エゴイズムの昇華(友岡雅弥)


 最近、アメリカ日蓮正宗のメンバーとなった世界的科学者S氏の入信動機の話を聞いた。
 近年様々な分野で先端科学の進歩が目覚ましいが、氏は人類の未来に大きな危惧を抱いていた。科学者の中には自己の出世欲や名誉欲にとらわれている人々も少なくない。彼らは次々と素晴らしい業績を発表するが、その業績の中には、兵器としての使用を前提にしていて明らかに多くの人々に不幸をもたらすと思われるものがある。この実態を見て、氏は科学がこれからの世界にもたらすものに大きな危惧を抱いたのである。科学が巨大になった現在、一人の科学者のエゴは、地球的規模の影響を及ぼしうる。S氏は、その危惧の解決法を求めて様々な思想を遍歴した末、ついにエゴイズムの解消を説く(無我説)仏教にたどりついたという。
 確かに「無我」は、仏教の中心教義の一つである。縁起とか空とか様々な表現をとるが、結局はすべてのものに不変の実体(我)はないということである。しかし仏教の無我説は我というものの存在の否定を主張するニヒリズムではない。厳密にいえば、仏教で説くのは他者に主張する無我“説”ではなく、自己にいいきかせる無我“想”なのである。また、日本人がしばしば陥ってきた厭世主義でもない。無我“想”は、「私というものは存在しない」「これは私の所有物ではない」というような積極的意識を心の中で繰り返していくものである。私が存在するかどうかという“真理”は問題ではない。自分に対し、前述のような意識をあえて強いることにより、自己や周りのものへの執着を断ち(離欲という)、エゴイズムを超え、真の自己に目覚めようとするのである。
 仏教のあの壮大な体系も、無我を観じ、離欲するという基本構造を前提としている。また仏教が影響を与えたインドの論理学は単なる合理的な学問では人間の幸福につながらないとして、自己の身体を我でないと観じ、離欲することを目的としている。
 合理的な科学というものはそれ自体として、善悪に関係ないかもしれないが、現実にあらわれる姿としては、科学者というフィルターを通らねばならない。したがって、携わるものの生き方まで含んだ“知の体系”の構築が急務であろう。そして仏教はそのための有力な方法であることは、疑いない。

(『講座・教学研究7』、東洋哲学研究所、1986年、p. 176)


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