肯定的証拠をいくら積み重ねても理論の正しさは証明されない
(小河原誠)


 ポパーの洞察を解説するのに役立つおもしろい逸話がある。一九一九年当時ポパーはアドラーがウィーンの労働者地区に設置した児童相談所で子供や青少年のために働いていたのだが、夏のある日、格別アドラー的とも思えない事例を報告した。すると、アドラーは、その患者を見たこともないのに、みずからの劣等感理論によってなんなく説明した。いささかショックを受けたポパーが、どうしてそれほど確信をもって説明できるのかと尋ねたところ、「こういった例は千回も経験しているからだよ」という返事だったので、ポパーは──筆者が思うには、相当に皮肉のこもった眼差しを向けながら──「で、この新しい事例で、先生の経験は千と一回になるんですね」と言わざるをえなかったという。
 この話、ポパー哲学について以前に解説を聞いたことのない人には、言わんとしていることがまったく掴めないのではないかと思う。若干の解説を加えるためには、まず、アドラーがまさに()()()()()()()()()()()()()()()()、さらに()()()()()()()()()()()()()()()()()こそ自らの理論の科学性を証明する根拠であると考えていた点を指摘しておかねばならない。そして、このような考え方は、今日でも多くの人びとが漠然とではあれ、科学について抱いているイメージの一部かもしれない。
 しかしながら、何でも「説明」できてしまうということに、われわれは一種のいかがわしさを感じはしないであろうか──現代の週刊誌をにぎわせている占星術とか血液型性格判定といったものにいかがわしさを感じるように。論理的に考えるならば、少なくともみずからの理論と矛盾することがらは──それが現実に生じていようがいまいが──整合的には説明できないはずである。なぜなら、説明するとは、少なくとも理論と説明されるべきことがらとを論理的に両立させることだからである。
 この点をごく簡単な例で説明してみよう。いま、ある町で殺人事件があったとしよう。刑事は、容疑者Xを真犯人とする理論──「理論」という言葉が大げさだと言うならば、説明の体系とか推理といってもかまわない──をたてたとする。この理論によれば、容疑者Xは、犯行のあった時点で当然のことながら、現場にいたはずだということになる。他方、この理論は、言うまでもないことながら、容疑者Xがアリバイをもつこととは両立しない(矛盾する)。もし、この理論が、容疑者Xにアリバイが()()()()()()()()、Xを真犯人にしてしまうとしたらどうであろうか。だれしもこの理論をバカげたものと考えるだろう。あるいは、こうした理論なるものを振りまわす人物に恐怖を覚えるかもしれない。矛盾することがら──たとえば簡単にいって、アリバイがあることとないこと──を同時に「説明」してしまう理論は、理論としての中身がないのであり、空虚なのである。ポパーは、アドラーの理論にこの種の「空虚さ」を感じとったのであろう。

(小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(現代思想の冒険者たち 第14巻)、講談社、1997年、pp. 24-25)


 一般的にいって、理論は、もしそれがまともなものであるとすれば、みずからの主張と矛盾することがら(事象、出来事)は起こりえないこととして排除する。言いかえると、あることがらが生じると主張することは、それとは両立しないことがらを生じえないこととして排除することなのである。これは、当然なことであろう。右にあげた例に即して言えば、Xが「真犯人」であると主張するときにはXがアリバイをもつことを排除している。理論は、まともであるかぎりで、ある種の事象を排除するのだとすれば、その排除された事象が生じてしまったときには、理論の方に誤りがある、つまり、理論は偽とされた(反証された)ことになる。例にもどっていえば、容疑者Xにアリバイがあることが明らかになったら、Xを真犯人とする理論(説明の体系あるいは推理)は崩れさったということである。
 しかしながら、みずからにとって都合の悪い事実が生じてきたときに、これを巧みに回避してしまうこと──反証回避戦略をとること──も論理的には決して不可能ではない。われわれの例でいえば、容疑者Xにアリバイがあることが明らかになったとき、刑事はみずからの理論を信じるあまり、Xのアリバイ崩しにのめり込むかもしれないし、さらには証人たちは偽証しているとさえ考えるかもしれない。ところで、もしXが真犯人でなかったときには、刑事のこのような行いは、前節でのポパーの言葉でいえば、「損失を回復しようとしてますます損を重ねていく過程」であったことになろう。だが、他方で、Xが真犯人であったときには刑事の試みは真実を探求する正当な試みであったことになる。
 反証回避戦略をとることは、ときとしては理論が反証されてしまったことに対するみっともない取り繕いであり、ときとしては新たな真理を発見するための果敢な試みである。したがって、この戦略をとることを頭からいいとか悪いとか決めつけることはできない。
 しかしながら、反証回避戦略のうちには極端な種類のものがある。すなわち、いっさいの反証をはなから受けつけない狂信的タイプの反証回避戦略といったものが存在する。ポパーは、そのような戦略をフロイトの精神分析やマルクス主義などの一部に認めた。

 精神分析学者はどんな反対意見に出会っても、その反対意見は批判者の抑圧のせいであると示して、いつでも反対意見を説明し去ることができる。同様に、意味の哲学者もまた、彼らの敵対者の主張を無意味であると指摘しさえすればよい。そして、この指摘は、「無意味」という言葉の定義がこの言葉についての討論は無意味である、というように定義されているのだから、いつでも真である。マルクス主義者も、同じ手管で敵対者の不同意をいつでもその敵対者の階級的偏見によって説明する……。
 このような反証回避戦略がとられると、反証ということが原理的に考えられなくなる。どんなまともな反論が述べられたところで、それは「抑圧があるからだ」とか「階級的偏見があるからだ」といって片づけられてしまう。これは、一見、その理論が無敵の理論であるかのような印象をあたえるが、よく考えてみるならば、どんなことでも説明できる──みずからに対する反対意見としての批判さえ説明し去ることができる──ということは、実はなにごとも排除していないから可能なのであり、理論としては空虚なのである。そして、(理論として)「空虚である」とは、経験となんらのつながりをもたないということでもある。ことばを換えれば、そのような理論は、決して(経験的には)反証されえないのであり、無傷でいられるのである。

(同上、pp. 25-27)


 さて、以上でポパーがアドラーに不信の目をむけたときの理由の一端を説明したことになる。ここでは、もう一端、つまり、肯定的証拠を積み重ねることが科学の営みであるという考えに立ち返ってみよう。これは科学についての本当に正しい見方であろうか。
 一例として、天動説、つまり、大地は静止しているという考えが信じられていた時代を考えてみよう。その時代にあっては、京都においてであろうが、北京においてであろうが、たとえば小石を自然落下させれば真下に落ちるという、大地静止説にとっての肯定的証拠をあらゆる地点あらゆる時点で無数に集めることができただろう。そしてもし、帰納法が科学を営む唯一正しい方法であると信じられていたとしたら、世界の各地をめぐりながら、またさまざまな物体を自然落下させながら、真下への落下の事例をかき集めていくことが科学であったことになるだろう。しかし、それらの証拠なるものは、なるほど大地静止説とは矛盾しないかもしれないが、大地静止説が真なることを立証するだけの力をもっていただろうか。明白に否である。
 地動説を信じ、地球の自転を信じている今日のわれわれにとって、小石が自然落下で真下に落ちるのはまさに地球が静止しておらず、動いているからである。真下への自然落下は、慣性の法則を念頭におけばまさに、地動説──天動説とは決定的に矛盾する──にとっての肯定的証拠である。真下への自然落下という同一の事象が相矛盾する理論双方にとっての肯定的証拠となってしまうのである。いったいこれはなにを意味しているのであろうか。──ひとつの解釈がある。肯定的証拠をいくらかき集めたところで、理論の真なることを立証できないのであれば、そのような営みはきっぱりと投げすてて別な方向に科学の真のあり方を探らねばならない。そして、実にこれこそが一九一九年の時点でポパーが歩みだした道であった──今世紀の科学哲学の樹立に決定的役割を果たした反証可能性というみのり豊かな観念を胸中に秘めながら。
 もはや、なぜポパーがアドラーに皮肉のこもった眼差しをむけたかは理解していただけたであろう。ある理論にとって肯定的「証拠」となるものをいくら集めたところで、それらは当該の理論を立証しえないのだとすれば、肯定的証拠を千と一回つみ重ねたところで、それはまったく無意味である。それどころか、もしかしたらみずからの支持している理論は偽であるかもしれないのに、それにしがみつきつづけるという危険な営みでさえあるのだ。
 さて、ここに述べてきた話は、科学とは証拠をたくさん集めて理論を立証することだと信じている人にとっては相当にショッキングなことがらであろう。理論の真なることを立証するのが科学だという考えが根本から揺さぶられることになるからである。
 いったい、科学とは何なのであろうか。──再度いうが、これがまさしくポパーの直面した問いであった。ひょっとしたら、科学というものは証拠によっては立証できない、天動説とか地動説といった観念の体系にすぎないのではないだろうか。われわれはそれに捕らえられた囚人にすぎないのではないだろうか。
 ポパーは反証可能性の考えを把握したとき、囚人の地位から逃れでる道のある〔引用者註1〕ことも同時に把握していた。話を抽象的にしすぎないようにするために、大地静止説に即してポパーの立場を解説してみよう。たとえば、大地静止説に拠っていても、進行している船の船室内で自然落下の実験を試みることはできるだろう。そのとき、大地静止説の立場からするならば、落下物は当初の予想地点よりも後方に落ちると予測せざるをえないはずである。そうでないのであれば、大地静止説は反証された──あるいは少なくとも大きな疑問にさらされた──ことになるか、あらたに大地静止説を救うための反証回避戦略がたてられねばならない。しかしながら、少なくともここには観念体系の内部にいてさえその体系への反証実験を考えることができるのであり、そして反証が生じるならばそれを通じて、体系の囚人であることから逃れでる可能性のあることが示唆されている。ポパーは、反証を通じてよりよい理論を求めることこそが科学であって、肯定的証拠のみを拾い集めることは──そんなことをしても理論の真なることを立証することさえできない──科学から遠くかけ離れた行為であると考えるにいたったのである。
 ポパーは、アドラーの個人心理学、フロイトの精神分析、マルクス主義などのなかに、反証を回避し、とにもかくにも肯定的証拠を積みかさねようとする「非科学的な態度」を見た。それに対して、ポパーがアインシュタインのうちに見たものはそれとはまったく正反対のものであった。

 しかし私に最も感銘をあたえたのは、アインシュタイン自身が、もし自分の理論が一定のテストに落第したならば支持しがたいものと認めると、はっきり言明したことであった。…
 …アインシュタインは決定実験を求めた。その決定実験は彼の予測と一致しても彼の理論をけっして確立しないであろうが、一致しない場合は、彼が真っ先に強調したように、彼の理論が支持しえないことを立証するであろう。
 これこそ、真の科学的態度である、と私は感じた。それは、自分のお気に入りの理論に対するもろもろの「実証」が存在するとたえず公言する独断的態度とは、まったく異なっていた。
 こうして私は、一九一九年の末までに、科学的態度とは批判的態度であり、この批判的態度は実証を求めるものでなく決定的テスト──理論を確立することはけっしてできないけれども、テストされる理論を反駁できるテスト──を求めるものである、という結論に達した。
 ポパーは、科学的理論は反証にさらされうるものであり、そして科学的態度とはなによりもまず理論をそうした反証にさらそうとする批判的態度であると考えたのである〔引用者註2〕。そして、この態度のうちに彼は観念の囚人であることからの脱出の可能性、あるいは「損失を回復しようとしてますます損を重ねていく過程」から逃れでる可能性をみていた。

(同上、pp. 29-33)


〔03.07.09 引用者註〕

(1) 「囚人の地位から逃れでる道のある」とは、ポパー流に言えば、「われわれにはつねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由がある」ということカール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103

(2) すなわち、「ポパーの批判的方法は、真理所有の正当化の道具ではなく、真理探究の道具であり、偽を発見し、それを排除することによって真理に接近しようとするものである。立花希一「ポパーの批判的方法について」、ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、未來社、2001年、p. 44


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