仏教学を離れた仏教評論などはまったく成立の余地がない
(三枝充悳)


 仏教と仏教学と仏教評論という三つのテーマのごく大ざっぱな記述をしたからといって、ここに、とくに大上段に構えた論稿を意図してはいない。
 ここに述べたいのは、きわめて平凡なただ一点に尽きる。それは、これら三者の流通がぜひとも緊密であらねばならず、あってほしい、というただそれのみにすぎぬ。

(三枝充悳「仏教・仏教学・仏教評論」『理想』第633号、1986年2・3月合併号、p. 71)


 仏典には、しばしばサンスクリット語に Buddhas()a(_)sana、パーリ語に Buddhasa(_)sana の語があり、このシャーサナ(サーサナ)は「教え」を意味するから、この語はほぼ「仏教」と漢訳された。

(同上、p. 69)


 仏教は、万人の知るとおり、ゴータマ・ブッダ=釈尊の教えにもとづく。釈尊の誕生や成道がなければ、仏教は存在しないとはいえ、それが教えとして説かれなければ、仏教の成立はあり得なかった。仏教は、本来はブッダ・シャーサナなのであり、教理・思想を本質とする。

(同上、p. 72)


 仏教学はいわば学として、ないし研究として、独立した拠点を有する。それはあくまでブッダ・シャーサナを可能なかぎりにおいて明らかにしたいと念じ、そのためにのみ精魂を傾注する。こうして仏教学関係の諸論文・諸著書は、研究者の能力や素質はもとより、種々の諸条件に限定されようが、数年、十数年、数十年を要して、ようやく結実し、学界に公開される。
 それらの語るところは重く、しばしばかなりとっつきにくい。しかしそれでも、それらの目ざすところは上述したとおりひたすらブッダ・シャーサナの解明なのであって、しかも執筆者は、それをもって満足せず、却ってむしろその公刊によって、さらに自省を深めつつ、その学─研究の充実をつねに求めてやまない。

(同上、p. 73)


 それでもなお、今日の仏教評論のインフレーションには、或る警告が求められる。すなわち、おそらくあらゆる仏教評論の発言者および執筆者のひとりひとりが、すでに充分に自覚しているであろうように、その(狭義の)仏教および仏教評論の根柢は、つねに必ず仏教学によって支えられる。実は上述したような仏教─仏教評論の定義や用例でさえ、仏教学の成果なくしては説明され得ないのであり、まして仏教学を離れた仏教評論などはまったく成立の余地がない。
 こうしてここに、仏教学に関する最少の関心と反省とが必須となる。

(同上、p. 72-73)


 そのほか、世に見られる数々の仏教評論のなかで、たとえば、「仏教は人格を磨く」などというときには、その「人格」の語について、また「仏教はヒューマニズムにもとづく」などと記す場合には、その「ヒューマニズム」に関して、その他あまたの発言や記述において、つねにそれらの述語に関する必要最低限の説明が付されていなくては、それらは評論にも値しないことが、充分に認識されていなくてはならないであろう。

(同上、pp. 74-75)

 

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