「自立」を抑制する要素(島薗進)


 以上述べてきたように、新宗教の中には、特に法華系の流れには大変強い自立への志向性があります〔引用者註1〕。しかしそれと同時に自立を抑制する要素もある。これは宗教そのものにそもそもそういう要素があるとも考えられるのですが、さしあたり新宗教を例にして考えていく必要があると思います。
 自立を強く訴えているけれども、実際の活動を見ると、必ずしもそうなっていないということがあるのではなかろうか。その中で一番大きな要因というのは、集団の勢力の拡張維持ということが重要です。そこに力点がおかれるというところから来ているというふうに考えられます。これは先程申しましたように、現代の宗教というのは、いわば競争の中で、ちょうど会社と同じように、会社が利潤を拡大するために、他の、たとえば良い商品をつくる、良い国民生活を目指すということ以上に会社の利益ということを考えなければならない。それと似て宗教団体も本来の宗教的目標を追求するということと同時に、組織の利益ということに引っ張られるということがあると考えられます。
 二番目に言えるのは、自立というのは、そっちの方向ばかり強調すると独立や自己主張に向かっていき、人と人との関係を切り離す方へと向かうわけですが、宗教は人と人ともつなぐことを大事にするところがありまして、それは日本の宗教では和の重視ですね。人とよい関係を作っていく、情愛あふれる関係を作っていく、そういうことを目指すということがあります。
 ですからたとえば人に対して自分を出し過ぎるということを抑制する。立正佼正会などでは「下がる心」と言ったりしますが、自分を低くする、謙虚になるということですが、そのことの中に集団の調和を乱さないようにということも含まれる。そういうことが場合によっては自立に対する抑制要因として働く。創価学会でも、たとえば「異体同心」というようなことが言われるとすると、個々人がたとえば集団の方針に疑問を持ったとしても、さしあたり一致団結してやっていこうという方が重視される。それは当然宗教行動にとっては必要な場合があるけれども、場合によってその自立に対する抑制として働くことがあり得るのではないかと思います。
 三番目にあげられるのは、指導者崇拝と指導者への権威の集中ということです。指導者が尊ばれるのは宗教にとってある意味で当然のことでありますが、過去の宗教では最も偉大な指導者は過去の人であった。ところが指導者が現にいて指導しているという場合は、その指導者の偉大なモデルというものが少し意味がかわってくる。たとえばキリスト教徒ならば、イエス・キリストとはどういう人であったかということを、みんなあっちからもこっちからも議論して、ああだこうだと言っているわけですが、イエス・キリストが生きているとそういうことはあまりできない。そういう意味でいわば対象化(客観化)できないといいますか、そういうことがある。
 ところが日本の新宗教の特徴の一つは、次々と偉大な指導者が出てきて、指導者の個人指導体制、いわば全権体制というものがいつまでも続いていくという傾向がある。これも場合によって自立抑制要因になるのではないか。
 四番目にあげられるのは、さっきの体験主義との関係があるのですが、知的な反省や議論に対してそれをあまり重んじないという傾向がある〔引用者註2〕。これはそれこそ明治維新の時には、衆智を集めるということが大事なんだということで、近代化を始めたわけです。いろんな人がそれぞれの考えを出し合っていくべきだ、と。ところが体験主義的な考え方でいうと、そういう議論というのはあまり役立たない。理屈では分からない、また何が正しい知識かということを研究したり議論しだすと、生きた信仰生活から離れてしまうことで、そういうものには重きをおかない。こんなことがあるように思います。
 これらの要因が存在するのは、宗教であれば、避けがたいものなのかもしれません。宗教において、自立ということが絶対目標のように持ち出されても問題があるかもしれません。ですから宗教の立場として、自立というような目標は一部棚置きにして、他の目標を追求するということがあるのであろう思います。しかし今私どもが直面しておりますように、宗教と民主主義社会の間の関係がギクシャクしているような状況では、両者が自立という点で共有するものがあるということを確認することに、大いに意義があると思います。

(島薗進「宗教による自立の可能性─新宗教と宗教批判をめぐって」『東洋学術研究』第34巻第1号、1995年5月、pp. 140-142)


〔01.05.20 引用者註〕

(1) 友岡雅弥氏は「呪縛と閉塞から人々を解放」するところに「法華経の宗教性」があると言われている。「『法華経』の宗教性」(『東洋学術研究』第34巻第2号、1995年11月)を参照。

(2) このような体験主義≠ヘ仏教に反する。袴谷憲昭『道元と仏教 ── 十二巻本『正法眼蔵』の道元 ── 』(大蔵出版、1992年)のpp. 208-209 を参照されたい。


〔01.10.06 引用者付記〕

 島薗進氏は“創価学会に保持されている権威主義”についても論じておられるので、是非、同氏の「新宗教の大衆自立思想と権威主義─昭和期の教団を中心に」、島薗進編著『何のための〈宗教〉か? 現代宗教の抑圧と自由』、青弓社、1994年、pp. 221-224も参照されたい。


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