「われを善き友として」(増谷文雄)


 ここに、わたしは、もう一つ、「善き友のあつまり」という規定をもって、仏教の性格を規定してみようと思う。それは、いうまでもなく、サンガ(samgha,僧伽)すなわち教団の側面からみた仏教のありようを言表しようとするものである。
 ブッダはその教団を「サンガ」(僧伽)ということばで呼んだ。それもまた、はなはだ味わいふかいことばであるが、それはすでに当時の外道の指導者たちが、その率いる弟子たちの集団をいうにもちいたことばであった。経のなかにも、外道の指導者を語って、しばしば「サンガ(僧伽)をもち、ガナ(gana,衆)をもち」という句があらわれてくる。さらにいえば、それらの用語は、いずれも、衆議によって国事を決定する政体、すなわち共和制の政体における政治的集会をいうことばであった。ブッダがその一つ、サンガということばをもって、その教団を呼んだのは、そこではすべての者が平等であることにおいて、両者が相通ずるものであったからにちがいない。一つの経(増支部経典、八、一九、波呵羅。漢訳同本、増一阿含経、四二、四、須倫)は、そのことについて、つぎのような有名な一節をしるしのこしている。

たとえば、もろもろの大河あり。いわく、ガンガー(恒河)、ヤムナー(夜摩那河)、アチラヴァティー(阿夷羅跋堤河)、サラブー(舎労浮河)、マヒー(摩企河)なり。それらは、大海にいたれば、さきの名をすてて、ただ大海とのみ号する。それとおなじく、クシャトリヤ(刹帝利)、ブラーマン(婆羅門)ヴァイシャ(吠舎)、シュードラ(首陀羅)の四姓あり。彼らは、如来所説の法と律とにおいて、家よりいでて出家すれば、ただ沙門釈子とのみ号する
 インドはカースト(caste)の国である。彼らが家にあった頃には、家柄というものがあり、血統というものがあった。その厳重なさだめが彼らをがんじがらめに束縛していた。だが、ひとたびこのブッダの教団に入れば、それらの束縛する要素はことごとく払拭せられて、すべての者がまったく平等にされる。そのさまは、あたかも、もろもろの大河が海に注ぎ入ってしまうと、もはや、その名を失なってしまって、ただ大海とのみ称せられるに似ているというのである。そのように、ブッダの教団においては、すべての者がまったく平等であって、階級もなく、統率する者もなく、また、統率される者もなかった。ブッダその人さえも、その中にあっては、そのメンバーの一人にすぎなかった。
 むろん、この教えは、ブッダと称せられるこの人によって悟られ、この人によって人々に教示せられたものである。もしも、この人がこの世にいでて「さとり」を成就せず、さらに、起ってこの法を説かなかったならば、人々はついにこの法を知らず、この道をゆくものと成り得なかったであろう。仏教そのものがこの地上にあり得なかったわけである。その意味において、彼はまさしく仏教の教祖である。だが、さきにも言ったように、ブッダは、そのほかには、なにか神的属性を有するとか、救済の権輿を与えられたとか、そのような特別の存在ではなかった。彼もまた、法の証知と実証という一本の道を、みなと一緒に歩いている一人である。そこでは、ブッダとその弟子たちとは、たがいに手を携えて、おなじ道にいそしむ同行なのである。一つの経(相応部経典、四五、二、半。漢訳同本、雑阿含経、二七、一五、善智識)は、そのことにつき、つぎのようなブッダのことば記している。
 それは、ブッダがサキャ(釈迦)族のすむある村にいた時のこと、侍者のアーナンダ(阿難)がこのような質問を提した。
大徳よ、よくよく考えてみると、われらが善き友をもち、善き仲間のなかにあるということは、すでにこの聖なる道のなかばを成就したにひとしいと思われる。このことはいかがであろうか
 このような質問を提したアーナンダは、おそらく、善き友をもつことの重大さが、ようやく身にしみてわかってきたところで、その重きことは、このくらいに考えてもよいかと問うたのであろう。しかるに、ブッダはその考え方を否定して、それは「なかば」どころではない、この道の「すべて」であるということであった。そして、その例証をつぎのように語った。
アーナンダよ、それはこのことを考えてみてもわかるではないか。人々は、わたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより自由になることができる。病まねばならぬ身にして病いより自由になることができる。また、死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になることができる。アーナンダよ、このことを考えても、善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてであるという意味がわかるではないか
 そこでは、まず、ブッダが、その弟子たちにたいして、自分自身を「善き友」といっていることが注意されねばならぬ。ついで、この経の主題はそれであるが、「善き友」をもつということは、この道の「すべて」であるというのは、いったい、いかなる意味であるか。そのことを、とくと考えてみなければならぬと思うのである。

(増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、pp. 41-44)


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