族宗教の中に仏教が埋没してしまって、仏教は完成するどころか、姿を消してしまうわけですが、それに対して、あくまでも仏教という立場を取りながら、密教を完成させていくのが空海です。その空海が、即身成仏という仏道をつくっていくわけです。ところで、八世紀ごろまでに、『大日経』ができて『金剛頂経』がそれに続いてできる。その『金剛頂経』『大日経』が中国へ翻訳、伝播していく。そして、その中の『大日経』によって胎蔵界曼荼羅が作られ、『金剛頂経』によって金剛界曼荼羅が作られます。その『大日経』に基づく胎蔵界曼荼羅と『金剛頂経』に基づく金剛界曼荼羅の二つをセットにして、密教を確立したのが中国の恵果(七四六〜八〇五)という人です。この恵果が空海の先生です。空海が中国に留学したときに、この恵果という人の下で密教を学んで帰ります。
 それでいちおう空海の即身成仏という「即」の仏道は、恵果から授けられたといわれているわけです。
 空海にはいろいろな書物がありますけれども、『即身成仏義』『弁顕密二教論』という二つの著作を中心にして、その思想を見てみますと、空海は『弁顕密二教論』の中で、大乗仏教と密教との違いを、はっきりと論証しようとしています。ですから、真言密教というのは大乗仏教ではなく、密教は大乗仏教よりもすぐれた教えということになっているわけです。『弁顕密二教論』の顕密というのは、平安時代の仏教のことを顕密仏教といいますけれども、顕というのは大乗仏教で、具体的には、当時の日本天台宗です。密というのは密教です。ですから、大乗仏教と密教とをきちんと分けて、顕教よりも密教のほうがすぐれているということを著しているのが、『弁顕密二教論』という書物なのです。
 それでは、空海の即身成仏というのはどういうことかといいますと、『即身成仏義』によって、簡単にその内容を説明します。『即身成仏義』のいちばん最初に、「問うていわく、諸経論の中にみな三劫成仏と説く。いま即身成仏の義を建立する。なんの憑拠かある」。これが書き出しなのです。憑拠というのはどんな根拠があるかということです。諸経論の中にみな三劫成仏を説く。三劫成仏ということは、気の遠くなるような未来世においてしか仏になれないという意味です。当時の日本天台宗を筆頭とした大乗仏教は三劫成仏を説いてきた。しかしいま自分は、これから即身成仏、この身がこのまま仏であることを説くのである。では、それにはどういう根拠があるかといって、『大日経』とか『金剛頂経』などの経の文章を引用しているのです。
 ところで、三劫成仏というのはどういうことかといいますと、すでに明らかにしましたように、ものを実体的にとらえて、実体的にとらえた煩悩を全部なくして、煩悩がなに一つ残らずなくなった状態が涅槃であるという実体論の立場にたって仏道を修行するようになったのが阿毘達磨仏教です。ところが、これは実現できないのです。そこで生まれ変わり死に変わりして修行を続けることによって、仏となるという発想が生まれてきます。そして、それが大乗仏教になると、単に一回や二回生まれ変わってもだめで、三つの劫、数え切れないほど生まれ変わり死に変わりすることによってしか仏になれないという思想へと展開していくわけです。これは人間の立場から成仏ということを実体的に見たときにそうなっていくわけです。実体的な煩悩を一つ一つ打ち破っていって、その煩悩がなくなるとき涅槃を得るという実体論的な発想になるかぎり、これは人間の身の上にはそれは絶対実現できないわけですから、そうすると、それは遠い未来世においてしか実現できないという方向へといかざるを得ないのです。
 とにかく、人間の立場から、実体論的に悟りというものを考えたときには、永劫の未来、三劫の未来においてしか仏になれないという方向性を、どうしてもたどっていくわけです。
 ところが、その実体論を実体論のままに見事に逆転したのが密教なのです。こんどは、仏の立場から、悟りの実体論を展開したわけです。つまり、生死即涅槃ということを、涅槃のほうから展開したわけです。実体論の立場にたちながら、仏の悟りの世界から人間を救おうとしたのが密教であり、そして、そこから生まれてくるのが即身成仏の「即」の仏道なのです。梵我一如というインドの伝統的な宗教観にのっとって、それを明らかにしたのが即身成仏なのです。

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 411-417)


 このように空海は、大日如来という仏の側から、涅槃の側から、人間を救うという仏道を明らかにした。大日如来を作り上げているものも人間を作り上げているものも全部同じである。だから人間存在はすべて大日如来と同じ存在なのだ。そういう仏の側から人間の救済を、実体論に立ちながら、即身成仏として打ち立てていく、これが真言密教の基本なのです。
 そうすると、大日如来の側から見たとき、私たちはあくまでも人間ですから、その即身成仏ということをどう実現していくかということが問題になってくるわけです。それを説明しているのが『即身成仏義』という書物です。
 まず、大日如来の本体はなにかというとそれは六大であるといわれています。六大というのは、地、水、火、風、空、識の六つであって、これが大宇宙、大自然の根源的な生命。それを大日如来の本体というわけですから、これを六大法身というのです。
 六大によって成り立っている法身のことを大日如来といい、それが大宇宙の生命の本体なのですが、実は人間も、この六大によって成り立っているのです。そこで人間のことを六大によって成り立っているということで、六大所成というのです。このように、本体論からまず、大日如来と人間は区別がないということを言っているわけです。これがいわゆる本体論です。
 次に、この本体である六大法身と六大所成が「即」の関係にあるということを象徴的に表現する、シンボライズするわけです。象徴論です。そういう象徴論として四曼というのが説かれる。四曼というのは四つの曼荼羅という意味です。四つの曼荼羅とは、「大」「三昧耶」「法」、それから「羯」、これら四つです。
 大曼荼羅というのは、仏や菩薩の姿を絵画で表す。いわゆる、金剛界曼荼羅であるとか、胎蔵曼荼羅であるとかいうように絵に書いて表す、それが大曼荼羅。密教のお寺に、曼荼羅が掲げてあるということは、それと向かい合うことによって、自分が大日如来と一体であるということを体験するためなのです。
 それから、三昧耶曼荼羅というのは、こんどは仏を仏具で象徴する。それが三昧耶曼荼羅です。大日如来を仏具を通して実感していく。
 それから、法曼荼羅というのは、こんどは梵字です。梵字というものを通して仏の実在を感得していくための一つの象徴なのです。
 それから、次の羯というのは、サンスクリットではカルマというのですから、行い、行為です。いろいろな行いを行う、護摩をたいたりする行為というのも、一つの曼荼羅なのです。
 絵画、仏具、梵字、それから加持祈祷などの曼荼羅なのです。この四つの象徴、大曼荼羅、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、羯磨曼荼羅によって、大宇宙の生命とこの私の生命が一身同体であることを感得していくわけです。これが象徴論です。
 ですから、この象徴論の基本には、まず本体論がなければいけません。本体論のうえに立って、大日如来と私が一体であるということを、象徴的に表現したのが四曼です。
 それから三番目、最終的に説かれるのは実践論です。それを三密といいます。これは三業のことで、身と口と意の三業です。身における業と、ことばによる業と、こころによる業、それを三密という。密教で身業といったらなにかというと、印を結ぶということです。いろいろな印契を手につくるというのが身業です。それから口業というのは、口に真言を唱えること。真言を唱えて瞑想に入り三昧に入る。その三摩地に住するというのが意業ということになります。
 ですから、真言密教における実践論というのは、手に印契を結び、口に真言を唱え、こころを三摩地に住する、これが密教の行なのです。それを三業といわずに三密といったのは、その三つの行いをすることによって、大日如来のはたらきと人間のはたらきとが、見えないところで、目に見えない力で交流を始める。だから「密」なのです。仏の側からのはたらきと、その身口意の実践を行っている密教行者とが見えない糸で次第に結ばれていく。そして仏のはたらきと人間のはたらきとの間には、目に見えない力の交流があり、人間が自分一人で行動をし、ものを言い、考えているようでも、実はそのいずれもが、仏との間を、冥々裏に、暗々裏に往来し、交通している。そういうひそかな仏と人間との交流が行われているから密というわけです。
 そういたしますと、この実践を行っている密教の行者が身口意による三密を実践し、大宇宙と一体化してはたらかせることにより、逆に宇宙の本体を動かしていくことができるということにもなります。そこまで実践していくわけです。そして自らの存在が大宇宙の生命と一体化して不ニとなる。そこで自分自身が仏であると悟るわけです。以上のようなことが、『即身成仏義』に説明されているわけです。
 本体論の六大と、象徴論の四曼と、それから実践論としての三密と、これらによって、私たちは、実は仏と同一である、この身このままが仏である。こういうことが基本にあるから、のちに日本では、男女がいろいろな性的な行為を自由にする左道密教というのがはやったりします。なぜかというと、極端になりますと、私が行っている行為は私が行っているのではない、仏が行っていることになるからです。だからなにやっても、私ではない。仏がやっているのです。理屈を突き詰めていったらそうなります。ですから、男の人が女の人を好きだと思ったとしても、これは私が思っているのではないのです。大日如来が思っているのです。そういう方向に走っていくのが左道密教です。
 そういうような、極端な社会風紀を乱す人々が出てくるのも、いま言ったような「即身成仏」というものが、基本にあってそのようになるわけです。
 即身成仏として空海によって確立された真言密教の「即」の仏道というのは、以上のようなことなのです。したがって、即身成仏という場合の成仏ということは、悟りの知見といった自覚的な事柄というよりも、成仏とは大日如来と成る、大日如来の分身となるとでもいい得るのであり、きわめて実体的な成仏なのです。

(同上、pp. 418-421)


簡単にいえば、ものを実体的にとらえて考えているか、実体的にとらえないで考えているか、その違いだけなのです。実体的にとらえたら、ものすごくわかりやすいのです。密教の六大にしたってわかりやすいでしょう。世界は六大によって成り立っている。みんなそうだと。そのことを象徴によって体験するのが四曼である。そして、仏と自分が一体であることを確認するのが三密である。そこには、仏と人間との間に意思の秘密の交流があって、仏との冥々暗々裏の交流が行われて即身成仏なのだ、そういうふうに実体的にいわれると、なんとなくわかったようになるけれども、それはあくまでも、私のことばで言えば、作り話なのです。その作り話によっては、成仏ということも結局は作り話にすぎないことになるわけです。

(同上、pp. 425-426)

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